前回からの続きです。


江戸時代、群馬県の高崎市吉井町

(かつての多野(多胡)郡)川内村で

名主を務めた、私の先祖の初代は

もろよし)という名前だった

のですが、この『諸(もろ)意味

ついて書きました。





「諸(もろ)」は、「室(むろ)」に通じ

(「三輪山」の別名「三諸山」は「三室山」ともいいます)

「室(むろ)には、室(しつ)…物を

保存・育成するために、外気を防ぐように

作った部屋という意があります。





原義とは、言葉が本来もっていた意

元々の意味のことですが

地名などにみる「モロ・ムロ」という

言葉の原義は、女性のお腹・子宮では

なかったかと考えています。



全国には、「モロ・ムロ」のつく地名が

たくさんありますが(「諸」「師」「茂呂」「毛呂」など)

今回は、その中のいくつかの「モロ」地名に

ついて調べて、「モロ・ムロ」に秘められた

謎について、書いてみたいと思います。


 

・群馬県みなかみ町『師(もろ)

 (かつての「月夜野(つきのよ)町」に属す)

・長崎県壱岐(いき)

 芦辺町『諸吉(もろよし)


まずは群馬県みなかみ町にある

(あざ)『師(もろ)です。


現在はみなかみ町に属していますが

もともとは、利根郡月夜野(つきよの)

属していて(2005年に水上町、新治村と合併し

「月夜野町」は消滅)「師」地名に、『月』

関係していたことが注目されます。



また、この場所は、「八塚(やつか)という

屋号を名乗った、私の先祖のルーツを考える上で

とても興味深いところで


この「師(もろ)から西方にある

石尊山(せきそんさん)中腹には


弥生時代の祭祀場跡

「八束脛(やつかはぎ)洞窟遺跡」があります。


同遺跡からは、縄文後期・晩期の土器とともに

大量の焼けた人骨が出土し、弥生時代中期

(約2000年前)の墓地と考えられています。


さらには、歯や指の骨に穴をあけた装飾品のほか

貝で作った腕輪なども出土し、海との関連

指摘されています。


ところで、房総半島と三浦半島には

海人族の足跡が良く残っていて

一帯には、波による侵食によってできた洞窟



Capri sziklák 2.jpg『wikipedia』より



「海蝕洞窟(かいしょくどうくつ)

多くありますが、この海蝕洞は

弥生時代に墓や祭祀の場として

利用されていたことがわかっています。


これらの中には、船を、棺や副葬品として使う

「船葬墓(せんそうぼ)も多く見つかっており

族長クラスとみられる墓もあり、古墳の副葬品と

遜色のない品発見されています。



寺院の胎内くぐりは、子宮を通っての

再生・新生を象徴していますが


海を向く洞窟をよみがえりの場と神聖視した

海人族独特の埋葬方法だと考えられます。


斎藤姓のルーツが海洋民にあることは、当ブログで

かなり書いてきたので、繰り返しませんが

長崎県で「サイトウ」さんが、多く分布するのは

玄界灘の交易中継地点にあたる「対馬」「壱岐島」です。



「八束脛洞窟遺跡」も、この海蝕洞に見立てた

陸にあがった海人族の祭祀場跡と考えられます。


ではなぜ、海の人が内陸に入り込むのか?

という疑問が出てきますが、師地区には鉱山があり

江戸時代には金が、近代には銅が採掘されて

いました。八束脛洞窟に埋葬された

海人族たちは、この貴重な鉱物(金属)

もとめてやってきたのでしょう。





また余談ですが、「師」より東の場所には

私の先祖が名主を務めた川内村と同名の

「河内神社(かわうちじんじゃ)があります。

(「大己貴命」「少彦名命」「日本武尊」等々を祀っています)



さて次は、玄界灘に浮かぶ離島、長崎県の

壱岐島芦辺町(あしべちょう)『諸吉(もろよし)

という地名について、みてみたいと思います。



壱岐島は、古くから海上交易の中継地点

として栄えてきました。中国の史書

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には

「一支國(いきこく)」と記載されています。



朝廷が延長5年(927年)に編纂した

全国の霊験あらたかな社を記した

延喜式神名帳には、壱岐国(壱岐島)について


名神大社「月讀神社(つきよみじんじゃ)

あると記されています。ところが

この月讀社は、後に所在不明となり

江戸時代の初期に調査がおこなわれ


芦辺町の国分東触(こくぶひがしふれ)にある

神社が、名神大社月讀神社比定されました。





しかしながら、この調査は間違っていた

のではないかとの、疑問をもたれていて

名神大社という社の規模を考慮すると


芦辺町箱崎釘尾触(くぎのおふれ)にある

「箱崎八幡宮」が、延喜式で指定された

本来の名神大社「月讀神社」だろうとも

いわれています。


いずれにしろ、『諸吉』という地に

『月』の社、それも「名神大社」がある

ことが、注目されます。



また、芦辺町の深江鶴亀触(ふかえつるきふれ)

ある「原辻󠄀(はるのつじ)遺跡」からは

旧石器時代の石器も発見されていて、古くから

人が居住していたことが、わかっています。





また、同遺跡は弥生時代から古墳時代に

かけて、周囲に堀をめぐらせた巨大な環濠集落

であったことが判明しており、かつての一支国

の王都であったと考えられています。



炭化した米も発見されており

広く水田稲作が営まれ、大量の鉄器も

出土していて、古墳時代前期の建物跡からは

『炉(ろ)で、鉄を製錬する際に出る

鉄滓(てっさい)が確認されており


当初は、朝鮮半島からの舶載品である

板状の鉄原料「鉄艇(てってい)の加工から

始まり、弥生時代後期から古墳時代にかけて

本格的な鉄器生産が始まったのだろうと

指摘されています。





以上、二つの「モロ」地名が

・群馬県(かつての「月夜野町」に属す)『師』

・長崎県壱岐島(海上交易の重要な中継地点)『諸吉』

「金属」「鉱山」「月」「製鉄」

関係する、事例をながめてみました。



ところで、鉄器の製錬について

古代から近世にかけて、日本で独自に発展した

製鉄法に、『たたら製鉄』があります。


どのような製法かというと

粘土で作った炉に、砂鉄や鉄鉱石を入れ

(ふいご)という送風装置、木炭を用いて

炉内の火力を増し、三日三晩の操業を経て


純度の高い鉄、「玉鋼(たまはがね)」を製錬する

というもので、日本刀に用いる鉄は

この「たたら製鉄」でしか、得ることが

できません。





次回は、「たたら」から、古代の

「鉄」と「女性」の関係について

書きたいと思います。


続きます。