「積木くずし」

穂積由香里の生涯

1967年ー2003年

 

自著『娘の積木くずし』の扉に掲載の写真

 

『積木くずし』は、1982年(昭和57年)に俳優の穂積隆信さんが妻の美千子さんと一緒に、非行に走った一人娘・由香里さんと葛藤した日々を赤裸々に綴った手記です。副題は「親と子の二百日戦争」となっています。

当時は、子どもの非行や家庭内暴力が大きく社会問題化していたことから、この本は300万部とも言われるベストセラーとなり、何度も映画化・テレビドラマ化され、それらも大きな話題となりました。

こうしたことから、これまで「積木くずし」と言えば非行に走った子どもを持つ親の立場、両親の苦悩が話題の中心でしたが、このブログでは「積木の子」と言われた娘の由香里さんの揺れる思いと行動に焦点を当て、35年という彼女の短い生涯を追いかけてみました。

なお、煩雑さを避けるため、本文中では原則として人物の敬称(さん)は省いています。

サムネイル

 

人は誰しもただ一度の人生を生きるものですが、生まれ落ちる環境、つまり父母、家庭環境、遺伝的生理的な素質、時代状況などを選んで生まれることはできません。

そしていずれかの要因が、時に運命としてその人の一生を大きく左右してしまうことがあります。

 

穂積由香里(戸籍上の姓は鈴木)の生涯は、与えられた運命の奔流に時に流され時に抗(あらが)いながら、何度も心と身体を傷つけ、ついに力尽きた35年だったと思えてなりません。

 

生まれついた病弱

1967(昭和42)年12月16日、由香里は東京・港区の虎の門病院で、穂積隆信と美千子夫妻に初めて授かった一人娘として生まれました。

 

虎の門病院(当時)

 

予定日をひと月も過ぎての出生にもかかわらず、体重2600gと小さな赤ん坊でした。

両親は娘の誕生をとても喜びましたが、由香里の体は生まれながらにして病魔におかされていたのです。

 

父に抱かれて

(『娘の積木くずし』[以下「自著」]より)

 

母の美千子は長崎出身の被爆者で、医師から原爆症との診断を受けたわけではなかったようですが、時おり襲う目の痛み(左目は失明同然になる)やひどい頭痛の発作に悩まされていました。

 

内臓奇形(左卵巣の奇形)で生まれた由香里の病弱な体は、母の被曝の影響ではないかと両親(特に母親)は心配していたようです。

 

生後7ヶ月で脱水症状を起こし虎の門病院に入院した由香里は、その後も入退院を繰り返しました。

 

生後7ヶ月(「自著」)

 

3歳の時、左の卵巣が腫れあがったために、摘出の大手術を受けます。

五分五分と言われた手術は成功しましたが、その後に長期間投与されたステロイド(副腎皮質ホルモン)剤の副作用と生涯続く腎不全に由香里は苦しめられることになります。

 

副作用の一つが肥満で、さらに手術後すべて抜けて生え替わった髪の毛は、光の具合ではブロンドに見える薄い赤茶色でした。

 

3歳ごろ母と(「自著」)

 

また、4歳9ヶ月には、腸に腫瘍が見つかります。

検査の結果、幸い良性だと分かり、手術によって快復しますが、その後も入退院を繰り返した由香里には、「病院が第二の我家みたい」という状態が続きました。

 

【灰色の小学校時代】

1974(昭和49)年、由香里は千代田区立永田町小学校(統合により現在は麹町小学校)に入学します。

 

旧永田町小学校の校舎

戦前に建てられたコンクリート造りの昭和モダン建築

 

彼女が「私の小学校時代……思い出したくもない」と書いたのは、「入院ばかりしているから勉強なんかまったくできない劣等生」であっただけでなく、ずっといじめの対象にされたからです。

 

いじめの原因は、先に書いた薬の副作用による肥満と赤い髪でした。

小学6年生で身長145cmに対し体重が67kgもあったそうですから、赤い髪の色と合わせて目立ったのでしょう。

 

身体的暴力はなかったようですが、「デブ、ブタ、あいの子」「赤毛のアン」「女関取」など言葉の暴力でいじめられた由香里は、言い返すこともできずに何度も家に泣いて帰ったそうです。

 

おまけに、子どもの世界では父・隆信が芝居で悪役や敵(かたき)役をすることが多かったこともいじめの遠因になったようで、「そのころ、正直言って父の職業をあまり良く受け止めていなかった」と彼女は振り返っています。

 

しかし彼女は、親に心配をかけたくないという気持ちもあり、いじめを誰にも打ち明けることなく、じっと耐えて過ごしました。

 

何の楽しいこともない灰色の小学校時代。子供たちが体と心を育成していく大切な時代に私は孤独と病気に耐えて、子供の特権のような遊びとか笑いとか、まったくない灰色の世界を漂っていた。

(「自著」27ページ)

 

それに耐えられたのは、「由香ちゃん、ごめんね。ママが弱く生んだせいで苦しめちゃって……」と謝りながら、いつも側にいて慰め励ましてくれるやさしい母がいたからですが、それに対して「父というものの存在は私にとって疑問だった」と彼女は自著で述べています。

「私には幼いころの父との記憶があまりない。(中略)というのは、父はあまり家にいなかったから」です。

 

遊びも笑いもない灰色の世界は、父親不在の家庭にも連続していたのです。

 

私と母は寂しい食卓を囲んで、食事を食べる。はずむ会話なんかあるはずない。だって、私は学校での出来事などひとつも報告するわけでなく、友達をつれてくるわけでもなく、何も楽しいことなんかないのだから。

もっとつらいのは日曜日……。学校がないのは救われたけど、父がいなくてどこへも遊びにつれていってもらえない。どこにもいかなくても、せめて3人でいるだけでも良かったのに、父は帰らない。

(「自著」30ページ)

 

父親の帰らぬ理由が「仕事一筋だったら、まだ良かった。仕事が大変なかわいそうなパパとでも思えたかもしれないけど、父が帰宅しない理由はもっと別にあったのだ。それは父に愛人がいた」からで、「本当はうちは元々、崩壊家庭だった」とまで彼女は書いています。

 

娘にかかりっきりの妻と心の距離が生まれたのでしょうか、隆信が目黒区の蛇崩(じゃくずれ)に愛人(「じゃくずれ」は愛人のニックネームでもあったそうです)を囲い夜遅く帰宅したり家に帰らなかったりした期間は、由香里がいじめに耐えていた小学校時代に重なっています。

 

子どもだった彼女は、愛人関係についてよく分からなかったでしょうが(それと知ったのは14、15歳になってだそうです)、小学1年生のある日、それまで「じっと耐える人」だった母が怒りを爆発させ、娘の目の前で夫と大げんかしたのを覚えているそうです。

その時、父は家を出て愛人のもとに行ったまま、1週間ほど帰りませんでした。

 

「子供が非行化する一番の原因は何といっても家庭の問題だろう。(中略)私って何て不幸……こんな親の元に生まれて』そう感じてしまうと危ない。すでに親を呪いはじめて、それが非行につながっていく」と由香里は書いています。

 

【リンチと非行

「愛人騒動」がまだ尾を引いていた1980(昭和55)年、由香里は千代田区立麹町中学校に学区指定で入学します。

 

千代田区立麹町中学校(当時)

 

麹町中学は当時、都立日比谷高校から東大というエリートコースの流れに位置づけられた「名門公立中学」で、越境入学者も少なくなかったそうです。

 

「劣等生」の由香里には厳しい環境だったでしょうが、健康が回復した彼女は、「勉強ではついていけない落ちこぼれ」ながら、剣道部に入って楽しい中学生活をスタートさせます。

 

ただ、進学校では「落ちこぼれの少数派」の側に身を置かざるをえなかったため、非行の道に染まっていくことになります。

 

中学1年の夏休みが近づいたころ*、学校が終わって校門を出たところで待ち受けていた他校のツッパリ女子生徒4、5人にからまれた彼女は、自宅に近い赤坂氷川神社まで連れて行かれます。

 *『積木くずし』ではこの出来事は、「中学1年も終わりに近い3月上旬のこと」と書かれています。真相は分かりませんが、「3月上旬」というのは後で見る「レイプ事件」だったのではないでしょうか

 

赤坂氷川神社

 

実はそれは、麹町中学の先輩ツッパリ女子生徒のさしがねだったと後で知ったそうですが、由香里は「お前、俳優の娘だろう、だからって、髪の毛染めて格好つけるんじゃねえ、ふざけるなよ、このデブ」と何度も顔を殴られ、「染めてません」と抗弁するほど「生意気だ!」とリンチがエスカレートし、押さえつけられてカミソリで眉を剃られ顔を5センチも切られたのです。

 

しかし、それだけではなかったようです。

父・隆信が『由香里の死そして愛 積木くずし終章』に載せている、由香里の死後に遺品の中から見つけたという彼女の文章には、リンチの場に男子生徒が現れ、「顔を切られた後、押し倒されて性的ないじめを受けた」と書かれているのです。

 

幸い顔の傷は浅く、またレイプまではされなかったようですが、彼女は精神的に「致命傷」を負い「絶望の縁」に立たされたと感じたそうです。

 

「病気も太ったことも、勉強ができないことも、赤い髪も、すべて私が悪いんじゃない」というぶつけようのない怒りは両親に向けられ、「父が俳優のため私はリンチを受けた」という思い込みから、「特に父親に憎しみがむいた」と先にあげた文章で由香里は書いています。

 

思い起こすと、これが私の反抗の始まり、このことから私の「積木くずし」は始まったのです。(中略)リンチを受けた悔しさを、父や母にぶつけたのです。どうしたら、両親が困るんだろう、そればかり考えました。それには、私が悪くなればいいんだ、そう思いました。忘れもしません。それから私は、自分の意志で、自分自身を変えていったのです。それから、格好も、俗に不良を真似し、行動も、不良らしく振る舞いました。最初は真似のつもりが、気が付いた時は、すっかり本物になってしまったのです。

(『由香里の死そして愛』92−93ページ)

 

いかにも13歳の未熟な思考ですが、「スカートのたけを長くして、カバンをすり潰し」、「態度や歩き方、言葉使いまで」不良に変身した娘に親は驚き、学校に行くと「クラスメイトも先生も私を見てたまげている。みんなに注目され、恐れられている自分が誇らしくてならなかった」そうです。

 

ある高校の生活指導部が作画した

当時の不良女子生徒の服装(1975年)

 

こうして由香里は、家出、外泊、シンナー吸引、ディスコ、竹の子族、暴走族……と、非行少女の「ワルの道」を突っ走ります。

 

その心理を、10年後に『娘の積木くずし』を書いた時の23歳の由香里は、次のように自己分析しています。

 

私は非行という非行をすべてやった。世の中をあざわらうような悪いことは覚えると楽しくてしかたない。ワルとして注目されるのも楽しい。それは、幼児がわざと親の関心をひくために物を壊してみたりするそんな甘えと似ているかもしれない。不良たちは親の愛に恵まれずに、物心ついてから、そんな幼児期の行動をするのかもしれないと私は今になって思うのだ。

(「自著」43ページ)

 

【おぞましい出来事】

不良グループに加わってしばらくしたある日、「本物の不良少女になってしまったきっかけ」となる、思い出すのもおぞましい出来事が起こります。

 

グループの先輩男子から呼び出しを受け彼らのたまり場になっているアパートに行った由香里は、そこにいた中学の先輩5、6人から殴られレイプされたのです。

男性経験のなかった彼女は、恐怖のあまり途中で失心したそうです。

 

このように、リンチでの「性的ないじめ」と「レイプ」と、彼女は2度も性暴力被害にあったようなのですが、両親はそのことを知りませんでした。

 

このレイプ事件も、生意気だと彼女のことを良く思っていないグループの先輩女子が仕組んだ制裁だったそうです。

 

性暴力被害者がおちいりがちな自罰的心理ですが、「家にたどりついてから必死で体を洗い続け」とめどなく涙が出てとまらなかった由香里は、「ただ、もう自分が元に戻れない、もうすっかり汚れきった本物のズベ公(不良少女の俗称)になってしまったんだと思った」そうです。

 

私にとってこの事件は、その後の私を左右する、人生の最大のターニングポイントだったのかもしれない。私は、この時に思った。「もう、こんな私なんか、どうなってもいいや」

この事件後の私はそれこそ急降下していった。自暴自棄になっていたから、自分がどんどん汚れていくことをむしろ望むようなところもあったのだ。(中略)それからの私は本当にひどかった。(中略)自分を捨てた人間ほど強くて怖いものはないと思う。そんな少女だった。

(「自著」51-52ページ)

 

ここまで見てきた「積木くずし前史」を知らなければ、病弱な娘を案ずる優しい両親がおり、親からの虐待を特に受けたわけでなく、経済的に困窮してもいない家庭の娘であった由香里が、一変してなぜあれほどの非行に走ったかは不可解でしかありません。

 

娘のあまりの変わりように驚いた両親の困惑はまずその不可解さにあり、うろたえ振り回されながらも、「不良」になった娘をなんとか立ち直らせようと、彼らは警視庁少年課の専門相談員・竹江孝氏のアドバイスを受けながら、1981(昭和56)年から翌年にかけて「親と子の200日戦争」を闘ったのです。

 

【悲劇をもたらした涙の書】

1982(昭和57)年9月、穂積隆信は『積木くずし』(桐原書店)を出版します。

 

 

出たばかりの著書を手に語る穂積隆信

(1982年10月15日)

 

2005年に出した同書完全復刻版の「あとがきにかえて」で隆信は、この本は「自身への戒めと悔恨の書」「我が家にさまざまな悲劇をもたらした涙の書」「親と子の愛の在り方を教えてくれた書」だったと書いています。

「さまざまな悲劇をもたらした涙の書」とはどういう意味なのでしょうか。

 

由香里は次のように書いています。

 

この本はドキュメントで私の非行の軌跡を追ったものである。それは、1人の少女が転落していき、最後にほんの少し親子の交流ができて、立ち直れるのではないかという光明がさしたところで終わっている。この内容は、父の秘密が書かれてないことと、私が非行に入った原因がよくわからないこと以外はすべて真実だ。

(「自著」64−65ページ)

 

「父の秘密」とはもちろん隆信の愛人問題であり、その結果であり原因でもある両親の不和です。

それは由香里が非行に走った原因の底流にあったものですが、そこには触れず、先にあげた娘の辛い体験や苦しみについてもほとんど知らないまま、娘の気持ちを置き去りに親目線だけで書かれたものが、由香里にすれば『積木くずし』でした。

そのすれ違いが「悲劇」を生むことになります。

 

【悪魔のように描かれた非行少女】

『積木くずし』は、またたく間に2百数十万部を売り上げる大ベストセラーになり、毎月一千万円を超える印税収入が隆信の銀行口座に入りました。

思いがけない本の売れ行きに、わけもわからず由香里も両親と一緒に喜びます。

 

1983(昭和58)年2−3月、本をもとにした高部知子主演のテレビドラマ(TBS系列)が放映され、最終回は45.3%という驚異的な視聴率を記録しました。

 

読売新聞(1983年2月5日夕刊)

 

テレビドラマの1シーン

 

ところがドラマでは、「ケバケバしい鬼のような少女が、『ババアー、金出せよー』と母親の髪の毛をつかんで引きずり回している場面」など、「ただ非行し、親を泣かせる悪魔そのもの」としてしか自分が描かれていないことに衝撃を受けた由香里は、あらためて本を読んでみて本自体の内容がそうだったのだと気づくのです。

 

私の心も気持ちもどこにも書かれていない。(中略)この本では私の心の悩みや苦しみも伝わらない。私はあんなに苦しんだのに……。これではただのシンナーぼけのアホな女じゃない。

その時、私は反省した以上に親を恨んだ。(中略)うちには思わぬ大金が入り、信じられないほど一瞬にして金持ちになったのだが、これも私の過去を本にしたおかげであると思った。

そう思うと、親が私を利用したとしかとれなかった。私は、石を投げられて、非行少女でシンナー狂いのレッテルを貼られ、世間にさらしものにされたのに、親だけは被害者でかわいそうな親だという目で同情を買っているのだもの。なんて、不公平なのだと、私は怒りに燃えていた。

(「自著」67ページ)

 

『積木くずし』は、両親が娘を非行から立ち直らせかけたように終わっていますが、「それはほとんど父の勘違い」で、この本の出版は由香里の非行をさらに悪化させたのです。

 

【狂った家族の生活】

『積木くずし』は発売直後から爆発的に売れ、わずか2ヶ月で2千万円もの印税が入ります。

驚いた穂積夫妻はこのお金の使い道を相談し、1983年1月5日、親子3人の名前(隆信・美千子・由香里)の頭文字をとった「タミユ企画」という非営利の会社を2千万円の印税をもとに設立しました。

 

美千子が代表者となった「タミユ企画」は、子どもの非行に悩む親や本人の無料相談を目的とし、呼ばれれば地方にも無償で出かけ、また必要とする人のための宿泊所ともなる事務所を借り、スタッフも雇いました。

 

毎日新聞(1984年9月19日)

 

それは、自分たちの体験や知識で、同じように困っている人の助けになりたいという善意からのものでしたが、肝心の自分たちの足場が固まっていなかったのです。

 

ただの俳優・主婦が、時の人として悩める人の相談への対応や講演旅行に大忙しの毎日となり、夫婦は家を留守がちになって自分の娘に接する時間が少なくなります。

 

相談の電話を受ける美千子と隆信

 

こうして、親子関係がさらに危うくなる一方、かつてない大金を手にした3人の金銭感覚は狂い始めます。

赤坂の古いマンションの自宅をリフォームしたのをはじめ、美千子は高価な洋服や靴、毛皮のコートやアクセサリーなどを買い、隆信は派手に飲み歩き、一家は1982・83年と連続して年末年始にスタッフも引き連れハワイ旅行もしています。

 

(右)と(「自著」)

 

自分の過去をさらしものにして得たお金だと感じていた由香里も、それを使う権利が自分にはあると、多い月には洋服など150万円もの買い物を現金やツケでするようになりました。

 

【壊れる夫婦関係】

娘が非行に走ったことは、皮肉なことに壊れかけていた夫婦仲を一時的にせよ修復する効果をもたらしました。

父は、娘が心配で毎日家に帰るようになり、目黒の愛人との関係も切れたようです。

 

ところが、莫大な印税が入ったことから、夫婦の関係は決定的に壊われることになります。

 

合わせて3億円を超える印税収入などの金銭管理を、隆信はすべて妻に任せていました。

そこで美千子は、タミユ企画にかかる経費や先に見た家族の「浪費」の資金をやりくりしていたのですが、湯水のようにお金が出ていく一方で、彼女が予想していなかった高額な所得税や法人税など税金の支払いに窮するようになります。

 

詳細は省きますが、お金を工面するために美千子が、隆信が養家(鈴木家)から相続した三島の土地を無断で売ったことを彼が知って怒り、また彼女が金銭管理で頼っていたタミユ企画の監査役の男性による横領や妻との関係を疑ったことから、夫婦関係は修復不可能なまでに悪化していきました。

 

夫婦は、1987(昭和62)年の別居と離婚に行き着き、由香里もそれに巻き込まれるのですが、それについては後で触れることにします。

 

話が先走りましたので、時間を巻き戻して由香里の後半生を見ていくことにします。

 

【現実逃避とシンナー】

「シンナー遊び」と言われた有機溶剤の吸引による酩酊が若者の風俗として現れたのは、1967(昭和42)年夏に東京・新宿区駅前広場の「フーテン族」の間でとされていますが、その後それは10代の若者に急速に広がり、下図のように検挙補導者数がピークに達するのがまさに由香里がシンナーを吸い始めた1980年代初めなのです(福井進「有機溶剤乱用・依存の実態と動向」『精神保健研究』第40号、1994)

 

「私は現実から逃避したかった。自分のことも親のことも学校のことも考えるのもうんざりしている毎日。そんな時、幻覚を呼ぶシンナーはうってつけの遊びだったのだ」という由香里は、自著で次のように書いています。

 

なぜ、シンナーがいけないのかわからなかった。(中略)大人たちだってアルコールを飲む。それとほとんど変わらない気がした。みんな、現実の苦しみを忘れたいから飲むのだから、私たちも現実から逃避したいがためにシンナーに頼っていた。

(「自著」59ページ)

 

確かに、アルコールにも現実逃避の飲酒や依存症があるという意味ではシンナーと程度の差かもしれませんが、問題はその差、つまり心身を蝕む毒性と依存性が、シンナーは(麻薬や覚醒剤はさらに)アルコールより桁違いに大きいのです。

 

悩みを抱えた若者にとってシンナーで簡単に現実逃避できる誘惑は抗しがたい力を持っており、由香里も「私はシンナーが怖いことだとよくわかっていた。けれど、その時にはもう中毒になっていて、それから抜け出せない状態だった。(中略)私の元々弱い体がどんどん蝕まれていくこともわかっていたが、もう、死ぬなら死んでも仕方ないとさえ思った」そうです。

 

それでも彼女は、いく度となくシンナーをやめようと決意し、中学2年だった1981(昭和56)年9月には虎の門病院に自ら望んで入院するのですが、退院するとまた元の生活に戻るを繰り返します。

 

やめられたと思っても、何らかのストレスをきっかけにまたシンナーに手を出してしまう——これが、一度それにはまると抜け出すことがきわめて難しいシンナー(薬物)依存の怖さです。

 

『積木くずし』が出版された翌1983(昭和58)年、アルバイト先の喫茶店で知り合った19歳のトラック運転手「健ちゃん」とつき合い始めた15歳の由香里は、思うように会えないすれ違い生活などのストレスから、しばらくやめていたシンナーに手を出すようになります。

 

そして同年10月18日、シンナー(有機溶剤の総称)の一種であるトルエンを持って歩いていた彼女は、薬物及び劇物取締法違反容疑で新宿署に補導されました。

 

家庭裁判所の審判で21日間の少年鑑別所送りになった由香里を新聞は、「『積木くずし』父は悩む」「一人娘 再びつまずく」と全国に向けて報じました。

 

朝日新聞(1983年11月6日)

 

母と16歳の由香里(「自著」)

 

【覚醒剤での逮捕】

トルエン所持で補導されてから2年後の1985(昭和60)年8月12日、17歳の由香里は覚醒剤等取締法違反容疑で逮捕されます。

彼女によると、覚醒剤は女友だちから訳ありだと頼まれて預かったセカンドバッグに入っていたもので、自宅に乗って帰ったタクシーの中に置き忘れたことから発覚したのです。

 

友だちを警察には売らないツッパリの意地と、もしチクったら報復が怖いという理由から彼女は罪をかぶり、今回は少年鑑別所では終わらず、初等少年院送りになりました。

 

少年院に入っても「(覚醒剤は)自分がしたことではないというのがあるから、反省とか考えられなかった」彼女は、ただ「早く出たい一心」で「模範生として真面目に生活」し、最短の4ヶ月で出ることができました。

 

シンナーとは比較にならぬ重い覚醒剤事件だけに、反省はないと強がりながらも、この時ばかりは親を悲しませ迷惑をかけてしまったことへの心の痛みと、「これからまともに成人していけるのだろうかという不安」に由香里はかられたようです。

 

【芸能界へのデビューと挫折】

18歳になっていた由香里は、「そうそう遊んでばかりはいられない」のでなんとか自活したいと考え、親に頼んで「メイクアップアーチスト」や「ネイル」の学校に入りますが、いずれも長続きしません。

 

由香里によると、そんな娘に父親が1986(昭和61)年夏ごろ、「芸能界に入って、お父さんと一緒にがんばってみるか」と勧めてくれたそうです。

ただ母親は、1987年に出した『残影』の中で、「お父さん、私ね、女優になりたいの」と由香里の方から「将来の夢」を口にしたと書いています。

 

どちらにせよ、由香里が「芸能界なら、私の過去も関係なく、名前も顔も知られているからやりやすい。もう私に残された世界はこれしかないように思えた」、「過ちを背負った少女の私でも、この世界なら受け止めてくれるのではないかと思った」と自著に書いているところからすると、自分の将来に不安を感じていた彼女としては、父親のコネもあり覚醒剤の前科がある自分でも芸能界なら生きる道があると、その時は考えたのでしょう。

 

こうして由香里は演劇の基礎も学ばないまま、父親が、出演していた日本テレビのドラマ「妻たちの課外授業Ⅱ」に自分の娘の役を頼み込んで作ってもらい、「穂積由里」という芸名で〝一夜漬けのデビュー〟(『残影』)を果たします*。

 *1986年12月17日放映の第11回「積木くずしを越えていま再出発」に出演?

 

 

上の『FOCUS』の記事のように、由香里と父親には「話題の親子」としてマスコミの取材が殺到したそうです。

 

しかし、俳優としての夫をずっと間近で見てきた母・美千子の目には、娘は次のように映っていました。

 

現在の由香里は、(中略)「三度の飯をガマンしても演劇の勉強をしよう」という意欲が足りないと思っています。そこまで貪欲にならないと、女優としては大成しないでしょう。

(『残影』225ページ)

 

それは図星でした。

 

自著で由香里は、「もう私に残された世界はこれ(芸能界)しかないように思えた」と書きながら、2ページ後では、「私もちょっと日の当たる場所で華やかな生活を送ろうかな……と軽い気持ちで芸能界に飛び込んだ」と書いているのですから……。

 

それでも由香里は、芸能界に決意して飛び込んだのだと小川は思います。

ところが、芝居経験もない彼女に、そこは思ったほど簡単な世界ではなかったのでしょう。

母親が書いたように、由香里には貪欲に努力を重ねて女優になるという道もあったはずですが、彼女にそれはできませんでした。

 

何かに失敗した人が、そのことで自尊心が傷つくのを避けようと、「本気でやったわけじゃないし……」と言い訳するのは、よくある人間の心理です。

由香里が「軽い気持ちで芸能界に飛び込んだ」と後で書いたのは、そうした心理からではなかったでしょうか。

 

ここにも、不本意な現実に向き合うことができず逃避しようとする、シンナー吸引に通じる彼女の弱さが現れているように思われます。

その弱さは、病弱に生まれついた運命が災いして、小学生のころから嫌々ながらでも粘り強く何かに取り組むという訓練を積むことができなかった彼女の不幸だったのではないでしょうか。

 

その後、親子3人でインタビューを受けるテレビ番組の出演はありましたが、「女優」としての仕事が「穂積由里」に来ることはなかったのです。

芸能界は過去の過ちを問わない「どこか甘い世界だ」と彼女は書いていますが、甘かったのは由香里自身だったでしょう。

 

早々に女優熱の冷めた彼女ですが、1987(昭和62)年8月15日に『穂積由香里写真集』を出します(加工は小川)

 

 

 

 

写真集の出版について由香里は、手記の中で次のように述べています。

 

こうしてヌードになったのは、はっきり言って、両親からの独立宣言なのです。そして『積木くずし』の暗いイメージから、明るい自分に生まれかわる決心をしたまでです。

もう、親のお金をあてにしたりする生き方をやめ、自分で儲けて、自分で生きていく決心をしました。

自分の裸で収入が得られれば裸にもなります。

自分の道を自分で切り開いて生きていくためのアピールなのです。

(『残影』230ページ)

 

彼女のこの言葉に嘘いつわりはなかったでしょう。

『積木くずし』が出てからのお金と「積木の子」というレッテルの呪縛、さかのぼれば生まれてからの運命に流される生き方から抜け出したいという由香里の気持ちは本当だったと思うのです。

 

しかし彼女の思いとは裏腹に、この写真集自体、下の『FLASH』の見出しのように、「積木くずし穂積由香里」が脱いだという話題性と不可分でした。

 

 

写真集は「まあまあ売れ」、一時は『平凡パンチ』『GORO』などの雑誌のグラビアを彼女のヌード写真が飾りましたが、しょせんは一過性に終わり、由香里はグラビアアイドルになれるでもなく「あっという間に芸能界を断念」しました。

 

「人生の最大のターニングポイント」となりえたかもしれないこのチャンスを、彼女は自身の甘さと弱さから活かすことができなかったのです。

 

【両親の別居・離婚】

穂積夫妻の関係が、深刻な金銭トラブルから崩れていったことは先に触れた通りで、1987(昭和62)年3月、母は娘を連れて家を出ます。

 

美千子としては夫との冷却期間を置くぐらいのつもりだったようですが、タミユ企画の監査役だった男に操られて自分を裏切ったと思い込んだ隆信の妻への不信感は抜きがたく、ついに離婚となりました。

 

ただ、かつて父親を憎んだこともあった由香里ですが、自分を親身に案じてくれる隆信の気持ちを理解してからの父娘の仲は良かったようです。

 

 

母と家を出た由香里は、両親の離婚後に一時期父と一緒に暮らします。

しかし、覚醒剤のことなど過去の非行を蒸し返しては小言をいう父親とケンカが絶えなかったため、母親の元に戻りました。

 

「穂積のイメージには、由香里が〝お嬢様〟でいることが望みなんです」「「品のいい娘」が好きなんです」と美千子が『残影』(227ページ)に書いていますが、娘へのそうした期待を父親は諦めることができなかったのでしょうか。

 

母の元に戻った理由には、元々健康不安のある母が胃がんの手術(1986年5月)をしたばかりだったので、ひとりにさせられないという娘の思いもありました。

 

美千子と一緒に暮らした由香里は、母親が赤坂に出した「積木の家」というナイトクラブをホステスとして手伝いました。

 

ホステス姿の由香里(「自著」)

 

【アメリカ留学と結婚・離婚】

1987年12月21日、20歳になったばかりの由香里は、英語を学びたいと2年間の予定でアメリカに渡り、知人のいたロサンジェルスの学校に入ります。

 

英語を学ぼうとしたのは、留学経験のある遊び友だちの女性が、バーで外国人と楽しそうにおしゃべりしているのを羨ましく思ったからです。

 

彼女自身「単純な動機」と書いていますが、この留学にはかつてのような両親からの独立や自分の生きる道の模索といった意味も気負いもありませんでした。

 

誰も「積木くずし」など知らない環境での生活は、由香里にとって「本当に生きている実感と、人生の楽しさを満喫した、素晴らしい時だった」と書いています。

 

ビーチで友人と遊ぶ由香里・左(「自著」)

 

【結婚と離婚、そして覚醒剤】

酷な言い方かもしれませんが、穂積由香里の人生を振り返った時、分水嶺となったのは芸能界で生きようとチャレンジした19歳の時で、それを不本意な方向に越えてしまってからの彼女は、落日を追うように残された命を生きたとしか思えません。

 

アメリカ留学は彼女の気持ち的には「黄金期」だったとしても、その輝きは沈みつつある夕陽がひときわ大きく見えながら放つ光にすぎなかったのではないでしょうか。

 

ロスで由香里は、デザインの勉強に来ている日本人留学生と恋に落ち同棲します。

 

彼は大きなパン製造会社の「おぼっちゃま」で文字通りの遊学だったのでしょう、体調を悪くして予定の2年に満たず1989(平成元)年1月に帰国した由香里に学校をやめてついてきて、美千子の家に3人で暮らします。

その後2人は婚姻届を出しますが、実家からの仕送りがなくなり家でゴロゴロするだけの夫への愛はすぐに冷め、わずかひと月で離婚しました。

 

その後、母親が勤めていた不動産会社で働き始めた由香里は、友人に紹介されて同業者の男性と知り合い好きになります。

ところがこの男は、暴力団関係の人物で、しかも覚醒剤の常用者でした。

 

彼の家に行くうちに由香里は誘われて覚醒剤を打ち、その快感から常用者になってしまうのです。

 

覚醒剤でやつれていく娘を心配した母親が思いあまって赤坂署に通報したことから、由香里は1990(平成2)年5月に身柄を拘束されます。

体調を考慮して入院措置となった彼女は、退院後の7月2日に覚醒剤取締法違反(所持、使用)容疑で逮捕されました。

なお、入院中の一時帰宅の際に家を抜け出した由香里は睡眠薬で自殺未遂を図っています。

 

毎日新聞(1990年7月10日)

 

彼女を覚醒剤に誘った男は、大崎署に逮捕された後の取り調べで由香里に覚醒剤を売ったと虚偽の供述をしたことから、彼女は覚醒剤売買容疑でもあらためて逮捕・取り調べを受けます。

 

 

売買については身に覚えのない由香里が否認を貫いたため証拠不十分で不起訴になり、所持・使用容疑についてのみ1990(平成2)年10月から東京地裁で裁判が始まりました。

そして11月7日の判決公判で由香里は懲役1年8月、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受けます。

 

【母の自死と由香里の死】

1991(平成3)年5月1日、由香里はこれまでの思いを綴った『娘の積木くずし』を出版します。
その「あとがき」に彼女は、「私はまだ23歳……これからも必死に生きていきます。もう2度と悪いことでマスコミを騒がせないことを誓いながら……。きっと。」と書きました。
 
2年後の1993(平成5)年、赤坂で美容院を経営する玲子という女性と父が再婚します。
客だった由香里も、継母となった玲子に「先生」と懐いたそうです。
 
その間、彼女はアルバイト先で知り合ったパチンコ店経営者と2度目の結婚をしますが、数年後にパチンコ店が倒産の危機におちいったのを機に離婚したそうです。
 
1997(平成9)年、持病の腎不全が悪化した由香里は腎臓透析を始め、2000(平成12)年に入院、10月に母の美千子から生体腎移植を受けます。
この年の暮れ、由香里は父と継母の家で同居を始めました。
 

2001(平成13)年8月、娘への腎臓提供で人生にもう思い残すことがないと思ったのか、実母の美千子がひとりで暮らしていた一間だけのアパートで、ほとんど無一文の状態で首(頸動脈)を切って自死しました。

 
その後由香里は、知人のミュージックバーを任せられたり、介護職の資格をとって働き始めたりしていましたが、2003(平成15)年8月18日、隆信の地方公演に一緒に行って一足早く帰った継母・玲子が、すでに亡くなっている由香里を発見しました。
解剖の結果、死因は多臓器不全で、8月13日の夜から14日の未明にかけて息を引き取っていたそうです。
 

読売新聞(2003年9月1日夕刊)

 
法名は「釈尼香順」、享年35歳の短い生涯でした。
 
 

遺影とされる写真

 
8月20日に行われた葬儀では、急ぎ帰宅した隆信が人目もはばからず号泣し、娘の棺に3冊の本*を入れたそうです。

 *『積木くずし』を3冊入れたという記述が多いですがそれは不自然で、由香里の生前に隆信が出した『積木くずし』『積木 その後の娘と私たち』『積木くずし 崩壊 そして……』の3冊を入れたと小川は思います

 

由香里の墓前での隆信

(2004年)

 

サムネイル

小川里菜の目

 

穂積由香里の35年という短い生涯を追いかけながら、その都度小川が思ったことなども書きましたし、アメブロの字数も限度一杯になりましたので、ここでは次のことだけを述べて終わります。

 

それは、隆信が2012(平成24)年3月24日に出した最後の著書『積木くずし 最終章』で、由香里が自分の娘ではなかったと公表したことです。

 

由香里の死後に遺品を整理した隆信は、娘に託した前妻・美千子の手記ノートを見つけます。

読後に焼却するよう娘に頼んだそのノートの中で彼女は、由香里が実は「会計士の沼田」の子だと告白しているのですが、にわかには信じられない思いが小川にはあります。

 

このことを含めて、今回ほとんど立ち入ることのできなかった父・隆信と母・美千子の人となり、そして出会いからの2人の関係について、由香里の生涯を考える上でも重要ですので、後日ブログであらためて取り上げたいと思います。

 

今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

次回もどうぞよろしくお願いいたします😺




北九州市

シンナー通り魔殺傷事件 

1980年

朝日新聞(1980年2月9日)

 

【事件の概要】

1980(昭和55)年2月8日午後6時40分ごろ、北九州市小倉南区貫(ぬき)地区の路上で、買い物から帰宅途中の近くに住む楠田かほるさん(当時45歳)が、突然襲ってきた若い男に背後から鋭利な刃物で一突きされて倒れ、救急車が到着したときには右鎖骨下動脈切断による外傷性出血によりすでに亡くなっていました。

 

楠田さんが襲われた現場

(読売新聞西部本社社会部編『シンナーの恐怖』)

*以下、同書からの図版借用は「同上」と記載

 

楠田かほるさん

 

それから30分ほどたった午後7時10分ごろ、第一現場から200mほど離れたところで、仕事から帰宅中の神薗タツ子さん(同50歳)が、同じように襲われて右肩を一突きされました。

 

神薗さんが襲われた現場(同上)

 

襲った男は、彼女のショルダーバッグを奪おうとしましたが中身が路上に散乱したため、空のバッグだけを奪って逃走しました。

神薗さんは重傷を負ったものの、幸い一命はとりとめました。

 

神薗タツ子さん

 

さらに午後7時30分ごろ、第二現場から150mほど離れた川田幸正さん(同50歳)宅に、鍵のかかっていなかった玄関から男が上がり込み、台所で夕飯の支度をしていた妻の川田利枝さん(同46歳)と鉢合わせになるや彼女の右胸を一突きしたあと、首や頭部など20箇所以上もめった突きにして殺害しました。

男は家の中を物色して回り、2階寝室にあったハンドバッグから現金6万5千円を奪って逃走しました。

 

川田利枝さん

 

読売新聞(1980年2月9日)

 

小倉南署捜査本部は、事件から一夜明けた2月9日から現場検証と聞き込みなど本格的な捜査を始め、犯人のものと思われる足跡や逃走に使った可能性のある盗まれた自転車を発見するなど、足取りを追いました。

 

面識のない女性たちが次々と襲われた被害状況から警察は、犯人は変質者もしくは薬物中毒の通り魔ではないかと考え、前歴者を中心に犯人の割り出しを急いでいると同日の各紙夕刊が伝えています。

 

読売新聞(1980年2月9日夕刊)

 

2月9日からの捜査により警察は、①手口が異常で犯人は薬物(シンナーや覚醒剤など)中毒者の可能性が非常に高い、②第一現場で犯人が落としたと見られるシンナーびんが見つかった、③シンナーを売ったと見られる商店員の話が、目撃者の犯人像とよく似ている、などの理由から、犯人がシンナー常習者であるとの見方を強めます。

 

朝日新聞(1980年2月10日)

 

こうして犯人像が絞られてきた2月9日の夜遅く、佐賀市内のホテルから、宿泊客がカミソリで左手首を切って(軽傷)自殺を図ったとの通報がありました。

 

自殺を図ったホテルの部屋(同上)

 

警察が調べたところ、北九州市小倉南区に住む21歳のその男は、2月8日に家を出てその日は福岡に泊まり、9日に佐賀に来たとのことですが、服装や年齢が北九州の通り魔に似ており、また荷物の中にシンナーかんが入っていたことから、とりあえず薬物及び劇物取締法違反の疑いで逮捕し、身柄を病院から警察署に移して通り魔事件との関連を追及しました。

 

読売新聞(1980年2月10日)

*見出しにある「不審男」は無関係と判明

 

男の黒ジャンパーに血痕が付着していたことなどを追及したところ、2月10日の午後4時過ぎになって男は犯行を自供し始めたため、警察は通り魔事件の犯人と断定して午後9時ごろ殺人容疑で再逮捕しました。

 

男は、事件現場近くに住む工員の井上保幸(やすゆき、当時21歳)で、警察がシンナー常習者としてリストアップしていた30人の中に名前があったそうです。

 

井上の供述によると、2月8日の夕方に自宅でシンナーを吸っていたのを母親に見つかり叱られたことから、自宅物置の道具箱にあったノミを持って午後6時ごろに家を飛び出し、たまたま道の前方を歩いていた女性(楠田かほるさん)に追いつきざま背中から刺した、「意識がもうろうとして、見るものすべてにむしゃくしゃし、やってしまえ、という感じだった」そうです。

 

朝日新聞(1980年2月11日)

 

【シンナー通り魔になった井上保幸】

 

逮捕時の井上保幸(同上)

〈幼少時の家庭環境〉

井上保幸は、1958(昭和33)年7月3日、異母姉2人に同母兄2人の5人きょうだいの末っ子*として生まれました。

 *他に、養子に出されたり幼くして亡くなった複数の兄姉がいました

 

1915(大正4)年に日本統治下の朝鮮で生まれた父親(両親は福岡出身)は、高等小学校を卒業すると大分の建具店で年季奉公したあと、小倉の陸軍造兵廠(銃砲弾などの兵器を製造する工場)に勤め、転勤で朝鮮の仁川陸軍造兵廠で働いていた時に1945(昭和20)年8月15日の敗戦を迎えました。

この間に父親は結婚し、子どもをもうけています。

 

仁川陸軍造兵廠

(現在は取り壊されて歴史文化公園)

 

一家は9月に福岡に引き揚げ、父親は引き揚げ公務員を優先採用していた国鉄(日本国有鉄道、現在のJR)小倉工場に職を得ます。

 

1948(昭和23)年に妻を病気で亡くした父親は、1950(昭和25)年に保幸の母親となる女性と再婚しました。

 

保幸が生まれたころに2人の異母姉はすでに中学を卒業して住み込みで働きに出ており、兄2人と5人家族の生活でした。

 

ところが、保幸が5歳くらいの時に父親は酒に溺れ始め、彼が小学校に行くころには、月の半分は仕事帰りに夜遅くまで飲み歩き、タクシーで帰宅するようになります。

 

給料を飲酒とパチンコに浪費した父親は、生活費をほとんど家に入れなくなったため、母親が近くの農家の手伝いや日雇いの土木仕事に出て働くことを余儀なくされます。

 

それを見ていた保幸は、家計の足しにと小学4年生から兄と一緒に新聞配達を始めますが、逆に父親は生活費をまったく家に入れなくなります。

 

母親がフルタイムの勤め先を見つけて働くようになっても生活は苦しく、おかずが買えないために母子でご飯に醤油をかけて食べる日もあったそうです。

 

〈歪められた人格〉

そういうことから保幸の中には、父親への根深い不信感と嫌悪感が蓄積されていくと同時に、生活に追われる母親からの愛情にも満たされない寂しさがつのり、それらが彼の人格形成に悪影響を及ぼしたようです。

 

「やっちゃん」と呼ばれていた子ども時代の保幸は、はた目にはごく普通の子どもに映っていましたが、小学校になじめず学業成績も最低ラインで性格も暗くなり、親しい友人はほとんどいなかったようです。

 

保幸がよく遊んだ自宅近くの空き地(同上)

 

「うちには、お父さんもお母さんもいない。遠くに働きに行っている」というのが口癖だったという小学生の保幸が、6年生の時に店に盗みに入り補導されたのも、担任教師は「非行という手段で、目立とうとした」のではないかと見ていたようです。

しかし、警察からの指導や担任の求める面談に、父親はもちろんゆとりのない母親もほとんど応じることはなかったそうです。

 

先述した『シンナーの恐怖』に、後の事件にもつながる彼の性格に関わるエピソードが書かれています。

 

勉強ができなかった保幸ですが運動能力は優れており、少年野球チームに入った彼は試合で投打に大活躍し喝采を浴びるほどだったそうです。

ところが、試合で相手にリードされたり思うようにいかないことがあると、途端にやけ気味になって、危険球を投げるといった問題行動が見られたそうです。

 

そこから考えると彼は、自分の居場所や人に認められることを強く求め、そのためには人一倍努力もしますが、幼児期に基本的安心感や自己肯定感を身につけられなかった子どもによく見られる自信のなさや自己不安のために、ちょっとした挫折にも耐えられずに困難な現実から逃げようとする傾向を、保幸は身につけてしまったように思われます。

 

〈活かされなかった最初の転機〉

中学に上がってからも学校になじめなかった彼が体操部に入って一変してからのてん末も、以上のことから理解できるでしょう。

 

器械体操が性に合った保幸は、学校にも休むことなく熱心に練習をし、得意の床運動では小倉市内の有力選手に数えられるまでになります。

 

曽根中学で体操選手だった井上保幸(同上)

 

これは保幸にとって、人生の転機となりえた貴重な機会でした。

クラブ顧問の教師は彼の努力を認めて、中学3年生になると保幸をキャプテンに抜擢します。

彼もそれに応えようと頑張ったようですが、高校受験を控えた3年生は、2学期に入ると部を引退することになります。

 

高校進学か就職か進路が定まらず迷っていた保幸は、部活動が無くなってすっかり活力を失います。

 

〈シンナーへの逃避と依存〉

いわゆる「シンナー遊び」が流行し出したのは昭和40年代(1965年〜)ですが、彼がシンナーを吸い始めたのは、目標を見失って意気消沈していた中3(1973年)の秋ごろで、3、4人の非行少年と付き合うようになったのがきっかけでした。

 

ビニール袋に入れたシンナーを吸う若者

(東京新宿、1969年)

 

保幸が中学に上がってしばらくすると、定年退職を迎えた父親が退職金で一軒家を購入し、彼にも四畳半の自室が与えられたため、不在がちな両親に気づかれることのない彼の部屋は、非行少年たちのシンナー遊びの場になります。

 

井上保幸の自宅 右手前が自室(同上)

 

高校進学に乗り気でなかった保幸ですが、父親の強い勧めで私立の工業高校に入学します。

しかし、学校にはほとんど行かず、また中学時代の非行仲間との関係が切れて孤立したことから、彼は自室にこもってひとりでシンナーを吸うという以前にもまして不健全な生活を送るようになります。

 

非行少年たちとの仲間内の「遊び」だった保幸のシンナー吸引が、ひとりでシンナーを吸うようになってから病的なシンナー「依存」へと様相が変わっていったのです。

 

母親がそれに気づいたのは、高校入学後間もない1974(昭和49)年6月ごろでしたが、父子間のもめ事になり、矛先が自分に向けられるのを恐れた母親は夫に黙っていました。

しかし、1975年5月に彼が高校を退学処分になったことさえ知らなかった父親も、ようやく同年夏になって保幸の兄に教えられて真相を知り驚愕したそうです。

 

〈繰り返す入退院ー難航する治療〉

家出をしたり、アルバイトをしては短期間で辞め、家でぶらぶらしながらシンナーを吸い、「口からよだれを流し、目はドロン」とさせた保幸を見て、父親は妻と相談し1977(昭和52)年6月に彼を福岡県行橋(ゆくはし)市にある行橋厚生病院に連れていき、入院させます。

「薬物中毒性精神病」というのが彼の病名でした。

 

行橋厚生病院

 

入院は約3ヶ月で、同年9月に保幸は退院します。

彼が父親に「退院して仕事をしたい」と訴え、入院費の負担もあって父親が医師に相談したところ、「治ったかはわからないが、退院させて様子をみよう」となったのです。

しかし、退院して2日後にもう彼はシンナーに手を出しています。

 

シンナーは、アヘンやヘロインなどの麻薬に見られる身体的な禁断症状はないそうです。

しかし、シンナーの精神的な依存性はそうした薬物よりむしろ強く、脳の病変も起こしやすい危険なものなのです。

 

シンナーと手を切ることができないまま、それでも保幸は大阪の会社に溶接見習い工として就職しますが、2ヶ月後、シンナーを吸って無免許で会社の車を運転し、自損事故を起こして家に連れ戻されます。

 

困った両親は、警察や保幸の姉兄と相談して、1977(昭和52)年12月、シンナーなど薬物中毒者を可能な限り受け入れている小倉南区の松尾病院に再び彼を入院させることにしました。

病名は「有機溶剤(シンナー)中毒」でした。

 

松尾病院

 

「シンナー中毒」には特効薬はないので、薬物に頼らなくても生きていける力、精神依存性が強いシンナーの場合は、自分の弱さと向き合いながら精神力・意志力を培う精神療法しかないようですが、次のような条件がそろっていないと、なかなか成果をあげるのが難しいそうです(『シンナーの恐怖』p.127)

 

 ①家庭環境が一応整っている

 ②退院後、学校に入学・復学できるか、就職・復職できる

 ③中毒によって、患者が本来有している人間性があまり損なわれていない

 

保幸の場合、これらの条件が十分に整っているとは言えず、治療は難航しました。

 

入院後しばらくしてようやく「シンナーをやめなければ」と思い始めた保幸ですが、入院生活が長引くと、野球で思い通りにいかないと耐えきれず危険球を投げた時のように、他の患者ともめごとを起こしたり、あろうことか、どこからか手に入れたシンナーを含んだ接着剤をトイレに隠れて吸っているのが見つかったのです。

 

1978(昭和53)年5月、保幸がまたシンナーを吸った日、父親が「今日息子を退院させてほしい」と病院に連絡してきたそうです。

 

担当医は「まだシンナー吸引がやめられていない」と説明しましたが、父親と本人が口をそろえて退院を強く訴えたため、やむなく「1週間の仮退院」を認めざるを得ませんでした。

 

〈最後のチャンス〉

退院した保幸は、父親が国鉄小倉工場を退職後に勤めていた小倉北区にあるカンノ製作所に、木工見習いとして働き始めました。

 

父親は先に見たように、酒に溺れて長らく家庭をかえりみなかった人物ですが、このころになるとシンナー依存の息子の更生を願って、彼なりの努力を払うようになっていました。

カンノ製作所にも父親が事情を話して頼み込み、自分の目が届くところで無給で働かせるという条件で会社の了解を得たのです。

 

カンノ製作所(同社HP)

 

保幸の父親に対する不信感や嫌悪感は根強く、同じ職場でずっと顔を合わせるのは苦痛だったでしょうが、それでも彼は朝6時に起きて父親と一緒にバス・電車を乗り継いで出勤し、夕方も一緒に帰宅するという毎日を続けました。

 

まじめに働く様子を見た会社は、1978年7月から保幸を臨時職員にして給与を支給することにしました。

上司の評価は、「どんな仕事も率先してやるまじめな好青年」だったそうです。

 

1979(昭和54)年3月から給料が上がり、正社員にという話も出ます。

またこのころにある女性と知り合って交際を始めるなど、保幸はすっかり立ち直ったように思われました。

安心した父親は息子を一人前に扱おうと、ずっと続けていた同伴での出退勤をやめます。

 

〈シンナー依存の恐ろしさ〉

1979年7月20日、この日は父親の64歳の誕生日だったので、近くに住む娘夫婦や二男(保幸の2歳上の兄)も自宅に呼んで、ささやかな祝宴が持たれる予定でした。

 

ところが、午後8時ごろに帰宅した父親は二男から、保幸がまたシンナーを吸って家を出ていったという信じられない話を聞かされたのです。

 

夜道をみんなで探し回り、ようやく家に連れ戻された保幸に父親は激怒し、厳しい口調で叱りつけました。

シンナーから醒めた保幸は、「もう2度としません……」と力なく謝るばかりでした。

 

その翌日になると彼は、何事もなかったかのように出勤し、まじめに働く日々が続きます。

シンナーを吸っている形跡もなく、同年10月1日付で正社員になった保幸は、女友達との交際も順調で、7月20日の出来事はちょっと魔が差しただけだったのだと家族一同安心しました。

 

しかし、シンナーの魔の手は保幸を手放しませんでした。

 

1979年12月の中旬、シンナーの匂いに気づいた父親が保幸の部屋に入ると、シンナーの袋を口にしてフラフラになった息子がいたのです。

声を荒らげて注意する父親に、保幸はよくわからないことをわめき、こぶしで殴りかかってきたそうです。

父親に向かって手をあげたのは、これが初めてだったそうです。

 

事件後の彼の供述によると、会社の仕事には忙しい時と極端に暇な時があって、1979年の暮れから暇な時が多くなり、何もせずにボサっとしているのが彼には耐えられず、父親に仕事がおもしろくないので変わりたいと相談したが反対されて感情的対立にもなったため、気晴らしにシンナーを吸ったというのです。

 

その程度のことで……と思いますが、ちょっと自分の思い通りにいかない状況に直面すると、たちまち嫌気がさして現実から逃げようとする幼少時から形成されてきた彼の弱さが、立ち直りの最後のチャンスをふいにし、保幸はシンナーの魔の手にからめとられてしまうのです。

 

〈破局へのカウントダウン〉

1980(昭和55)年1月になると保幸は、無断欠勤も含めて会社を休みがちになります。

 

事件前々日の2月6日、弁当を作って来てくれた女友達の勧めも聞かず、彼は風邪を理由に欠勤します。

 

そうして家にひとりでいるうちに、またもやむしゃくしゃした気持ちがつのった保幸は、「会社を辞めたいので、昼からはっきりさせに行きます」と上司に電話をしたものの、面と向かって退職を申し出る勇気のない彼が家を出て向かったのは、以前に彼女と行ったことのある小倉駅近くの手芸店でした。

 

その店に、皮革製品の防水・色止めや艶出しに使うレザーラッカー(ニトロセルローズを主成分とする有機溶剤)が売られているのを知っていた彼は、1本(100cc)買うとすぐ家に戻って約10ccをビニール袋に入れ、自室に鍵をかけて吸い始めたのです。

 

帰ってきた母親が声をかけても息子が部屋に入れようとしないので、怪しみながらも買い物に出た母親は、保幸の風邪を心配してやってきた女友達と一緒に家に戻り、応答のない部屋に戸を外して入ったところ、そこにはよだれを流してシンナーを吸っている保幸がいました。

 

井上宅の裏庭に捨てられたレザーラッカー缶(同上)

 

2月7日の朝、心配してやってきた彼女と一緒に家を出た保幸ですが、会社にはいかずにまた手芸店に行ってシンナーを買い家に戻ります。

 

夕方、帰宅した母親がシンナーを吸っている保幸を見つけてとがめましたが、もはや彼は悪びれるどころか母親に怒鳴り返し、暴力を振るわんばかりの態度でした。

 

その夜、帰宅した父親が保幸を呼びつけて欠勤やシンナーのことをきつく叱ると、彼が話をさえぎり「カンノをやめる、仕事が好かん」と言い返したため、怒った父親は「あれだけ世話になっているカンノをやめるなら、家を出ていけ!」と怒鳴りつけました。

 

「明日から仕事を探す!」と捨て台詞をはいて部屋に戻った保幸ですが、そんな力も見通しも今の自分にないのを一番よく知っていたのは彼自身でしょう。

ここで保幸は、もう詰んでしまったのです。

 

〈凶行へ〉

事件当日の2月8日、朝早く起きたものの保幸は出社するでもなく、もちろん仕事を探しに行くでもなく、家でぶらぶらしているうちにまたシンナーの誘惑に駆られ、手芸店までレザーラッカーを買いに行きました。

 

家に帰ってテレビを見たり音楽を聴いたりしているうちに、夕方になってシンナーが吸いたくなった保幸は、いつものようにビニール袋にレザーラッカーを入れて吸おうとしました。

ちょうどその時、母親が帰って来たので、邪魔されないよう家を追い出そうと考えた彼は、台所にいた母親から買い物袋をもぎ取り脚を蹴り上げたので、怖くなった母親は娘宅へと逃げました。

 

外が暗くなったころ、心配してやって来た女友達がチャイムを鳴らし声をかけました。

彼女の声を聞いた保幸は、シンナーを吸っている自分の醜態を見られたくないので、「入ってくるな!」と叫び彼女を追い返そうとしました。

 

ところが、戻ってきた母親と心配した上司がやって来たので、彼女と3人で家に入ると、保幸は台所でビニール袋を手にシンナーを吸っているところでした。

 

3人は口々にやめるように言いましたが、目をトロンとさせふらつきながら「大きなお世話だ、あんたら帰ってくれ!」と叫ぶ保幸に、上司と彼女はあきらめて帰ろうとしました。

 

母親が2人を自宅前の通りまで見送り、何度も頭を下げて謝っていたわずかな隙に、保幸は本にはさんでいた一万円札を取り、レザーラッカーの缶とビニール袋を左右のポケットに入れた革ジャンパーを着て、勝手口から外に出ました。

 

その時、自宅裏にある物置小屋に入った保幸は、昔父親が使っていた大工道具の箱から「突きノミ(木工の細かい細工に手で突いて使うノミ)」を持ち出します。

 

(同上)

 

むしゃくしゃした気持ちをぶつけるように彼は、裏木戸をノミで2度3度突き刺しました。

しかし気持ちがおさまらない彼は、ノミを手に外の通りに飛び出ました。

 

犯行現場の見取り図(同上)

 

そして、200mほど前方の街灯の灯りの下を歩いている女性(楠田かほるさん)が目に入るや、「刺したらスーッとするんじゃないかな」という考えがぼんやりした頭に浮かんだ保幸は、背後から近づいて背中にノミを突き立て、殺害して逃走したのです。

 

殺害現場から逃げた保幸は、上図のように道端のプレハブ小屋に一時身をひそめます。

 

プレハブ小屋(同上)

 

そうこうするうちに時間とともにシンナーの影響が薄れてくると、大変なことをした、捕まれば家族に迷惑をかけるから遠くに逃げなければと思った保幸は、逃走資金を得ようとたまたま目についた女性(神薗タツ子さん)を襲います。

 

しかし、盗ったショルダーバッグが空だったため、彼はさらに玄関に鍵がかかっていなかった家を見つけ、上がりこんで居合わせた川田利枝さんを殺害し、現金を奪いました。

 

後の裁判にも関わりますが、シンナーの影響から衝動的に行った第一の殺人と、金を奪うことを目的に行なった第二、第三の強盗殺人・傷害とは、性格の異なるものだったと思われますが、そこが争点になります。

 

その後の佐賀への逃走とホテルでの自殺未遂、逮捕と自供については、「事件の概要」で触れた通りです。

 

 

逃走経路と逮捕・連行される井上保幸(同上)

 

〈裁判と判決〉

逮捕から約5ヶ月後の1980(昭和55)年7月9日、殺人、強盗殺人未遂、強盗殺人の容疑で起訴された井上保幸の初公判が、福岡地裁小倉支部で開かれました。

 

出廷する井上保幸(同上)

 

保幸の父が弁護人を私選しなかったため、保幸の弁護は国選弁護人が担当しました。

弁護側は、事実関係については争わず、第一の犯行はもちろん、第二、第三の犯行も含めて「シンナー中毒」の影響による心神耗弱の状態で殺意もなかったと主張しました。

 

それに対し、1983(昭和58)年2月9日の判決公判で谷村允裕裁判長は、「第一の犯行については、シンナーのめいてい影響下にあったが、自分の行動の概略を認識できる状態で、第二、第三の犯行については犯罪性を明確に認識していた」と保幸の刑事責任能力を全面的に認め、死刑を言い渡しました。

 

読売新聞(1983年2月10日)

 

弁護側が控訴し、福岡高裁で審理が行われた結果、1986(昭和61)年4月15日の判決公判で淺野芳朗裁判長は、原判決を破棄し井上保幸にあらためて無期懲役を言い渡しました。

 

最大の争点は、第一の犯行時における保幸の刑事責任能力の有無で、それについて判決文は次のように述べています(かっこ内は小川)

 

シンナー吸引後の経過時間等を総合して考察するときは、被告人はシンナー酩酊のため、脳の統合機能が減退し、理性や判断力といった上位の機能が相当に麻痺して下位の本能的機能が解放されることにより、まわりの事象を実感を持ってよく認識し、良識に従い注意力を持ちて的確に判断して対応していく力が低下するとともに、抑制欠如が非常に高度であった疑いが強く、右第一の犯行当時、被告人はシンナー酩酊により、事理を弁識しこれに従って行為する能力が著しく減弱していたものと認めるのが相当である。(中略)

してみれば、原判示第一の犯行当時、被告人が心神耗弱の状態にあったことを否定した原判決は、事実を誤認したものであって、これが判決に影響を及ぼすこと明らかであるから破棄を免れない。

 

大脳新皮質/旧皮質/脳幹というヒトの脳の三層構造についての詳しい説明は省きますが、上の判決文で言われる脳の上位・下位の機能について、『シンナーの恐怖』に分かりやすい図が引用されていましたので、孫引きになりますが参考までにあげておきます。

 

 

見られるようにシンナーは、理性や判断力を司る大脳新皮質のいわばブレーキやハンドル機能をマヒさせることにより、保幸の例で言えば、「不安や怒り、むしゃくしゃした気分を何かでスッキリさせたい」という欲求を見境なく暴走・暴発させてしまうのです。

 

これにより、無期懲役が確定した井上保幸は刑務所に収監され、おそらく今も岡山刑務所で贖罪の日々を送っていると思われます。

 

井上保幸は、今年(2025年)で67歳になります。

 

 

*「シンナー遊び」については、以前に書いた以下のものもぜひお読みください。

 

 

 

(参照文献)

すでに名前をあげましたが、今回のブログは、読売新聞西部本社社会部編『シンナーの恐怖ードキュメント・通り魔殺人事件ー』(条例出版株式会社、1980)に内容と図版の多くを負っています。

ただしこの本は、地裁判決が出る前に出版されていますので、裁判に関する記述は起訴状の紹介と裁判の初めの部分に限られています。

 

 
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小川里菜の目

 

今回は、事件の概要と犯人である井上保幸がどうしてこのような犯罪を起こしたのかについて詳しく紹介し、シンナーなどの薬物依存がいかに恐ろしく、人間の弱さにつけ込むようにして心身を深くむしばみ、人間性を変容させ、立ち直り困難にするかを知っていただこうとしました。

 

平穏に暮らすなんの落ち度もない人たちを情け容赦なく殺傷し、本人はもちろん家族・近親者の人生をも狂わせた保幸の犯行は、憎んでもあまりあるものです。

 

ただ、なぜ彼がこのようなことをする人間になってしまったのかを知るためには、「加害者憎し」だけで終わるのではなく、「加害者の被害者性」という側面についても考えなければならないのではないかと小川は思いました。

 

「うちにはお父さんもお母さんもいない」が小学生だった保幸の口癖だったと先に紹介しましたが、彼が幼児期から小学生のころに受けた親からのネグレクト(ケアの放棄)、酒に溺れた父親の身勝手な家族遺棄と生きるために精一杯だった母親の家庭からの不在が、彼の人格に消しがたい弱点を刻みつけたことを、保幸のシンナーへの依存と凶行のバックグラウンドとして見ておかなければならないと思うからです。

 

最後に一つ紹介しておきたいことがあります。

2009(平成21)年9月14日付の毎日新聞に、連載「〈正義のかたち・死刑〉重い選択」の3として、「岡山刑務所 無期懲役囚と文通する被害者長女」という記事が掲載されました。

 

 

この「無期懲役囚」こそ井上保幸受刑者であり、「被害者長女」こそ第一の犯行で殺害された楠田かほるさんの長女・美幸さんなのです。

 

美幸さんは事件当時19歳、保育専門学校の2年生でした。

若いころから働きづめの母かほるさんの手助けになればと、彼女は学校帰りにお寿司屋さんでアルバイトをしていたのですが、たまたまその日、母親がアルバイト先に顔を出して、荷物が重いので一つ持って帰ってと美幸さんに託したそうです。

まさか、その帰り道で母が殺されるなど、美幸さんは思いもしませんでした。

 

朝日新聞(1980年2月9日)

 

葬儀で母の遺骨を抱く美幸さん(同上)

 

毎日新聞の記事によると、美幸さんが獄中の井上受刑者と文通を始めたのは、2003(平成15)年に父親が亡くなったのがきっかけでした。

 

父親の遺品を整理していた美幸さんは、その中に井上受刑者からの手紙を見つけます。

現金書留に供養代と一緒に入っていた手紙には、「奥様の尊い生命を奪ってしまいました。さぞかし御家族の皆様は憎んでおられると思います」と謝罪の言葉が綴られていました。

 

毎年届けられる書留に、井上受刑者の償いの気持ちを感じた美幸さんは返事を書くようになります。

 

2009年8月末に井上受刑者に届いた美幸さんからの手紙には、「一日も早い社会復帰を願わずにいられません。貴方(あなた)しかできない社会貢献をしていただきたい」と書かれていたそうです。

 

母を殺した加害者の仮釈放を願う理由を美幸さんは記者に、「どん底を味わった人だから……。その経験を生かした何かができると思う。いつまでも憎んでたら前に進めませんもん」と語ったそうです。

 

 

1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災から今年で30年が経ちました。

震災の年の12月、犠牲者の鎮魂と復興の願いを込めて、光の祭典「神戸ルミナリエ」が初めて開催され、訪れた多くの被災者の心に希望の光を灯したんだって!

それから30年、冬の恒例行事として開催が続けられたルミナリエは、観光資源ともなって神戸の復興に貢献してきたそうだよ。

近年では、多額の費用がかかることから存続が危ぶまれることもあったようだけど、今年も1月24日から2月2日、美しい光のイルミネーションが神戸の夜を飾っているよ。

ルミナリエに小川はこれまで何度も行っているそうだけど、30年の節目の年に僕も初めて仕事帰りの小川に連れられ、メリケンパークの会場に行ってきたので、撮った写真を見てね😺

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今回も読んでくださり、ありがとうございましたおねがい
次回もよろしくお願いいたします飛び出すハート

片瀬江ノ島駅前

暴走注意事件

1989年

読売新聞(1989年4月18日)

 
【事件の概要と裁判】

1989(平成元)年4月17日の午後10時過ぎ、小田急電鉄片瀬江ノ島駅の駅前ロータリーに侵入してオートバイを空ぶかししていた暴走族少年らに、通りかかった湘南海岸近くに住む毎日新聞東京本社論説室顧問の吉野正弘さん(当時56歳)が、「暴走族は大嫌いだ。懲らしめてやる」と言いながら近づいて怒鳴りつけました。

 

片瀬江ノ島駅の当時の駅舎

(2020年に新駅舎に建て替え)

 

事件が起きた現場

 

オートバイの少年らはその場をすぐに立ち去ったのですが、それに腹を立てた吉野さんは、さらにロータリーの隅に置かれていた工事用鉄パイプ(長さ3m、直径6cm、重さ11kg)を手に取り、ロータリーに入って来る車に対し鉄パイプを振り回しながら向かって行きました。

 

それを見た白い日産フェアレディーZが、関わりになるのを避けようとUターンして出て行こうとしました。

しかし、出口付近が渋滞で停車したところに吉野さんが近づいて来て、振り回した鉄パイプが同車の前ドア付近に当たり、かすり傷をつけてしまったのです。

 

運転していた男が怒って車を降り、「何をするんだ、弁償しろ!」「お前ら暴走族が悪いんだ!」と吉野さんと口論になりました。

そして鉄パイプの奪い合いから殴り合いにまでなったところに、車に乗っていたもう1人の男と吉野さんの甥も加わって乱闘状態になり、吉野さんは彼らから殴る蹴るの暴行を受けたのです。

 

日産フェアレディーZ(当時のモデル・例)

 
倒れた吉野さんは、すぐに最寄りの藤沢脳神経外科病院に運ばれましたが、日が変わった4月18日午前3時28分、上腸間膜動脈破裂による出血で亡くなりました。
 

藤沢脳神経外科病院

 

読売新聞(1989年4月19日)

 
読売新聞(1989年4月21日)
 

この日、吉野正弘さんは妻の尚子(ひさこ)さん(当時63歳)と甥(同42歳)の3人で、近くの飲食店で食事をしての帰り、電車に乗ろうと駅に来たところでした。

 

神奈川県警と藤沢署は、妻の目撃証言をもとに4月27日に犯人の1人の似顔絵を作成・公開し、5月11日にはもう1人の似顔絵も公開しました。

 

読売新聞(1989年4月27日夕刊)

 

警察は、白い日産フェアレディーZについて寄せられた情報から6月8日未明、平塚市に住む工員の山上正(同25歳)を傷害致死容疑で緊急逮捕するとともに、同僚で茅ヶ崎市在住の石井徳久(同24歳)を同容疑で全国に指名手配しました。

 

ニュースで山上が逮捕されたことを知った石井は、同日の午後4時ごろ、知人の車で藤沢署に出頭する途中で発見され逮捕されました。

 

石井徳久  /  山上 正

 

調べによると2人は、以前に湘南地区の暴走族に入っていたことはありますが、事件当時は横浜の自動車整備工場で工員として働いており、この日はたまたま湘南に2人でドライブに行ったところでした。

 

朝日新聞(1989年6月8日夕刊)

 

読売新聞(1989年6月8日夕刊)

 
傷害致死罪に問われた山上正と石井徳久に対して検察は、1989年12月19日に開かれた横浜地裁(杉山忠雄裁判長)の求刑公判で、懲役4年を求刑しました。
 

読売新聞(1989年6月29日)

 

被告弁護側は、「被告は鉄パイプで車を傷つけられ、身の危険を感じて、防衛のために反撃した」として、「正当防衛」または「過剰防衛」だと主張しましたが、1990年1月30日、横浜地裁の杉山忠雄裁判長は、「両被告人の行為は積極的な加害意思に基づいてなされた」と判断し、2人にいずれも懲役2年6月の実刑判決を言い渡しました。

 

毎日新聞(1990年1月30日夕刊)

 

杉山裁判長は、山上らが倒れて抵抗できなくなった吉野さんにさらに執拗に暴行を加えたことを厳しく批判しながらも、一方で求刑の懲役4年から情状酌量して懲役2年6月に減刑した理由について、次のように述べています(カッコ内は小川の補足)

 

社会の木鐸(ぼくたく:教え導く人)ともいうべき新聞社論説室顧問という役職にありながら、暴走族を嫌悪するあまり、酔余(すいよ:酒に酔ったあげく)自ら被告人車両を傷つけたうえ、それを謝罪しなかったばかりか、かつては暴走族に属したこともあったとはいえ、現在ではまじめに稼働している被告人らを暴走族呼ばわりし、本件に至るきっかけを作ったA(吉野さん)にも、相当に責められるべき点があるといわざるをえない。

 

この点については、後の「小川里菜の目」であらためて触れようと思います。

 

【暴走族への取り締まり強化】
長らく問題になりながらも、犠牲者が出てようやく対策が動き出すという、これまでも繰り返されてきたことがこの事件でも見られました。
亡くなったのが、大手マスコミの著名な記者だったことも関係したでしょう。
 
事件を重く受けとめた警察や関係省庁、自治体などが、「暴走族封じ込め」に向け全国的に動き出します。
 
事件後の新聞報道を時系列で追います。
 

①「暴走族封じ込め まず騒音一掃 マフラー外せば即検挙」(読売新聞、1989年4月20日)

 

暴走族の迷惑行為には、危険な集団走行やグループ同士のケンカなどがありますが、何といっても爆音を轟かせる騒音被害に、沿道の多くの人が眠りを妨げられていました。

 

暴走族は、自分たちの乗る自動車やオートバイのマフラー(音や排ガスを抑える装置)の消音器を外して、わざと騒音をまき散らし存在を誇示するのが常でした。

 

それまでも騒音が基準値を超えてはならないという規定はありましたが、実際に現場で警察官が騒音を個別に測定することは難しく、検挙できないでいたのです。

 

そこで運輸省は、暴走族の活動が活発になる夏までに、マフラーを外しているだけで即検挙できるよう車両保安基準を改正することにしました。

 

 

②「暴走族 湘南のたまり場 土曜未明は店じまい」(朝日新聞、1989年4月21日)

神奈川県湘南地方の「暴走ルート」になっている国道134号沿いに並ぶ終夜・深夜営業の飲食店・ガソリンスタンドなど16店が、藤沢市の要請を受けて土曜日の午前2時から7時までの間、5月から半年間の措置として営業を自粛することになりました。
 
 

 

 

③「暴走族封じ、警官1万人」「暴走族解体へ作戦会議」(読売新聞、1989年4月22日)

4月21日、警察庁は「暴走族総合対策委員会」を開いて、4月末からのゴールデンウィークの期間中、全国で1万人以上の警察官を連日動員し、暴走族封じ込め作戦を展開することを決めました。
また、全国の各警察本部に、取り締まりの徹底、指導・補導の強化、住民運動との密接な協力などを盛り込んだ緊急通達を出しました。
 
 

 

 

④「「鳴り」ひそめる暴走族 偽りの静けさ 湘南週末ルポ」(毎日新聞、1989年4月22日夕刊)

大量の警察官を動員しての取り締まり強化に、週末を迎えた湘南海岸一帯から暴走族の姿が消え、静けさが戻りました。
 
 

⑤「暴走族のたまり場返上 駅前広場から車締め出す/全国で一斉取り締まり」(読売新聞、1989年4月23日)

事件が起きた小田急片瀬江ノ島駅前ロータリーへの車の乗り入れを、小田急電鉄が〝暴走族のたまり場“の汚名返上と事件再発防止のために自主的に封鎖することを決めました。
 
また、事件後初の週末となる4月22日夜、警視庁は暴走族の溜まり場や主要道路で徹底取り締まりを行いました。
 
 

⑥「本物か?湘南の静かな夜 警官動員で平穏続く」(朝日新聞、1989年4月23日)

警察官を大量動員しての暴走族封じ込めが功を奏して、湘南の夜は「うそみたいに静か」になりました。
しかし、沿道店舗の営業自粛を含む「厳戒態勢」をいつまでも続けることはできません。
 

暴走族やギャラリー(見物人)として集まる若者たちの「居場所」をなくし力で「封じ込める」だけで問題が解決するのだろうかと疑問を呈する記事も出されています。

 
 

⑦「暴走族たまり場摘発/封じ込めへ566人検挙」(読売新聞、1998年4月24日夕刊)

警察は路上での取り締まりだけでなく、事件後最初の土日明けとなる4月24日までに、未成年者の喫煙や飲酒を黙認して暴走族のたまり場となっていた品川のろばた焼き店を摘発し、経営者や店長を逮捕しました。

同店では、客だった女子中高生を安い給与で深夜に働かせてもいました。

 

また警察庁のまとめによると、22日土曜日の夜から23日日曜日の朝にかけて、全国47都道府県で計42回の集団暴走があり、道路交通法違反などで566人が検挙されました。

事件が起きた神奈川県では、暴走族追放運動もあって、集団暴走は2回、50人にとどまったとのことです。

 

 

⑧「暴走族追放、タクシーも一役 藤沢 無線で〝動き“通報」(読売新聞、1989年5月2日)

事件が起きた地元の神奈川県藤沢市内のタクシー、ハイヤー業の12社が、暴走族の動きをキャッチし次第、無線を通じて藤沢署に通報することを決めました。
 
 

 

⑨「暴走族根絶の礎に 追放運動盛り上がった藤沢 対策、幅広く息長く」(読売新聞、1989年6月9日)

6月8日に事件の容疑者2人が逮捕されたのを受けての記事です。
 
事件が起きた藤沢市では、警察・自治体・企業・住民が力を合わせた「藤沢方式」と呼ばれる「官民一体」の暴走族追放運動が成果をあげて、〝暴走族のたまり場“と言われてきた湘南から暴走族が影を潜めるようになりました。
 
しかしの記事でも示唆されたように、「暴走族対策」を単なるその場での「封じ込め」や「追放」に止まるのではなく、当面の成果からさらにより根本的な問題解決へと広げ、深めていかなければならないのではないかと、地区町内会が組織する湘南暴走族対策連絡会事務局の方の次のような声をこの記事は伝えています。

 

暴走族問題は、若者の深夜外出、シンナーなど青少年問題としてとらえ、息の長い運動を点から面、そして社会全体へと広げていかなければ抜本的な解決は難しい。

 

 

 

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小川里菜の目

 

【暴走する若者たち】

警察庁のデータを元に、暴走族の構成員数の推移を「KURUKURA」というサイトが掲載しているグラフが以下のものです。

 

 

ここに見るように、1970年代後半から増加した暴走族構成員数の最盛期は1982(昭和57)年で、全国で4万2510人を数え、その大半は高校生を中心とする未成年者でしたキョロキョロ

 

暴走族構成員が3万人を超えていた期間は、1980(昭和55)年から1993(平成5)年までの10年余り続きますので、今回取り上げた事件の起きた1989(平成元)年は、最盛期には及ばないものの、暴走族が全国各地で爆音を轟かせていた時代でした。

 

1970年後半から80年代にかけては、学校で校内暴力が吹き荒れた時代と重なります。

「みんなで豊かに」なろうとした戦後の高度経済成長時代が終わり、生き残りをかけた競争へと人びとが駆りたてられた1970年代には、激しい受験競争と偏差値による学校間格差や生徒の選別が進みますびっくり

 

そうした中で、家庭環境その他の要因から競争についていけず「底辺」扱いされた子どもたちにとって、校内秩序の維持を最優先にし管理教育を推進する学校や教師は自分たちの存在価値を否定し抑圧するものでしかありませんでしたショボーン

 

問題を起こす生徒は早いうちにクラス/学校から排除しないと全体に悪影響が及んでしまうといういわゆる「腐ったミカン」論が、TBSのテレビドラマ「3年B組金八先生」(第2シリーズ)で話題になったのも1980年です。

 

読売新聞(1982年9月4日夕刊)

 

暴走族グループは、中学時代の不良グループが元になることが多かったそうですが、それまで問題行動のなかった中学生が、家庭の問題などをきっかけに容易に「不良」へと転落した事例を次の記事は取り上げています。

 

読売新聞(1982年7月16日)

 

家庭や学校に居場所がない「落ちこぼれ」た若者たちの受け皿となり、自己肯定感の拠り所、存在理由を与えてくれたものの一つが暴走族だったのでしょう。

 

1980年代に「不良少年少女」を指す言葉としてよく使われたのが「ツッパリ」ですが、ウィキペディアによれば「ツッパリ」とは、暴走族の若者たちが社会のルールや大人に反抗する自分たちを表現する言葉から始まったそうです。

 

 

彼ら(彼女らも含む)は、成績・学歴や収入・社会的地位といった社会の支配的価値アイテムを持てない「弱者(落ちこぼれ)」の烙印を押されていると自覚するがゆえに、自分たちを軽んじ見下す社会に対して「なめんなよ!」とツッパリ、人を威嚇するファッションやにらみつける顔つき、拳を握るポーズ、大声・爆音で虚勢を張ったのです。

 

1980年代に流行した「なめ猫」

 

暴走族が軍隊や皇室のシンボルである旭日旗や菊紋を好んで用いたのも、思想的な動機というよりも、「力」への憧れや「世俗的価値を超えた〝大きなもの〟に自分を重ねたい」という彼らの欲求を表していたのではないでしょうか。

 

 

 

集団をなして爆音を轟かせながらわがもの顔で公道を疾走する時、彼らは束の間の全能感と解放感を味わったのでしょうが、彼らを周辺に追いやった現実がそれで変わるはずもなく、暴走族の一部は暴力団や反社会集団へと流れながら、多くは成人になるころには「卒業」して、彼らが反抗し飛び出した社会に再吸収されていきました。

 

また暴走族自体も、警察による取り締まりが強化されたことに加え、社会の個人化が進んだことから、上下関係の厳しい多人数の集団を形成・維持する力が若者からなくなり、1990年代後半から急速に衰退していきます*。

 *ただし暴走族が完全に消滅したわけではなく、令和4(2024)年版「犯罪白書」(法務省)によると、2021年でも全国で110グループ、4679人の暴走族が存在しているそうです。

 

 

【吉野正弘さんと当夜の〝暴走〟】

事件の被害者である毎日新聞論説室顧問の吉野正弘さんがどういう人だったのか、あらためて経歴などをまとめておきます。

 

 

吉野さんは、東京大学文学部を卒業後、1956(昭和31)年に毎日新聞東京本社に入社。社会部記者、同副部長をへて1975(昭和50)年に編集委員、翌年には論説委員を兼務します。

1980(昭和55)年からは、同紙夕刊一面のコラム「近事片々」の執筆を担当し、それにより1987(昭和62)年に日本記者クラブ賞を受け、同年に論説室顧問に就任しています。

 

 日本記者クラブ賞を受賞した時の紹介文

 

毎日新聞(1980年4月1日夕刊)

 

社会部出身の吉野さんは、社会問題や社会事象に強い関心を持ち、1964(昭和39)年に連載企画「組織暴力の実態」で新聞協会賞、1976(昭和51)年には同「宗教を現代に問う」で菊池寛賞を受賞するなど、輝かしい経歴を誇るジャーナリストでした。

 

小川は吉野さんの書かれたものを読んではいませんでしたが、以上の経歴から、冷静に鋭く問題に切り込み報道・論説する人というイメージを彼に抱くだけに、長さ3メートル、直径6センチもの金属パイプを手にして暴走族少年に向かって行った吉野さんのその夜の行動は、小川には正直言って不可解としか思えませんびっくり

 

ネット上では、「年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇」といった辛辣な言葉も見られますが、吉野さんは被害者であり同業者でもあることからか、新聞紙上では彼の行為の是非にはあえて触れないか、むしろ同情的な見方がなされています。

 

例えば、事件直後の1989年4月19日、読売新聞朝刊一面のコラム「編集手帳」は、「暴走族に立ち向かった毎日新聞名コラムニスト吉野正弘さんの死」と題し、吉野さんの正義感が自らを暴走族の迷惑行為に立ち向かわせたと、英雄視とまでは言いませんが肯定的な筆致で書いています。

 

同じ日の同紙社説「暴走族とコラムニストの死」も、「それにしても、当夜の吉野さんの行動をどう受け止めたら良いのか」と当惑気味に自問しながら、「落ちていた鉄パイプを拾って暴走族に近づいた行為は一般論から言えばやや危険過ぎたかもしれない」けれど、「見て見ぬふりをしてしまう」ことが暴走族を「ますます増長させる結果にもつながっている」のだからと、吉野さんの行為を肯定的に受け止めようとしています。

 

読売新聞(1989年4月19日社説)

 

しかしこれには、論点をずらした歯切れの悪さを感じざるをえませんショボーン

 

なぜならここで問題なのは、1人で鉄パイプを持ち暴走族に近づいたのが危険過ぎる行為だったかどうか(逆に言えば、もっと強力な「武器」を持ち多人数で彼らを制圧すれば良かったのか)でも、その場で暴走族に「立ち向かう」か「見て見ぬふりをするか」の態度選択でもなく、若者たちが「死んでもいい」とすら思いながら集団暴走するという社会の病理に、私たち(社会)は「どのように立ち向かうか」だからです。

 

さらに、新聞には書かれていませんが、この事件を裁いた横浜地裁の判決文を読むと、吉野さんの当夜の行動はかなり常軌を逸した〝暴走〟とすら言えるものだったことがわかります(カッコ内は小川の補足)

 

(吉野さん)は、同日午後から、同人を訪ねてきた甥のBとともに江の島内を散策し、夕刻ころからはAの妻Cも加わって本格的に飲酒しはじめたが、同日午後一〇時ころには飲酒を終え、片瀬江ノ島駅前広場にある大衆割烹店から帰宅しようとしたところ、たまたま同広場に停車していたオートバイが大きな排気音を出していたので、前記のように、日頃から暴走族の撒き散らす騒音に憤懣の情を募らせていたAは、飲酒の勢いもあって、妻が制止するのもきかずに右オートバイに近づき、「うるさい。」等と大声で怒鳴ったが、右オートバイは排気音を大きくしながら走り去ってしまった。そのため、一層興奮したAは、同広場南東の空き地に置いてあった長さ約三メートル、直径約六センチメートル、重量約一一キログラムの鉄パイプ(以下単に「鉄パイプ」ともいう。)を持ち出し、国道一三四号線方面から同広場に入ってくる自動車に向かって、無差別的に次々と大声で怒鳴りながら鉄パイプを突き出すなどし、同広場に入ってくる自動車を追い払うような無謀の挙に出た。

 

甥によると吉野さんは酩酊状態ではなかったとはいえ、ややふらつくほどに酔っていたために、日ごろから騒音に悩まされていた暴走族の空ぶかしに出くわして冷静さを失い、怒りの感情を爆発させたのではないかと小川は思いますショボーン

 

しかしそれにしても、言論を本分とする吉野さんが、緊急避難や正当防衛の要件である「急迫不正の侵害」が暴走族によってなされようとしていたわけでもないのに、酒の勢いだけが鉄パイプを振り回して〝暴走〟とも言える行為に出た十分な理由とは思えません。

 

考えあぐねていた小川は、当時37歳の社会部記者だった吉野さんが、月刊『文藝春秋』1970年12月号に、「長髪族とつきあう方法」という一文を書いていると知り、図書館で借りて読んでみました。

 

 

「近ごろの若者は、どうもいけ好かぬとかねがね思っていた」という吉野さんは、担当した東大紛争の取材を通して、「人間つけ上がらせておけば、いくらでも野獣のようになれるということ」を痛感したと厳しい言葉で書いています。

 

というのも、「玄関の大きなガラス戸を、必要もないのにゲバ棒でたたき割ってひとりで興奮」するといった学生活動家たちの独りよがりな狼藉(ろうぜき:乱暴な振る舞い)、弱い相手にはカサにかかって吠え、機動隊のように相手が強いと尻尾を巻いて逃げ出す、「育ちのいい犬のようなある狡猾(こうかつ:ずる賢い)な計算が隠され」たやり口をいやというほど見てきたからだというのです。

 

吉野さんにとって彼ら〝近ごろの若者〟は、掲げる大義名分は口先だけで、その実はウサンくさく甘ったれた腹立たしい存在だったのです。

 

東大新聞(1968年1月20日号)

(東大新聞オンライン)

 

その彼が、社会部長から〝近ごろの若者〟を連載企画で取り上げるという課題を与えられ、「憂鬱」になりながらも取材を進めます。

 

詳細は省きますが、その過程で彼はビートルズの映画と音楽に接してそれがすっかり気に入り、「若者たちの、言葉では決して語られることのなかった部分が、少しずつわかりかけ」たそうです。

 

ビートルズのアニメ映画

「イエロー・サブマリン」

 

さらに吉野さんは、取材で2人の長髪の若者と出会います。

 

1人は高校在学中に全共闘(全学共闘会議)の議長をし、大学には進まず自分で本を読み学ぶという生き方をしている「頭がシャープな若者」、もう1人はカッコよさや若者らしさ、あるいは堕落っぽさといったポーズ(作った態度)を嫌い、「浮薄な流行とは全く別なところ」にある素顔、「誰のものでもない、彼自身の肉声」を唄にしているフォーク歌手・早川義夫さんです。

 

早川義夫さん

 

吉野さんは彼らの生き方を「カッコいい」と感じ、こういう若者は「にせものであるはずがない」と思ったのです。

 

こうした経験を通して、「ある異質の文化が若者たちの間に生まれてきているのではないか、と私は思うようになっていった」と吉野さんは書いています。

 

若者たちの間で生まれてきている新しく異質な文化とは、「言葉より音楽が、理性より気まぐれが、意志より感覚が、科学より神話が、そこでは優位を占めている」文化で、「大人の体制の中で、この文化は秩序を乱す、不届きで、得体の知れぬものとして、敵意をもって迎えられている」が、それはこれまでのお金や地位をテコにした「アメとムチ」の組織原理が〝近ごろの若者〟には通用しなくなってきていることへの大人の不安を意味しており、「参加」や「生きがい」など新しい発想での組織原理が必要になっているのだ、と分析します。

 

「新しい組織原理を発明」するには、これまでの価値体系や科学的世界観の見直しが必要で、そのためには「ついこの間まで、若者たちの「甘ったれた」「幼稚な」質問でしかなかった」「人間はなぜ働くのか、何のために人間は生きるのか」という問い、つまり「若者たちの異議申し立て」にどう応えるかを人類は模索しなければならないと吉野さんは結論するのです。

 

こうした吉野さんの時代認識や世代分析の問題点を、今からあと知恵で批判することはできるでしょうが、リアルタイムで論じたものとしてはさすがと思わせる鋭い指摘を含んだ内容ではないかと小川は思いました。

 

ただ、この事件での彼の行為につながるかもしれないと思ったのは、彼がそこに「新しい文化」の可能性を見た、既存の体制の外にあえて身を置いて生きる「頭がシャープな若者」や、言葉で伝えられないものを音楽でクリエイティブに自己表現するアーティストとは異なって、ただ自分の不満や怒り、虚しさや寂しさを、その場限り、集団の威を借りて傍若無人に社会にぶつける暴走族に対し、自分勝手で甘ったれた若者たちという面からの見方しか彼はしていなかったのではないかということです。

 

そこには、東大卒で大手マスコミの花形記者として脚光を浴び続けた吉野さんのいわゆる「上から目線」のエリート意識が隠されているのかもしれないと考えるのは、単純に過ぎるでしょうか……

 

もしそれが的外れでなければ、先の文章に彼が書いていた「人間つけ上がらせておけば、いくらでも野獣のようになれる」という思いが、飲酒も手伝って、彼らの騒音に日々悩まされ蓄積された怒りの感情とともに爆発し、ペンではなく鉄パイプを振り回して「暴走族は大嫌いだ。懲らしめてやる」と彼らに詰め寄った〝暴走〟の背景が理解できるように思いました。

 

ただこれは、吉野さんが書いたものの一部を読んでの小川の推測ですので、もし彼が暴走族について書いている文章を知っておられる方があれば、ぜひお教えくださるようお願いいたします。

 

 

 
読んでくださり、ありがとうございましたおねがい
次回もよろしくお願いいたします飛び出すハート

 

愚者たちの救いなき愚行

神戸テレクラ放火殺人事件

2000年

今はもう衰退してほとんど見かけることがありませんが、「テレクラ」とは「テレフォンクラブ」の略称/通称です。

 

1985(昭和60)年ごろに東京・新宿で発祥したと言われるテレクラは、新しい業態の風俗店として注目され、4年後の1989年(平成元年)には、全国で2881店を数えるまでになりました(警察庁調べ)

 

その一般的な仕組みは、内部が個室に区切られた店舗に、男性が所定の料金を払って入店し、電話機が置かれた個室で女性からの電話を待って、かけてきた女性との会話を楽しむというものです。

 

「サクラ」も多かったようですが、女性の側は、ちょうどNTTが0120で始まるフリーダイヤル(無料通話)のサービスを1985年に始めたこともあり、通常は金銭的な負担がないようにされていました。

 

すぐに想像がつくように、そこで「会話を楽しむ」というのは建前で、男性が女性と電話で交渉して「店外デート」の約束をするなど、テレクラがしばしば売買春の温床となったことは言うまでもありません。

 

ただ先に述べておくと、深夜の時間帯のテレクラは、終電を逃した男性が安い料金で仮眠をとり始発を待つために利用されていた面もあったようで、今回取り上げる事件で犠牲となった男性たちはそのような利用客だったと言われており、個室に鍵をかけて熟睡していたため、逃げ出せなかった人もいました。

 

さて今回の事件は、2000年3月2日の早朝、兵庫県神戸市のテレクラ「リンリンハウス」の神戸駅前店と元町店で放火による火災が連続して発生、うち元町店で客の4人が死亡し、両店舗合わせて店員3人と客1人の計4人が重軽傷を負ったというものです。

サムネイル

 

【事件の概要】

 

読売新聞(2000年3月2日夕刊)

 

事件直後の「リンリンハウス」元町店

 

2000年(平成12年)3月2日の午前5時5分ごろ、兵庫県神戸市中央区にあった大手テレクラチェーン(「新宿ソフト」経営)の「リンリンハウス」神戸駅前店で、目出し帽を被った男(「B」とします)が入口に向かっていきなり火炎びん*を投げつけて逃げました。

 *火炎びん:ガラスのびんにガソリンなどの液体可燃物を入れ、口に詰めた布に火をつけて敵に向かって投げる、簡易な焼夷弾。この事件では、日本酒が1.8リットル入る一升びんが使われました

 

一升びん / 火炎びん(例)

 

幸い、1階が店舗だった神戸駅前店では従業員がすぐに異変に気づき火を消し止めましたので、店員1人が軽傷を負ったにとどまりましたが、約10分後の午前5時15分ごろに「リンリンハウス」元町店(神戸市中央区北長狭通2丁目)にも同じ男たち(運転手1人と2人の男の計3人が実行犯だと後に判明)が現れて火炎びんを投げ込みました*。

 *神戸駅前店の次に花隈(はなくま)店に行ったものの、店の前に車が停まっていたため、断念して元町店に向かったようです

 

元町店は3階建てビルの2階(9室)と3階(10室)が店舗になっており、当時2階に店長と店員の2人、3階に5人の客がいました。

 

犯人は2階入口から店内のカウンターに向けて最初の火炎びんを投げたもののびんは割れませんでした。

店員が落ちているびんを拾って階下を見たところ、逃げようとする男(B)とは別の男(「A」とします)が火炎びんを投げて火が上がったため、驚いた店員が手にしていた最初の火炎びんを思わず投げつけたところ、びんが割れて男Aが火だるまになり、また階段・踊り場から店内へと火と煙が広がりました。

 

火だるまになった男Aは、燃えている衣服を路上で脱ぎ捨てながら他の2人と共にワゴン車に乗って逃走しました。

しかし、この衣服に付着した血液やDNAが実行犯特定の動かぬ証拠となったのです。

 

合わせて3.6リットルものガソリンで起きた火災は、たちまち同店の2階から3階へと燃え広がり、たまたま通りかかった専門学校生がすぐに消防に通報しましたが、消防車が到着するまでのわずかな時間に、各階に煙が充満しました。

 

従業員が店の消火器の場所や避難路について詳しく知らなかったなど店側の防災体制にも不備があったのですけれど、鍵のかかった個室から救い出せなかった1人を含めて4人の客が一酸化炭素中毒により死亡しました。

 

【実行犯と裁判】

 

読売新聞 2000年3月6日

 
「リンリンハウス」元町店で大火傷を負って逃走した実行犯の男Aは、同日(3月2日)の昼前に男(B?)に付き添われて、広島市西区にある長崎病院(医療法人厚生堂長崎病院)を訪れ、入院しました。
 

長崎病院

(現在は近くに移転)

 

長崎病院は、広島の原子爆弾での被害がたまたま軽微だったことから、多くの被爆者が担ぎ込まれ、院長は火傷治療の名医として全国にも名が知れるようになった病院でした。

 

 

 

この情報を得た警察は、脱ぎ捨てられた衣服の血液型とDNAが男Aと一致することから、放火事件の実行犯と断定し、回復を待って身柄を拘束しました。

 

この男Aは、福井県出身の山口組系暴力団組員(当時38歳)で、1990(平成2)年12月に総会屋を排除した報復として阪神百貨店社長宅に火炎びんを投げ込んだ事件に関与したとして大阪府警に逮捕されており、その後、別の暴力行為の容疑で同府警から指名手配中の人物でした。

 
こうして、火炎びんを投げた実行犯2人(AとB)はすぐに特定され、運転手役の1人(「C」とします)も指名手配されて、AとBは殺人罪ならびに現住建造物等放火罪の容疑で起訴されました。
 
2001年に始まった公判で、2人は殺意について強く否定し、Aは火炎びんを投げたこと自体否定しましたが、検察は現場リーダー役のAに死刑を、Bに無期懲役を求刑しました。
 
2003(平成15)年11月27日、神戸地裁はAとBに無期懲役の判決を言い渡しました。

死刑を求刑されたAが無期懲役になったのは、殺人罪における殺意の立証というハードルを超えることができなかったためで、裁判所は「未必の故意(死ぬかもしれないという予見)」を認めながら「確定的殺意(殺してやるとの意志)」までは認められないとしたのです。

 
裁判は最高裁まで争われましたが、2005年7月4日に大阪高裁、2006年11月16日には最高裁が控訴・上告をそれぞれ棄却して、2人の無期懲役刑が確定しました。
 
なお、指名手配された運転手役の男は8年間逃亡を続けましたが、2008(平成20)年7月に愛媛で逮捕され、2010(平成22)年に懲役20年の刑が確定しています。
それ以外に、店の下見をした男も逮捕されましたが、犯行への関与の程度が低いということで、起訴猶予処分になりました。
 
【事件の首謀者たち】
警察は、実行犯の背後に犯行を指示した黒幕がいるものと考え、捜査を続けていました。
そして、実行犯A Bの裁判が行われていた2006年になって、ようやく警察はその黒幕にたどり着く情報を得ることができ、事件の全貌が明らかにされたのです。
 
後であげる読売新聞の説明図が分かりやすいので、それをまず載せておきます。
なおこの記事が書かれた時点(2007年)では運転手役の男はまだ逃亡中で、下図でも「指名手配中」となっています。
 
ただご覧のように、無期懲役刑が確定した実行犯AとBがいずれも新聞では匿名になっていて*、ネットでも実名を知ることができなかったのに対し、指名手配中だったからでしょうか運転手役の男については「堀健一」と実名報道されています。

 *読売新聞に「中元慶久(52)」という店の下見をした男の名前が記載されている記事があり、これが起訴猶予になった人物ではないかと思われます

 

読売新聞(2007年11月28日)

 
それはさておき、明らかになった事件の黒幕は次の3人です。

①中井嘉代子かよこ):報酬を出して実行犯グループのリーダー()に犯行を依頼した事件の黒幕(当時59歳)

 

 
②中根一弘:中井嘉代子と実行犯グループのリーダー()を仲介し、犯行の謀議に加わった中井の側近(当時36歳)
 
③坂本明浩:中井の依頼を受けて実行犯を選定し、放火を立案、犯行の指示を与えた実行犯グループのリーダー(当時39歳)
 
 
神戸地裁の判決文*によると、暴力団組長の娘であった中井嘉代子は、1987(昭和62)年ごろから神戸市内でテレクラの経営を始め、1995(平成7)ごろから「コールズ」という名前で数店舗を営業していたようです。

 *この事件をめぐる裁判の諸判決文については、「アルトK」さんの「明るいネオンと漆黒の霧 リンリンハウス放火事件について」(2021)でURLを知ることができました。感謝して記します

 

〈中井嘉代子の神戸地裁判決文〉

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/569/035569_hanrei.pdf

〈中根一弘の神戸地裁判決文〉

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/996/033996_hanrei.pd

〈坂本明浩の神戸地裁判決文〉

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/619/037619_hanrei.pdf

〈A・Bの神戸地裁判決文〉

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/911/006911_hanrei.pdf

 

ところが、1998(平成10)年7月に大手の「リンリンハウス」が神戸市内に進出して出店を広げたこともあり、中井の「コールズ」の売り上げは減少の一途をたどります。

「リンリンハウス」元町店も、元は「コールズ」元町店だったところをビル所有者とのトラブルで退出させられたのと入れ替わりに「リンリンハウス」が入ったものです。

 

ただ、「コールズ」の衰退はライバル店のせいだけではなく、中井が所得隠しをして徴税を免れようとしたことから1999(平成11)年12月に大阪国税局による所得税法違反容疑の強制査察を受け、さらに兵庫県のテレクラに関する規制条例により、規制地域にあった「コールズ」各店は2001(平成13)年末で閉店を余儀なくされるという苦境に立たされていました。

 

中井が側近の中根一弘を介して坂本明浩と知り合ったのは、隠し所得を国税局に没収されないよう助言を得るためでした。

坂本の助言によって強制査察の3日後、中井は金融機関から約3億8700万円を中根に命じて引き出させ、中根のマンションに隠匿しています。

 

この坂本明浩という人物は、新聞報道では広島の金融会社の役員とされていますが、実際には暴力団と関係を持ち、覚醒剤など違法薬物の密売を行っている暴力団類似組織のリーダーでした。

この男が、裏社会のネットワークを利用して人を紹介し、中井の国税対策の相談にも乗っていたのです。

 

中井嘉代子は裁判で、テレクラ放火殺人事件への関与を否定して争い、中根や坂本の供述と食い違う主張をするのですが、裁判所は中井の「手足」として行動していた側近で金庫番でもあった中根の供述を信用できるとして、事件への中井の関与を認めました。

 

それによると、放火事件の前年1999(平成11)年12月に、坂本らと国税局対策の話をしている時、中井が「リンリンハウス」のおかげで自分のテレクラの売り上げが3分の1にまで激減して腹が立つと愚痴をこぼし、「リンリンハウス」を一時営業休止にするようなことができないかと話したのに対し、坂本が1000万円の報酬をもらえるならと応えたので、中井はそれを承諾して依頼したようです。

 

ただその時、具体的な嫌がらせ方法として上がったのは「汚物まき」で、坂本は手下に指示して2000年2月10日未明にペンキに汚物を混ぜたものを「リンリンハウス」の店舗にまいたり消火器を噴射*させたりしました。

 *元町店で店員がすぐに消火器を使えなかったのは、この嫌がらせのために消火器を店の奥に移動させていたことが原因とも言われます

 

ところが、その程度の嫌がらせでは「リンリンハウス」を1日たりとも休業させることはできませんでした。

 

嫌がらせがうまくいかないという報告を受けた坂本は困り、すでに400万円の前金を支払っている中井も怒ったので、中根を含め事件の5日前、2月28日にファミリーレストランに集まり、どうするか相談(謀議)しました。

この「最終謀議*」までに坂本は坂本で、実行犯らとどういう方法があるか相談をしていたようです。

 *それまでにも何度か飲食店や中井のテレクラの事務室で相談を重ねていた

 

読売新聞(2006年2月14日)

 

読売新聞(2006年3月3日)

 

「最終謀議」で坂本は、手榴弾を投げ込む、拳銃で看板を撃つ、ダンプカーで突っ込む、火炎びんを投げ込むという方法を提示し中井に判断を求めましたが、実効性の問題や人を殺傷するのは困るということで中井はどれにも否定的で、火炎びんだけが検討の余地有りとなったようです。

 

坂本は、「火炎びんのプロ」がいる(Aのこと)と中井に言ったそうですが、火炎びんの使用目的は、店を焼失させるというより、テレクラのいわば心臓部とも言える店の電話交換機(受付カウンター近くにあることが多い)に火をつけて使えなくさせるということでした。

 

こうして火炎びんを使って電話交換機を破壊することまでの同意はできたものの、その具体的なやり方については坂本に任せるということで、立ち入った関与を中井がしなかったのは事実のようです。

 

そこで坂本は、手下に店の下見をさせ、また以前「コールズ」の店舗だったので中井がよく知っている「リンリンハウス」元町店について情報を集め、火炎びんについてもジュースのびんで実験したところうまく割れなかったので、清酒の一升びんを使うことを決めるなど、急いで準備を進めました。

 

しかしその計画はまったく杜撰(ずさん)極まるもので、「火炎びんのプロ」だと坂本が中井に推したAも、先にあげた阪神百貨店社長宅火炎びん投げ込み事件に関与はしましたが、自分自身では火炎びんを投げたこともない「素人」でした。

 

最初の神戸駅前店では、Aは店に行こうとせずBひとりで火炎びんを投げますが、店員が出てくると慌てて逃げて火は消し止められます。

元町店では、AとBがそれぞれ1本火炎びんを持って店に行き、今度もBが入り口から中へ火炎びんを投げ込んだものの、水槽に当たってびんが割れないまま逃走。

布切れに火がついたままの割れなかった火炎びんを拾った店員が階段踊り場に出てきた時、Aが階段で火炎びんを割り炎が上がったため、驚いた店員が思わず手に持った火炎びんを放り投げたところ、割れてAの体に火が燃え移り火だるまになって服を脱ぎ捨てながら逃走したことは、すでに述べたとおりです。

 

このように、火炎びんによる「嫌がらせ」は大失敗どころか、Aが大火傷を負うまでになったのですが、彼らにとっても最も大きな誤算は、4人もの死者が出てしまったことでした。

 

元町店の場合、入り口以外は3階に一か所ある窓からしか避難できないビル自体の構造上の欠陥が大惨事の一因ではあるのですが、店舗の間取りなどの情報は、事前に下見もし前経営者の中井から話を聞いていたはずなのに、最悪の事態を考えもせず火炎びんを投げるという愚か極まることをしてしまってから、多くの死傷者を出してしまったことに、直接の実行犯も首謀者たちもうろたえ逃げるしかなかったのが実態だったようです。

 

実行犯のAとBは、裁判でも黒幕については口を割らなかったようですが、連絡・調整役としては重要な役割を果たしながらも、放火殺人の決定にも実行にも関与しておらず、それらについては「幇助罪」が問われたにとどまった中根一弘の供述が重要な手がかりとなって、先に裁かれた実行犯のA・Bに加え、中井喜代子と坂本明浩が事件の首謀者として裁かれることになりました。

 

【首謀者たちの刑事裁判】

実行犯であるA・Bに無期懲役の判決が、運転手役の下されたことはすでに触れましたので、事件の首謀者である中井嘉代子と坂本明浩の裁判について書いておきます。

 

中井と坂本は分離裁判となりましたが、検察はそれぞれに死刑を求刑しました。

 

それに対してまず、中井嘉代子について2007年11月28日の判決公判で神戸地裁の岡田信裁判長は、中井が「本件犯行の首謀者の一人としてその責任が極めて重大であることは明らかである」にもかかわらず、「本件への関与を一貫して否定し、捜査・公判を通じて共犯者らに責任を転嫁するなど不合理な弁解に終始しており、そこには自己の責任回避に汲々とする態度しか見受けられず、反省の態度は全く認められない」として共謀共同正犯の成立を認め、死刑求刑にも一理あるとしました。

 

しかしながら中井は、ガソリンを入れた一升びんを犯行に使うことまでは具体的に知らなかったなど、「本件犯行による死傷者の発生は被告人の本意でないことはもとより、被告人が積極的に被害者の死亡を認容していたとは認められず、未必の殺意の程度が高いものとはいえない」ので、「被告人には、被害者らの冥福を祈らせつつ生涯をもってその罪を償わせるのが相当であると」無期懲役刑を言い渡しました。

 

読売新聞(2007年11月28日夕刊)

 

この判決を不服として、中井・弁護側と検察側双方が控訴しましたが、2009年3月3日、大阪高裁の的場純男裁判長は地裁の判断に誤りはないと一審判決を支持して控訴を棄却、中井・弁護側だけが上告したものの、2010年8月25日に最高裁が上告を棄却して中井嘉代子の無期懲役が確定しました。

 

朝日新聞(2009年3月3日夕刊)

 

中井から依頼を受けて犯行グループに指示を与えた坂本明浩の裁判は、中井から少し遅れて始まりましたが、坂本の場合はこの事件だけでなく、販売目的で覚醒剤を所持していたことや2004年に広島県警広島東警察署での銃撃事件なども併せて審理されました。

 

2008年12月8日、神戸地裁の岡田信裁判長は、死刑を求刑されていた坂本に無期懲役の判決を言い渡しました。

 

 

岡田裁判長は、「犯罪の見返りに高額の報酬を得ようと考え、その目的を達成するためであれば他人の生命や身体、財産に対して危険性の高い手段を選ぶことも厭わない被告人の自己中心的で身勝手な態度は明らかであり、かかる動機、経緯に酌むべき点は皆無である」と坂本を厳しく批判し、「何の落ち度もない被害者らの感じたであろう恐怖感、絶望感、無力感は想像を絶するものがある。理不尽な行為により突然夫や息子、兄弟を失った遺族らの悲嘆や喪失感は誠に深く、本件犯行から8年以上経過した現在においても遺族らの処罰感情は峻烈である」と指摘し、「本件が,有期懲役刑をもって処断することが相当な事案であるとは到底言えず、過去の事例に照らしてみても、被告人に対し死刑を求刑する検察官の意見にも相当な理由があることは否定できない」と述べました。

 

しかし、「殺人については、未必的な殺意にとどまるものであり、殺害を積極的に意欲することはもとよりなく、確定的に認識していたものでもな」く、「自身の関与により多数の死傷者を出してしまったことについては終始自己の道義的な責任を認めて反省し、被害者らに対し謝罪の意を表明しているほか、自宅を売却して1000万円を準備して、遺族に対し被害弁償の申し出をし、そのうち死者2名の遺族に対しそれぞれ500万円の被害弁償をしていること」などを考えると、「本件が被告人に検察官が求めるような死刑を科すべき事案であると評価することはできず,被告人に対しては,亡くなった被害者の冥福を祈らせつつその生涯をもって自己の罪を償わせることが相当であると判断して」、坂本明浩に無期懲役を宣告しました*。

 *広島東警察署での銃撃事件については、神戸地裁は坂本に無罪の判決を下しています

 

これに対して弁護・検察双方が控訴し、2011年5月24日、大阪高裁の的場純男裁判長は、一審判決を破棄し、警察署銃撃事件を含めて改めて坂本に無期懲役を言い渡しています。

 

朝日新聞(2011年5月25日)

 

坂本はさらに上告しましたが、最高裁第三小法廷の岡田喜代子裁判長は2013年7月8日付で上告を棄却したため、坂本明浩の無期懲役が確定しました。

 

朝日新聞(2013年7月11日)
 
なお、中井嘉代子の側近の中根一弘ですが、中井と坂本の仲介や連絡、現金受け渡しなどに関わり、謀議の一部にも同席していたものの、放火殺人への積極的な関与がなかったことから幇助罪での起訴にとどまり、求刑懲役15年に対し、神戸地裁の岡田信裁判長は懲役9年の判決を下しました。
 
その後、大阪高裁での控訴審判決で懲役6年に減刑された中根は上告しますが、2008年に棄却されて確定しています。
 
【首謀者たちの民事裁判】
刑事裁判とは別に、中井嘉代子・坂本明浩・中根一弘に対して、「リンリンハウス」を経営する新宿ソフトが2007年10月、合わせて1億8千万円の損害賠償請求訴訟を神戸地裁に起こしました。
 
新宿ソフトは事件の被害者から損害賠償を求められ、死亡した4人のうち3人に約2億5千万円を支払い、一部は火災保険で補填されたものの、約1億8千万円を自己負担したという理由です。
 

読売新聞(2007年10月26日)

 
この裁判も、中井・坂本と中根は分離裁判となり、中根については一足先の2008年2月に神戸地裁で全額支払いの判決があり、中井と坂本の2人については2010年2月4日に神戸地裁(下野恭裕裁判長)で請求全額の約1億6100万円の支払いが命じられました。
 

読売新聞(2010年2月5日)

 
二審の大阪高裁では、一審が認めた弁護士費用500万円については支払いを認めず、その分を差し引いた約1億5600万円の支払いを命ずる判決がでました。
 
中根一弘はすでに刑期を終えて出所しているものと思われますが、無期懲役の中井嘉代子と坂本明浩はまだ服役中と思われ、中井は今年(2025)で83歳、坂本は63歳になるのではないでしょうか。
 
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小川里菜の目

今回の事件は神戸で起きたということもあり、年末ギリギリになって当時の現場にトラ吉と行ってきましたが、正確な住所が新聞記事を見てもよくわからなかった上に(後で住所を教えていただきました)、もうすっかり様子が変わっていることから、ここが現場だという写真は撮ることができませんでした。

 

【神戸駅】

JR神戸駅ホーム

 

「リンリンハウス」神戸駅前店は、JRの高架下(中央区元町高架通3−4)にあったそうです。

下の写真はその付近の写真をGoogleマップから拝借したものです。

すっかり様子が変わっていますが、こうした店の一つだったのではないでしょうか?

 

 

【元町駅】

JR元町駅ホーム

 

 

JR元町駅のホームから南側のビルを見ていると、もう使われなくなっていそうなビルの窓に、「テレクラ」の看板が残っていました。

もちろんこれは、場所からしても「リンリンハウス」元町店の跡ではありませんし「テレビ電話」とあるのでもっと後のものでしょう。

 

元町店は、神戸市中央区北長狭(きたながさ)通2丁目5−6という住所*と、当時の写真を手がかりにすると、おそらく下の写真のところと思われます。

これもGoogleマップのものをお借りしました。

 *「リンリンハウス」元町店と神戸駅前店の住所は、いったんブログをアップした後に読者の方から教えていただいたので、写真を訂正いたしました。情報提供をくださり、どうもありがとうございます。

 

「リンリンハウス」元町店

 

元町店(2、3階)があったと思われるビル

左壁面に「小便小僧」があるので

改修されてはいますが同じ建物なのでは……

 

さてこの事件ですが、金銭欲と感情だけで動き、人間の思考力も想像力も欠いた愚かな者たちが集まって引き起こした愚か極まる犯罪としか言うことができず、小川もただ脱力するばかりでした無気力

 

犯人たちについては、先に書いたように中井嘉代子が暴力団組長の娘で自分にも娘がいること、実行犯Aが幼くして両親が離婚し施設で育った*という以外、生い立ちや環境については分かりません。

 *事件後にAがかつて暮らした施設の関係者が、減刑嘆願書名を集めて提出したそうです

 

言うまでもないでしょうが、小川が「愚か」と思うのは、そもそも中井の「リンリンハウス」への嫌がらせ自体、的外れもいいところで、自分が経営するテレクラ店の売り上げが激減したのはライバル店の進出も無関係でないとはいえ、脱税しようとしたり県の条例に引っかかったり、あるいは「リンリンハウス」より店舗が見劣りしていたりといった原因が大きかったのでしょうから、ライバル店を一時休業させたからといってどうにかなるものではなかったはずです。

 

つまり中井の動機はただの八つ当たり、憂さ晴らしで、それに1000万円もの報酬とリスクをかけるなら、それを経営資金にして少しでも生き残りや新展開を図るのが経営者のすべきことではないでしょうか。

 

また坂本明浩も、調子のいいことを言って中井から金をせしめようとしますが、「汚物まき」という子どもの嫌がらせのようなことしか思いつかず、それを依頼主の中井に責められ金を返せと言われると、一気にやり方をエスカレートさせ、自称「火炎びんの専門家」で知識も経験もないAに、少しの想像力があれば大惨事の可能性があるとわかる「一升びんの火炎びん」で襲撃をやらせ、結果を聞いて狼狽(うろた)えながらも中井からさらに多くのカネをせしめて逃げることだけを考えたのです。

 

彼らは、死者が出ることを予見さえできずその意志もなかった愚かさゆえに、殺人罪の「殺意」認定を免れ、4人もの死者を出しながら無期懲役にとどまったのは、死刑の是非論はともかく、亡くなった方やそのご遺族からするとやりきれない思いだったのではないでしょうか。

 

もちろんどんな犯罪もそれ自体が愚行なのですが、愚者がおこなう愚かな犯罪ほど罪深いものはないと、新年早々深いため息をついてしまった小川です無気力

 

 

 2025年もよろしくお願いいたしますニコニコ飛び出すハート

 

現在に続く

昭和のホストクラブ

事件簿

 

Wikipediaの解説によると、東京で最初のホストクラブは、1965(昭和40)年に東京駅八重洲口前にできた「ナイト東京」だそうです。



ここは、前身のキャバレー(ダンスフロアを備え、女性従業員=ホステスが客をもてなす飲食店)を改装した店舗で、女性客が男性ダンサー(店に入場料を払い、女性客からチップをもらって生活するフリーのダンサー)相手に社交ダンスを楽しむところでした。

 

その男性ダンサーが生活の安定のために独立して女性専用のクラブを作るようになり、それが現在のホストクラブの原型になったと言われています。

 

その先駆けと言える新宿2丁目の「愛」を愛田武氏が開店したのが1971(昭和46)年のことで、1970年代に入って新宿歌舞伎町にいくつものホストクラブができたようです。

 

それでは、ホストクラブにまつわる事件を報じた新聞記事を追いかけて、昭和の8件に平成に入っての1件を加え、時系列で見ていくことにしましょう。

サムネイル

 

①「終夜、無許可営業 無軌道ホストクラブ」1973年3月6日、朝日新聞夕刊)

 

 

早くも1973(昭和48)年3月5日に、飲食店の届けしかしていないにもかかわらず、無許可でキャバレー形態(バンド演奏とダンス)の終夜営業をし、16歳の少年をホストに雇って女性客の相手をさせていた西浅草のホストクラブ「1/3」が警察の手入れを受け、29歳の経営者と35歳の店長が、警視庁少年2課(現在の少年事件課)に風俗営業等取締法、児童福祉法違反の疑いで逮捕されています。

 

同店はビルの3階にあり、1階には赤外線装置、2階階段には監視カメラを置いて、入ってくる人間を用心深くチェックしていました。

 

この店には15人前後のホストがおり、2月27日の警察の内偵時には19人の客のうち12人が女性*で、バーの経営者やホステス、芸者などがいたそうです。

 *逆に言えば、この店の場合は客の約3分の1が男性客ですので、これが一般的なのであれば、女性専用とはいえ初期のホストクラブには男性客もかなりいたことになります

 

この店では遅刻や無断欠席をしないよう、賃金カットの罰則を決めてホストを厳しく管理していました。

 

ちなみに、1973年の時点で都内には3、40軒のホストクラブがあったそうで、これが警視庁がホストクラブの実態にメスを入れた初めてのケースとのことです。

 

②「ホストクラブ従業員殺さる」1975年4月23日、朝日新聞)

 

 

この事件は、ホストクラブそのものとどう関係するのか不明なのですが、1975(昭和50)年4月22日午前10時45分ごろ、横浜市中区福富町のホストクラブ「ユタカ」のホスト小島文造さん(40歳*)が、間借りしている部屋で絞殺されているのを、訪ねてきた同クラブ経営者が発見し、神奈川署に通報しました。

死後数日たっていたそうです。

 *現在と比べると、当時はホストの年齢が高かったのかもしれません。それは客の年齢層に対応したものと思われますが、それについては後で触れることにします

 

③「生活保護費千八百万 詐取しホスト遊び」1976年8月17日、読売新聞)

 「女性主事、福祉を食う ホストクラブで豪遊」(同日、朝日新聞)

 

 

 

1976(昭和51)年8月16日、東京・品川署は品川区福祉事務所の主事である中山近子(54歳)を詐欺容疑で逮捕しました。

 

中山は、生活保護申請の受付や保護費支払いの事務を担当していましたが、1972(昭和47)年12月から1976(昭和51)年7月にかけて、架空の生活保護家庭7世帯を捏造し、それぞれの名義で作成した銀行口座に保護費を振り込んでは自分で引き出すという手口で、合わせて1850万円余りをだまし取っていました。

 

ところが、銀行から名義人の住所の問い合わせがあったので調べたところ、該当する世帯が実在しないことから担当者である中山の犯行が発覚しました。

 

彼女がまだ20代半ばだった1946(昭和21)年に夫を亡くした中山近子は、1948(昭和23)年に品川区役所に勤め始め、1966(昭和41)年5月には福祉事務所の主事になっています。

 

 

どういう事情か理解に苦しむ話なのですが、中山が得ていた17、8万円(手取り15万円ほど)の給与を、1970(昭和45)年ごろから娘夫婦がマイホーム資金としてほとんど取り上げ、中山には毎月1万円しか渡さなかったそうです。

そのために中山は生活保護費の詐取に手を染めることになります。

 

娘夫婦から受けている理不尽な仕打ちの憂さ晴らしなのか、不正に金を手に入れた後ろめたさからなのか、彼女は騙し取った金を使ってバーや六本木のホストクラブに4、5日おきに通い、一晩に10万円近く使うこともあったようです。

 

詐欺罪の裁判がどうなったかは不明ですが、中山は8月16日付で品川区役所を懲戒免職となっています。

 

④「詐欺、ホストに貢ぐ 5人から千三百万円」1978年6月5日、朝日新聞夕刊)

 「56歳女性、1300万円欺し取り ホストクラブに入れあげる」(同日、毎日新聞夕刊)

 

 

 

これも50代女性による詐欺事件です。

 

1978(昭和53)年6月5日、東京・北沢署は元家政婦の渡辺艶香(つやか、56歳)を詐欺の疑いで身柄送検しました。

 

渡辺は、1977(昭和52)年11月、世田谷区桜上水5のマンション「メゾンドクロアール」を紹介してもらった近くの不動産業者の妻のA子さんに、「女学校時代の同級生に大阪の証券会社の副社長の奥さんがいるので、へそくりを私に預ければ月1割の利息がもらえる」と持ちかけ200万円を受け取ったほか、その前年(1976年)5月ごろから知り合いの家政婦や看護師、美容院経営者など5人の女性から1160万円を同様の手口でだまし取っていました。

 

渡辺は、だました金で家賃8万円の当時としては高級なマンションに住み、高価な服やダイヤの指輪をつけ、銀座のホストクラブや渋谷のダンスホールに入りびたっていました。

 

そしてお気に入りのホストにはポンと5万円の小遣いを与え、都内のホテルをアパートがわりに借りてやり、一緒に京都に遊びに行ったりしていたそうです。

 

1978年5月に、A子さんが金の返済を求めましたが渡辺が返さないため、北沢署に訴えたもので、渡辺はダイヤの指輪を売った金で逃げ回っていましたが、逃走資金が尽きたのでしょう、家政婦紹介所に行ったところを捕まりました。

 

渡辺艶香は、犯行時の年齢から逆算すると1922(大正11)年に、警察官の父と教員の母の間に大阪で生まれ、旧制女学校を出てから大阪府の職員になり職場結婚するという、非常に堅実と思える人生を歩んできていました。

 

 

ところが、1961(昭和36)年に知人に住宅をあっせんした際に金をだまし取って捕まり離婚、その後は温泉芸者や内職で生活し、1976(昭和51)年ごろから上京して病院で家政婦をしていたそうです。

 

しかし先に見たように、上京後すぐに詐欺で5人の女性から金をまきあげホスト遊びを始めるのですから、生活条件に恵まれてきたはずの渡辺艶香という女性は、本性的に自己抑制の効かない遊び人だったとしか思えません。

 

⑤「ホスト泣かせ詐欺の女逮捕 二千万円だましとる」1982年5月26日、朝日新聞)

 

 

ホストにだまされ貢がされる女性がいる一方、ホストから金をだまし取る女もいました。

 

中野絹代(34歳)は、喫茶店を経営していた1981(昭和56)年1月、客のバンドマンの男性に月1割の利子を払うと投資の儲け話を持ちかけ、計450万円をだまし取りました。

 

また同年3月には、浅草のホストクラブの知り合いのホスト(41歳)にも同様の手口で300万円をだまし取ったのです。

 

東京・浅草署が1982(昭和57)年5月25日に中野を詐欺容疑で逮捕しましたが、同署では他にも数人のホストから一千万円近い金をだまし取った余罪があると見て調べているとのことです。

 

中野がだまし取った金を何に使ったのか、ホストクラブに出入りしていたのは明らかですが、詳しいことはこの記事からは分かりません。

 

⑥「ホスト狂い一千万円 カード詐欺の女逮捕」1982年6月3日、読売新聞夕刊)

 

 

ホストにのめり込む女性のことを昨今のSNSでは「ホス狂い(ほすぐるい)」や「ホス狂(ほすきょう)」と呼んでいますが、この事件は同じ意味の「ホスト狂い」という言葉が使われたごく初期の例のようです。

 

1982(昭和57)年6月3日、折田有子(ともこ、44歳)という女性が詐欺容疑で東京・本富士署に逮捕されました。

 

折田は1981(昭和56)年2月下旬、「秋間友子」の偽名で日本信販のクレジットカードを作り、5月21日から7月25日にかけて大手デパートなどで時計、カメラ、洋服などを82回、総額185万円買って踏み倒した容疑がかけられています。

 

この事件以前に折田は、同信販のカードで百数十万円の買い物をして焦げつかせ、取引停止になっており、それを加えると300万円を超える額を踏み倒していたことになります。

 

折田がカード詐欺を始めたのは事件の7年前(1975年)で、台東区内のホストクラブの常連となった彼女は、親しいホストにサラ金などから一千万円を借りて貢ぎ、その返済のためにカードで購入した時計などを質屋で換金していたようです。

 

折田有子という女性がどうして「ホスト狂い」になりカード詐欺の犯罪に手を染めてしまったのか、上の記事の3日後に読売新聞夕刊の「1220分署」というコラムで、小出重幸記者がその背景を解説しています。

 

「カード詐欺 ハイミスの半生」1982年6月9日、読売新聞夕刊)

 

 

「ハイミス」(女性の平均初婚年齢が20歳代前半だった1960年代初頭、「婚期」を過ぎた未婚女性を指す「オールドミス」という言葉が持つ負のイメージを払拭するために作られた和製英語)という今ではもう使われない言葉に時代を感じますが、折田有子は1956(昭和31)年に東京都立忍岡高校を卒業していますので、おそらく1938(昭和13)年生まれだと思います。

 

高校卒業後に彼女は北区役所の職員となり、ごく普通のOLとして社会人の人生を踏み出しました。

 

 

ところがそれも束の間、職業軍人だった厳格な父親が「脳軟化症(今で言う脳梗塞)」で倒れます。

 

これもまた時代を感じさせますが、「一人っ子として大切に育ててくれた親を見捨てて嫁には行けない」と考えた彼女は、周囲からの縁談を断り続けて、家計を背負いながら父親の介護にも努めました。

 

1975(昭和50)年、彼女が37歳になる年に父親が他界し母親と2人暮らしになると、そこで初めて彼女の中に「婚期を逸した」という思いがつのったと小出記者は書いています。

 

当時は欧米での女性解放運動の影響もあり、男女同権の意識や女性の自立が言われ始めていたとはいえ、「女性の幸せは結婚」という考え方が日本社会では今よりもまだ強くあった時代です。

 

「女性たちは平等を求める」

「私(女性)は二級市民だ」

 

そうした心の空洞を埋めてくれる相手(男性との出会い)を求めて、彼女は鶯谷のダンスホールに、仕事が終わってから足を向けるようになります。

しかしそこでは、ホストクラブの男たちが女性客を捕まえようと網を張っていたのです。

 

それまでまじめ一方で生きてきた折田有子は、そこで13、4歳も年下の1人のホストに出会います。

男性と付き合った経験のない彼女は、ホストの甘い言葉を真に受けてしまい、彼との結婚の夢をふくらませました。

 

すっかり彼と結婚する気になった折田有子は、千住に1DKのアパートを借り生活道具を運び込んで「新居」をしつらえ、彼を住まわせます。

役所の目を気にして週末だけの「通い婚」を続けた彼女でしたが、3年後、男は「恋人」と称する男性と一緒にさっさと姿をくらましてしまいました。

 

出会いからの3年間にサラ金十数社から一千万円もの金を借りて男に貢いでいた彼女の負債は、利息を合わせると三千万円にもなっていたそうです。

 

困った彼女は、1980(昭和55)年12月に区役所を辞め、退職金600万円を借金返済に充て、さらに北区の自宅も売り払いましたが、それでも借金は返済できず、せっぱつまったあげくにカード詐欺を思いついたのです。

 

逮捕後、娘の帰りを待つ74歳の老母に「顔向けができない」と言いながら、茨城県出身という以外は本名さえ知らないホストの男が「もし戻ってくれたら結婚したい」とこの期に及んでも言う折田有子に対しては、愚かというよりも切ないとの思いを禁じえません。

 

この事件のように、女性の満たされない欲求・願望につけ込み、それを埋めるかのように言葉巧みに近づき借金させてでも金銭を搾り取り、これ以上旨みはないと見るやさっさと女性を捨てて逃げてしまう悪どいホストが、1980年代以降に増えてきたのではないでしょうか。

 

⑦「ホストクラブ狂い22歳 義姉から横領800万」1983年11月25日、読売新聞夕刊)

 

 

先の事件から1年半ほど後の出来事ですが、ここでも「ホストクラブ狂い」という表現が使われています。

 

この事件は、神奈川県南足柄郡に住む看護師の猿渡好子(22歳)が、1983(昭和58)年11月25日までに東京・浅草署と荒川署に、横領、有印私文書偽造・同行使、詐欺の容疑で逮捕されたものです。

 

猿渡は、同年7月1日から1ヶ月間、台東区千束(せんぞく)でソープランド(当時の言い方では「トルコぶろ」)を経営していた夫の姉(34歳)が旅行に行く間、店の管理を任されたことを利用し、売上金など830万円を横領しました。

 

またそれに先立つ同年4月、出産のために入院していた千束の病院で知り合った主婦(22歳)の名前を使って健康保険証を偽造し、サラ金から5万円を借りてもいます。

 

猿渡の自供によると、横領したうち630万円は浅草のホストクラブに1ヶ月間通って使ってしまい、残りは生活費にあてたとのことです。

 

出産のため入院とあるので、彼女は既婚者で子どもまで生まれ、看護師であれば生活に困らない程度の収入はあったかと思いますが、それでもこのようなすぐにバレる横領をしてしまう理由が記事からはよくわかりません。

 

まさにホストクラブに狂ったということなのでしょうか……。

 

⑧「ツケ払えぬならソープへ行け 少女ら21人〝仲介〟」1988年9月10日、読売新聞夕刊)

 

 

1988(昭和63)年9月10日までに、警視庁少年2課(現在の少年事件課)と大崎、麹町署は、ホストクラブや風俗店の経営者と従業員合わせて8人を、職業安定法違反(有害業務の紹介)と売春防止法違反の疑いで逮捕しました。

 

この事件を見ると、女性客にツケで飲食をさせ、借金が支払えなくなると性風俗店をあっせんして働かせるという今日ホストクラブで問題になっていることが、すでに36年前からあったことがわかります。

 

新宿区歌舞伎町のホストクラブ「エィティ」(常務・徳田国三)では、家出中の少女を強引に客引きし、甘い言葉をかけてツケで飲食させ、店に通い詰めて「借金地獄」にさせてから、つながりのあるソープランド「ドンファン」(経営者・朴春吉)やホテトル業者(宮下利行)にあっせんして彼女たちに売春行為をさせていました。

 

ホストクラブ「エィティ」は1987(昭和62)年11月に開店しましたが営業成績が上がらなかったため、「ツケがきく店」をウリにして売り上げを伸ばそうと計画したようです。

そのターゲットとして目をつけたのが金銭感覚の未熟な少女、特に家を出て頼るもののない少女たちでした。

 

常務の徳田はホストを使って彼女らを恋愛気分に浸らせ、22万円から100万円ものツケをためてから「ツケ代を払え!」と迫り、朴や宮下に「仲介」してソープ嬢やホテトル嬢として働かせていました。

ホストクラブが受け取っていた紹介料は、月に平均して800万円にも上っていたそうです。

 

警察が確認できた被害女性は21人で、うち11人までが15歳の3人を含む家出少女たちでした。

 

記事によると、その中にはホストと同棲して連日店に通い、ツケの支払いを催促されると、同棲中のホストにツケが回されては困ると半ばみずから進んでソープ嬢になる少女もいたそうです。

人の温もりを求める彼女たちを「恋愛気分」にさせて支配することなど、ホストにはお手のものだったのでしょうが、同じことが今でも繰り返されているのではないかと思います。

 

⑨「ホスト遊び群がる少女 借金と売春のいたちごっこ」1996年10月15日、毎日新聞夕刊)

次の記事は、昭和ではなく平成8年のものですけれど、悪質なホストクラブの被害者が若い女性たちへと重心を移していった状況がよくわかるものなので、最後に載せておきます。

 

 

「ホストクラブ遊びにのめり込み、遊ぶカネ欲しさから売春したり、性風俗店で働いて補導される少女が増えている」で始まるこの記事を見ると、30年近く前からホストクラブに通う女性が低年齢化し、「ホス狂ー借金ー売春」という連鎖が、先の事件のような家出少女だけでなくさらに広がっていることが分かります。

 

売春を意味する「援助交際」が流行語大賞に入賞したのはちょうどこの記事が載った1996(平成8)年ですが、少女売春の広がりが、ホストクラブで「1回3〜5万円。1本20万〜30万円のボトルを入れる少女」の背景にあったことは間違いないでしょう。

 

記事では、歌舞伎町でホストクラブを経営する社長の話として、そうした若い子は「金銭感覚がまったくない。『オヤジからもらったカネだから』と惜しげもなく使う」と書かれています。

 

また警視庁少年2課によると、補導された少女のほとんどが、「家にも学校にも心を開ける人がいなくて寂しかった。ホストが優しくしてくれるのが、うれしかった」と話しているそうです。

 

このような社会風潮を見てホストクラブの側も、店を若い女性向けに模様替えし、20代前半の若いホストを雇うなどして「受け皿」を作ります。

 

これを見ると、ホストが若い女性客に手練手管で分不相応な額のお金をツケで使わせ、客はその借金を売春で稼いで返すというサイクルが1990年代の中ごろにはすでにできており、その延長線上に今日のホストクラブをめぐる問題があるように思われます。

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

ホストクラブに行った経験がない小川は、書かれたものやネット動画でしかホストクラブについて知らず、その仕組みや実態などの知識も理解も不十分ですので、今回のブログは昭和の新聞記事に載った8つのホストクラブにからむ事件を中心に紹介するにとどまっています。

 

ですから、それらからまとまった考察を加えることまではできませんが、小川の目に気になったことを少し書きとめておきます。

 

まず目についたのは、1980年代の後半あるいは1990年代以降とそれ以前とでは、ホストクラブに行く女性の年齢層や目的が大きく変わり、それにともなってホストクラブの質も(全部ではありませんが)変わったのではないかということです。

 

【オトナの女性が遊んだ初期のホストクラブ】

1970年代に入って増えた初期のホストクラブに通ったのは、下の写真にも見られるように、30〜50歳代のオトナの女性たちでした。

 

初期のホストクラブ

 

戦前・戦中に生まれた彼女たちは、戦後の混乱期から1960年代の高度経済成長期を生きてきた人たちで、モノのない窮乏の時代とモノが溢れ欲望全開の時代の両方を体験したことでしょう。

 

また、先にも少し触れたように、60年代の後半には女性の権利運動が盛んになり、女性も夫のため子どものためあるいは親のために自分の欲求を押し殺す生き方ではなく、もっと自分のために自分自身の人生/生活を楽しんでいいのだという意識が広がっていきました。

 

女性が男性を接客して楽しませるという従来からある男性のためのクラブとは逆に、男性が女性を接客して楽しませる女性のためのホストクラブが1960年代半ばに生まれ70年代に入って広がっていったのは、女性の意識の変化なしには難しかったでしょう。

 

その時代にホストクラブを利用した中年の女性たちは、経済成長によってある程度余裕のある生活を手にしながらも、それまであまり遊ぶことをせず/できずに生きて来た世代ではないでしょうか。

 

いろいろな事情から未婚のままで来た女性や、家族のために懸命に生きてきてようやく子どもの手が離れた女性、無我夢中で働きキャリアを積んできた女性たちが、もう若くはない自分の年齢にふと気がつくと満ち足りない思いが心をよぎる……そういう女性たちが、お酒を飲みながら男性(ホスト)のエスコートで自分が主人公になった楽しくキラキラした非日常の時間を過ごさせてくれるホストクラブに魅せられたとしても、なんの不思議もありません。

 

ホストのリードでダンスを楽しむ女性

老舗のホストクラブ「愛本店」

 

しかし中には、火のついた欲望に引きずられて幻想と現実の境が見えなくなる女性や、詐欺や横領といった犯罪に手を染めてまでホストクラブで遊ぶ金を手に入れようとする女性も出てきます。

 

こうして1970〜80年代は、ホストクラブで道を踏み外した女性や、あくどく稼ごうとする店にまつわる事件が新聞紙上を賑わすことになります。

 

【低年齢化した女性客と売春】

以前にこのブログで取り上げた「新宿歌舞伎町ディスコ中学生殺傷事件」で14歳の女子中学生2人が被害にあったのは1982(昭和57)年のことでしたが、このころ若者たちの溜まり場となっていたのは主にディスコでした。

 

『昭和の不思議101 2023年 夏の男祭号』(2023年7月15日)

 

また、原宿の歩行者天国(日祝日に車を通行止めにして歩行者に解放された道路)で、少年少女たちがディスコを飛び出し路上で踊った「竹の子族」が有名になったのも1980年代です。

 

竹の子族の集合写真(1984年)

(Wikipediaより)

 

しかし、1990年代に入ると暴走族が集団を維持できずに衰退していったように、家庭や学校に居場所を持てず、かといってそこからドロップアウトした仲間でグループを作ることもできない若者たちの個人化が進んでいきました。

 

 

こうして「大人の社交場」という当初のあり方とは異なる、居場所を失い孤立した若い女性たちにねらいをつけた悪質なホストクラブが、1990年代から2000年代に生まれてくるのです。

 

いつのころからかホストクラブでは女性客を「姫」と呼ぶそうですが、寂しさを抱えた未熟な女性にとって、ホストが優しくチヤホヤして、あたかも自分が認められ大切にされているかのような幻想を抱かせてくれるホストクラブは、きっと居心地の良い空間だったことでしょう。

 

また、単に受け身的に楽しませてもらうだけでなく、最近の「推し活」のように、自分が店でお金を使うことでお気に入りのホストをナンバーワンに押し上げるという「やりがい」を感じられるのも、自己肯定感に飢えた女性にとって大きな魅力となる巧妙な仕掛け*でした。

 *ショービジネスの世界で同様の仕掛けでファンを集めたのは、2005年に始まるAKB48ではないでしょうか(AKB商法)

しかし、彼女たちにホストクラブで遊ぶだけの金がないことは明らかですから、気がつけばとうてい支払えないまでにツケが溜まり、先にあげた「ホス狂ー借金ー売春」という泥沼にハマってしまうことになります。

 

神戸新聞(2023年10月4日)

 

【規制と抜け道のイタチごっこ】

ホストクラブをめぐるこうした問題は、今日に至るも繰り返されており、次の記事のような自治体・警察の取り締まりや業界内の自主規制の動きと、悪質なホスト/ホストクラブとのイタチごっこが続いているのが現状です。

 

神戸新聞(2024年7月19日)

 

神戸新聞夕刊(2024年9月6日)

 

それをうかがわせる今年のネットニュースと新聞記事の一部から、見出しだけあげておきます(カッコ内は小川の補足)

 

「悪質ホストの闇 “警固界隈(けごかいわい:西のトー横と呼ばれる福岡の公園)”の少女は「一晩で80万円…好きだったから」“洗脳マニュアル”も存在 福岡」(2024.2.29、FBS NEWS NNN)

 

 

「頂き女子「ウソでもホストの『好きだよ』がうれしかった」、「ホス狂い」から詐欺指南へ…心境を吐露」(2024.4.22、読売新聞)

 

「悪質ホストクラブの「売掛金」被害が全国にまん延 廃した歌舞伎町では新たに「前入金」の手法が登場」(2024.6.15、東京新聞)

 

「歌舞伎町の店から女性30人、全国の風俗店へ 悪質ホストクラブとは」(2024.8.1、朝日新聞)

 

「不当なツケ、恋愛感情に乗じ依存……規制対象に検討 悪質ホスト問題」(2024.10.2、朝日新聞)

 

「きっかけは警固界隈 ホストにはまり闇バイト 10代女性が落ちた沼」(2024.11.22、毎日新聞)

 

「「刑務所に行くことになるよ」女性客を脅して取り立て 歌舞伎町のホストクラブを営業停止処分 都公安委」(2024.11.25、東京新聞)

 

「アプリで彼氏→実はホスト 一夜で借金108万円 「一撃講習(常連客にならないと見た女性から一夜で金を搾り取る手法)」のわな」(2024.12.3、毎日新聞)

 

「歌舞伎町で客待ち疑い、50人逮捕 ホスト代稼ぎか 10~11月」(2024.12.4、毎日新聞)

 

 

接客のプロであるホスト/ホステスにもてなされお酒や会話、歌や踊りを楽しめる店があることは、性別に関係なく決して悪いことではなく、むしろ好ましいと小川は思います。

 

しかしそれが、客の弱みにつけ込んで食いものにする場所となれば話は違いますショボーン

ましてや未熟な女性を舞い上がらせて借金地獄に落とし、売春へと追い詰める悪質ホストクラブに、小川は悲しみしか覚えません。

 

けれども、居場所を失い寂しさと自己肯定感の欠如に苦しむ若い女性が少なくない現実が放置されている限り、そこにつけ込む悪質なホスト/ホストクラブの根絶は難しいのではないでしょうか…ショボーン

 

ですから、先にあげた女子中学生殺傷事件を機にディスコへの規制を強化しても問題の根本的な解決につながらなかったように、悪質なホスト/ホストクラブの摘発と処罰はもちろん必要ですが、そこにしか自分のよりどころがないと思い込んでいる女性たちを受けとめサポートする制度や市民の活動をもっと支援する必要があるのではないかと思う小川です。

 

 

今回もお読みくださりありがとうございますおねがい

次回もどうぞよろしくお願いします💓

 

夫と妻と愛人が共謀

佐賀 替え玉保険金殺人事件

1981年

これまでこのブログでは、名古屋実娘保険金殺人事件(1986年)と佐賀・長崎連続保険金殺人事件(1992年/1998年)の2件の保険金殺人事件を取り上げました。

 

今回は、殺されたはずの男が実は保険金殺人の主犯、被害者はまったくの別人で、しかも犯人の妻と愛人が共犯という、佐賀〝替え玉〟保険金殺人を紹介いたします。

サムネイル

 

読売新聞(1981年1月29日)

 

まず、この事件に関係する人物を相関図にまとめておきますニコニコ

 

(作成:小川里菜)

 

【主犯・酒井 隆の借金と破産】

この事件の主犯である酒井 隆(事件当時42歳)は、1973(昭和48)年に勤めていた福山通運を退社し、炉端焼き店「和」を開業します。

その後この店を活魚料理店に衣替えした酒井は、保冷庫を購入し「酒井水産」という商号で鮮魚の仕入・卸売へと事業を拡大しました。

 

1979(昭和54)年11月に酒井水産を有限会社へと法人化した酒井は、代表取締役社長となりますが、その経営は必ずしも順調とは言えなかったようです。

 

1980年(昭和55)年に入ると、経営不振に追い打ちをかける出来事が立て続けに起こります。

 

まず同年2月、酒井水産の従業員が交通事故を起こし、多額の損害賠償金を負うことになります。

それもあってさらに資金繰りが悪化したことが関係したのではないかと思われますが、同年3月に北九州市中央卸売市場の売買参加者の資格が取消されます*。

 *理由は明らかでありませんが、一般に、経営資金が基準に満たなかったり市場関係者への支払の著しい遅延など、資力信用に欠けると判断された場合、資格が取消されるようです

 

また1980年は、観測史上まれに見る冷夏と長雨に見舞われた年で、鮮魚の入荷量が減り、同社の営業不振に拍車をかけました。

 

この間に酒井は、愛人の中村豊子(事件当時43歳)から7千万円*の経営資金を融資してもらっていますが、闇金融からも3億円余りの借金をしていたようです。

 *愛人の豊子が持っていた7千万円もの大金は、彼女がこの事件の共犯者と偽証した別居中の夫Fさんが、失踪前に勤め先から横領した金で購入していた不動産を豊子が処分して手に入れたものと見られています

 

しかし経営状態はその後も改善せず、同年10月、酒井水産はとうとう不渡手形を出し倒産してしまいました。

同社ならびに酒井隆の負債は、同年末には約2億8千万円*に及んだとのことです。

 *毎日新聞(1981年1月29日)の下の記事では、酒井の負債は4億7千万円とあります

 

 

ただ同年11月に、どうやって資金を工面したのか、酒井は北九州市小倉北区堺町にスナック「みち子」*を開店し、愛人の豊子に店を任せています。

 *この店は、酒井と妻の清美、豊子の3人で複数回にわたり保険金殺人の計画を練る場所として使われました

 

その時すでに北九州市小倉北区熊谷の酒井水産(兼自宅)の土地などはすべて借金の担保となっていたため、酒井が借金返済のために新たな借入をすることはもう不可能でした。

 

【多発していた保険金目的の犯罪】

次の表は、昭和57(1982)年版「犯罪白書」に載ったものです。

 

 

ご覧のように、この事件の前々年と前年、すなわち1979(昭和54)年と1980(昭和55)は、保険金目的の殺人・放火が飛び抜けて多かった年で、おそらくニュースでも盛んに取り上げられたことでしょう。

それが模倣犯罪を誘発したことは十分に考えられることです。

とすれば、せっぱつまった酒井が保険金殺人を思いついたのは、ある意味で自然な流れだったのかもしれません。

 

酒井が誰にどれだけの保険金をかけていたのか、詳細な情報は入手できませんでしたが、後で述べる大阪地裁の判決文*には次のように書かれています(カッコ内は小川の補足)

 *事件後に清美と2人の子どもが、酒井隆にかけられていた保険金の支払いを求めて起こした訴訟の判決文

 

「酒井隆及び原告清美は、昭和48(1973)年4月から昭和55(1980)年9月までの間、被告(日本生命)との間で、本件保険契約4件を含め21件の生命保険契約を締結し、その保険金額は災害保険が3億6600万円、死亡保険が5億1300万円、満期保険が1億3900万円に達していた。」

 

【兄弟をまず殺そうとした酒井】

酒井がまず狙ったのは酒井水産の従業員だった実弟の保険金で、交通事故に偽装して弟を轢き殺し保険金を詐取しようと計画したのです。

弟には、1978年に酒井 隆を受取人に5千万円の保険がかけられていました。

 

弟は、1980年9月23日午前2時35分ごろ、赤信号で停車していた乗用車が後続車に追突されたので車外に出たところ、ライトを消した車が自分をめがけて突進してきたため、あわてて避けて難を逃れたというのです。

 

車は猛スピードで走り去り、ナンバーが確認できなかったため犯人はわかりませんでした。

追突した車は、実は北九州市門司区内で酒井 隆が盗み運転していたものでした。

 

朝日新聞(1981年2月4日)

 

これとほぼ同じ9月ごろ、酒井は実兄と妻の実弟も交通事故に見せかけて殺し、保険金を得ようとしています。

 

酒井水産の専務をしていた実兄と、従業員だった清美の弟は、いつも2人で組んで会社のトラックを運転し、鮮魚を運んでいました。

 

その日、小倉から鯛を積んで広島に向かっていた2人のトラックの右前輪タイヤが、中国自動車道(高速道路)の下関市付近で突然外れそうになり、車が傾いたそうです。

あわててトラックを停車させ、危ういところで大事故にならずに済みましたが、普段からトラックの整備は怠らずしていたにもかかわらず、調べてみると右前輪のタイヤのナットが6本とも何者かにゆるめられていたのです。

 

このように酒井は、近親者や従業員ら約10人にかけていた計3億円あまりの生命保険、労災保険の詐取を計画・実行しており、妻の弟も事故死の場合は9千万円がおりる生命保険を掛けるよう入社時に酒井に勧められ、毎月4万円もの掛け金が払えないと断ると「会社が払う」というので加入したそうです。

 

読売新聞(1981年2月4日)

 

【替え玉保険金殺人を計画】

実の兄弟と義弟の保険金殺人に失敗した酒井は、いよいよ替え玉保険金殺人の企てに手をつけるのですが、その前に酒井自身が自殺して保険金を得ようとしたとされています。

 

ただそれは、替え玉保険金殺人を謀議実行した酒井隆・清美・中村豊子の3人の話によるものですから、事実だったのかどうか小川は鵜呑みにできないと思っています。

なぜなら、兄弟縁者でさえ平気で殺そうとする人間が、自分の命と引き換えに借金を返そうとしおらしく考えるとはとても思えないからです。

 

ですので、その真偽には大いに疑問があるのですけれど、彼らの主張によると、1981年1月12日と13日、借金返済をどうするかスナック「みち子」で3人が相談をした時に、酒井隆が、自分が焼死するか海中に自動車もろとも落下して死に、保険金を得ようと言い出したというのです。

 

しかし、清美と豊子がそれに反対したため酒井は、それでは似た男を替え玉にし自分が死んだように見せかけて保険金を詐取しようと提案し、それについて3人で謀議をめぐらせ、すぐに実行に移したのです。

 

【標的にされ殺害された森下隆基さん】

謀議の翌々日(1月15日)、酒井は替え玉殺人後の隠れ家として、福岡市西区愛宕2丁目にあるパール岡本というマンションの一室を中村豊子名義で借り、清美に生活道具を運び込ませます。

 

パール岡本(写真は現在)

 

そうしておいて酒井は中村豊子を連れ、数日かけて福岡競艇場と飯塚オートレース場そして若松競艇場に行って替え玉にする男を探しました。

 

若松競艇場(西日本新聞)

 

そしてついに1月21日午後4時ごろ、酒井と豊子は若松競艇場で酒井に年齢や背格好が似た森下隆基さん(当時46歳)と知り合うのです。

 

 

そこで酒井は、森下さんに家まで送って行こうと巧みに誘って車(豊子所有の日産スカイライン)に乗せ、適当な口実を設けてまず酒井の自宅に寄ります。

そして自宅で、森下さんを乗せた車を水没させた後の足となるレンタカー(トヨタカローラマークII)*に豊子が乗り、酒井が運転するスカイラインを追走したのです。

 *レンタカーは酒井の指示で清美が弟(M夫)に頼み、事前に借りさせたものですが、駐車していたら盗まれたと姉から聞かされた弟は、事件前に警察に盗難届を出したそうです。弟は事件への関与を疑われていませんので、事情を知らないまま姉から言われるままに動いたのでしょう

 

途中で3人は一緒に食事をし、午後10時ごろに森下さんの自宅(姪の浜)に近い福岡市西区の生の松原にある元寇防塁付近で、酒井が助手席の森下さんの首をタオルと細紐で絞め、さらに車外に逃れ出た彼の顔面などを金属バットやコンクリートブロック片で殴打して意識不明の状態にしました。

この時、替え玉であることがバレないように、森下さんの顔面を特に激しく傷つけたようです。

 

元寇防塁(生の松原地区)

 

 

意識を失った森下さんを車のトランクに入れた酒井と豊子は、途中で森下さんの服を酒井のものに着替えさせ、ポケットに酒井の名刺を入れて、佐賀県唐津市肥前町の星賀(ほしか)漁港に行きました。

 

星賀漁港

 

真夜中を過ぎた1月22日午前0時30分ごろ、2人はスカイラインの運転席に森下さんを乗せ、ギアをニュートラルにして車を押し、岸壁から海中に落とそうとしました。

 

しかしその夜、岸壁には年に1度入港しているかどうかという大型クレーン船がたまたま停泊しており、係留のために張られたワイヤーロープがちょうど落ちようとするスカイラインの前方を横切っていたのですが、暗闇の中で酒井はそれに気づきませんでした。

そのために、前半分が海にせり出しながら、車はロープに引っかかって海に落ちません。

 

あせった酒井は、仕方なくマークII(レンタカー)を後進させてスカイラインを押し、なんとか海に落とすことができました。

ところが、勢いをつけてバックでスカイラインを押した時に、マークIIのテールランプが壊れ、証拠となる破片を現場に残してしまったのです。

 

一方、すでに仮死状態にあった森下さんは、転落・水没した車内で溺死するという悲惨な最後を迎えさせられました。

 

朝日新聞(1981年1月30日)

 

【振り回された警察】

酒井と豊子はマークIIで現場を去りましたが、車の転落を目撃した夜釣りの人が午前0時40分ごろに唐津署に通報し、駆けつけた警察が同日(1月22日)未明に水没していた車を引き上げました。

 

車内から男性の遺体が発見されたので、警察はまず身元の確認をしようとしましたが、この初動捜査の段階で酒井らによる替え玉の策略にまんまと欺かれてしまいます。

 

まず、遺体のポケットから酒井隆の名刺が見つかったため、警察は遺体確認と事情を聴くため家族に連絡を取ります。

 

現場から逃走した酒井と豊子は、北九州市小倉北区の西港の海中にマークIIを遺棄してから清美に連絡を入れて呼び出し、午前4時ごろに国鉄(現在のJR九州)小倉駅近くで3人は合流して今後の確認をしました。

 

その後、3人はタクシーを拾い、酒井は途中で降りておそらく隠れ家のマンションに、女性2人は酒井の自宅に戻り、警察からの連絡で午前8時ごろにそろって警察署に遺体の身元確認に行きます。

 

顔面がひどく損傷を受けた遺体を見て、2人より先に駆けつけた酒井の実兄は「これは弟でないようだ」と言ったそうですが、最初はためらう様子だった清美と豊子が、着衣や前歯の特徴から「夫/社長に間違いありません」と涙ながらに語ったため、警察は2人の言うことを信じてしまいました。

 

おまけに警察は、司法解剖時に遺体の指紋を採取していながら、それと酒井隆の指紋を照合するという「捜査の基本」さえ怠ったのです。

 

読売新聞(1981年1月29日)

 

こうして「夫」の遺体を引き取った清美は、翌23日に早ばやと葬儀をすませ、遺体を火葬してしまいました。

一刻も早く「証拠」を隠滅してしまおうとしたのでしょう。

 

 

「夫」の葬儀での清美

(上・朝日新聞、下・読売新聞)

 

しかし、遺体にだまされた警察も、車の転落が運転ミスによる事故でないことは、傷だらけの遺体や車の状況からすぐに気づきました。

そこで警察が考えた犯行のシナリオは、殺された酒井隆が借金まみれで闇金の取り立てにあっていたのであれば、妻と愛人が共謀して酒井を殺害し、彼にかけられた多額の保険金を手に入れようとしたのではないか、というものでした。

 

警察は、25日からその線で中村豊子と酒井清美を署に呼び出し、事情聴取を始めます。

 

これは小川の推測ですが、警察は、男を殴り失神させ自動車に乗せて海中に落とすような荒業(あらわざ)は女2人では不可能だろうと考え、男の共犯者がいるに違いないと豊子を追及したのでしょう。

 

そこでそれに合わせて豊子が、7年前から別居状態の夫Fが共犯者だと供述したため、27日に警察はまず豊子を殺人容疑で逮捕するとともに、この事件とは無関係のFの逮捕状を取って指名手配しました。

 

警察はここでも犯人の嘘に振り回されるのですが、一方、豊子は酒井の保険金の受取人でないことから、莫大な保険金の受取人である清美の関与は間違いないと考え、重要参考人として事情聴取を続けます。

 

読売新聞(1981年1月28日)

 

朝日新聞(1981年1月28日夕刊)

 

なお、1月28日の昼に警察は、北九州市小倉北区の西港で、犯行に使われたレンタカー(マークII)を発見し、海中から引き揚げています。

 

読売新聞(1981年1月28日夕刊)

 

読売新聞(1981年1月29日)

 

【明かされた真相と酒井隆の自殺】

1月27日、中村豊子は、共犯だとした夫Fが車の運転ができない点を指摘されると、Fとの共謀を一転して否定し、星賀港で殺したのは実は酒井隆ではなくFだったと新たな虚の供述をしました。

 

しかしさすがに警察も、上の読売新聞の記事にあるように1973(昭和48)年にFが受けた手術の痕が遺体になかったことから豊子の話は嘘だと判断しましたが、遺体が酒井隆だとの大前提に疑問符がついたため、28日の朝から妻の清美を厳しく問い詰めたところ、午後になって「殺された被害者は自分の夫ではない。夫がどこからか連れてきた男で、名前は知らない」と自供したので逮捕しました。

 

そこで被害者の指紋を警察庁に照会した佐賀県警は、星賀港の遺体が森下隆基さんであることを確認し、豊子もそれを認めました。

事件に無関係と分かったFへの逮捕令状がこの日に取り消されたのは言うまでもありません。

 

ここに至ってようやく事件のあらすじを把握した警察は、1月28日午後5時55分から捜査本部の記者会見を開き、この事件は殺されたはずの酒井隆こそが主犯であり、妻の清美と愛人の中村豊子の3人で共謀し、無関係の第三者を巻き込んだ替え玉保険金殺人であったと発表したのです。

 

毎日新聞(1981年1月29日)

 

事件から1週間であっけなく犯行がバレてしまった酒井隆は、1月28日の午後7時42分、国鉄(現在のJR西日本)山陽本線新下関駅の下り線6番ホームから、走ってきた普通電車に飛び込んで自殺しました。

 

新下関駅6番ホーム

(撮影・hiroさん)

 

現場のホームに残された酒井のカバンから、運転免許証と「小倉警察署長殿」と書かれた封筒に入った便箋10数枚の遺書が見つかり、そこには事件のいきさつが克明に綴られていたそうです。

 

 

 自分が計画し、妻と中村(豊子)を誘い、自分と中村で実行しました。4億円の負債を負い、1日5万円ぐらいの金利に追われ、自分の体で清算することを考えたうえでやりました。身勝手な考えですが、身代わりを立て、保険金を取ることを考えつきました。1月21日、若松ボートに中村と行き、中年の男からいろいろ話しかけられたので、この人を自分の身代わりにして殺そうと思いつきました。

 その人の名前は知らないし、聞いてもいないが、福岡の人とのことであったので、送るように見せかけ、松原のある付近で助手席に乗ったその人の首を後ろから絞め、バットでなぐり、トランクに入れて肥前町星賀の農道に行き、その人の洋服と自分のものを取り換えました。星賀港に行き、事故に見せかけ、海に落としました。名前も知らない人にも家族があると思います。大変なことをしでかし、死んでおわびいたします。家内や中村についてはご寛大にお願いいたします。

酒井の遺書(要旨)

読売新聞(1981年1月29日夕刊)

 

朝日新聞(1981年1月29日夕刊)

 

夫の自殺を聞いた清美は、「自分だけが死ぬのは勝手すぎますよ。むしろ私が死にたいくらいです」とつぶやいたそうです。

 

読売新聞(1981年1月29日夕刊)

 

【妻と愛人の裁判と判決】

主犯の酒井隆が自殺したため、中村豊子と酒井清美の2人だけが殺人罪で起訴されました。

 

1981年4月13日に佐賀地裁唐津支部で開かれた初公判では、清美の弁護側が、酒井と共に「替え玉」の物色から暴行・殺害の現場にもいた豊子と比べて清美の事件への関与の程度が低いということでしょう、「共謀共同正犯」とする根拠をただしたと記事は伝えています。

 

朝日新聞(1981年4月13日夕刊)

 

それも考慮されたのか、検察は中村豊子に懲役10年、酒井清美には懲役6年を求刑し、それを受けて、1984(昭和59)年5月21日の判決公判で河原亮一裁判長は、中村豊子に懲役7年、酒井清美に懲役4年の判決*を言い渡しました。

 *控訴審の記事が見当たりませんので、判決はこれで確定したと思われます

 

朝日新聞(1984年5月22日)

 

【清美と子どもたちが酒井隆の保険金支払いを求め提訴】

先に少し触れたように、酒井清美と2人の子どもが、清美の裁判が進行中の同年7月、酒井隆にかけられていた4件の保険金(死亡保険金額計1億6千万円)を支払うよう日本生命保険相互会社(本社・大阪市)に求める訴訟を起こしました。

 

読売新聞(1981年7月2日)

 

それに対して、1985(昭和60)年8月30日、大阪地裁の福永政彦裁判長は、契約者が信義則に反しているのだから契約は失効しているとし、支払い請求を認めませんでした。

 

読売新聞(1985年8月31日)

 

 

サムネイル

小川里菜の目 

【警察のミス】

この事件は、発覚から1週間で解決したとはいえ、犯人側の計略に乗せられ被害者の身元を誤認するという初動段階での警察のお粗末なミスから、主犯の酒井隆に法の裁きを下す機会を免れさせ、身勝手な自殺を許すことになってしまったことは、大失態と言わねばならないでしょうショボーン

 

特に、事件に巻き込まれただけでなく、犯人らの手で別人として火葬までされてしまった森下さんのご遺族の怒りと無念は、察するに余りあります。

 

朝日新聞(1981年1月29日)

 

そのミスをおさらいすると、①被害者の遺体を共犯者(妻と愛人)の証言を鵜呑みにし、指紋照合もせずに酒井隆だと決めてかかったこと、②酒井の血液型はAB型だったにもかかわらず遺体のA型だとの思い込みを続けたため、真の被害者の森下さんもA型だから、血液型まで一致する替え玉をかなり以前から周到に準備していたに違いない(実際には犯行当日に競艇場で出会った)と考えたこと、③さらに愛人の出まかせで夫Fが共犯者だと信じ込まされ、無関係の人間の逮捕状を請求して指名手配したこと、です。

 

読売新聞(1981年1月30日)

 

ちなみに、読売新聞は上の記事の前日には、酒井と替え玉(森下さん)の血液型が同じという警察の誤認にもとづく発表を前提に、酒井は冷酷にも「名も知らぬ人を殺した」とのウソを遺書に書いていると報じています。

 

読売新聞(1981年1月29日夕刊)

 

詳細は以前のブログをお読みいただきたいですが、佐賀・長崎連続保険金殺人事件(1992/1998年)でも佐賀県警は初歩的なミスを犯しています。

 

 

そうしたことから佐賀県警に対して「さばけんけい」つまり「事件をうまくさばけない県警」と揶揄する声もあったようですが、そんな皮肉を言って済まされる問題ではありません。

 

どうして初歩的な捜査ミスが防げず、また繰り返されるのかについての原因解明と対策が厳しく求められねばならないと小川は思いますショボーン

 

【替え玉保険金殺人の闇】

小説家で実際の事件を題材にした数多くの犯罪ノンフィクション作品でも知られる佐木隆三氏が、この事件について、「命を引き換える退廃 死の決済、死刑も無力」というエッセイを朝日新聞に寄せています。

 

朝日新聞(1981年3月3日夕刊)

 

彼は、「保険金詐欺を目的にする殺人事件が、推理小説の世界ならいざ知らず、現実にわたしたちの前に姿をあらわすのは、1970年代に入ってからである」と書き出し、いくつもの事件を列挙したうえで、「こうして続発する事件は、多くのばあい夫婦または親子間の、生ぐさい血のドラマ」だと述べています。

 

確かに、保険金を手段にするという事の性格上、まずは近親者、さらには雇用関係にある者を標的にした犯罪にならざるをえず、この事件の主犯である酒井隆も、最初は自分の会社の専務をしている実兄と従業員の実弟・義弟がターゲットにされ、それが失敗すると他人を身代わりに自分が死んだことにする「奇策」へと犯罪をエスカレートさせました。

 

酒井の生い立ちや家族環境についての情報が得られませんでしたので、特に確執や怨恨があったわけではなさそうな兄弟を、しかも一緒に会社を盛り上げようとしてきた近親者の命を、こうも簡単にカネに換えようと考えることができた酒井の(そしてそれに加担した妻と愛人の)狂ったとしか言えない人間性は、小川の理解を絶するものです。

 

佐木隆三氏もこのエッセイでは、その点についての突っ込んだ分析はしていませんが、「分別ざかりの男女が3人集まっての、思いきりのよさ」に「唖然とさせられる」、「半ば感心している」と書いています。

 

つまり、普通は一生かかっても手にできない億単位の大金が、他人の命を代償に、銃砲などの面倒な道具もなく簡単に実行できる(かのように思ってしまえる)保険金殺人という犯罪の「魅力」が、分別を超えた悪い意味での「思いきりのよさ」を誘発したのでしょう。

 

佐木隆三氏によれば酒井は、替え玉殺人がうまくいき借金を返せれば「2人でうまく会社をやっていってくれ」と妻と愛人に言い聞かせ、自分は韓国に飛んでひっそりと暮らすつもりだったそうです。

 

しかし酒井は、替え玉殺人がバレたと知ると、警察の記者会見の2時間後にはあっさり自殺してしまいます。

 

このジタバタ「悪あがき」をしない「潔さ」とも見える安易さや軽さには、最後は自分の命さえ投げ出せば、他人の命を奪おうが何をしようがかまわないという犯罪者の「思いあがり」、この種の「犯罪の怖さ」があると佐木氏は指摘しています。

こうした犯罪者には、死刑制度の抑止力もまったく機能せず、無力だからです。

 

【保険業界の対策と根絶されぬ犯罪】

1970年代に入って頻発し始め、先に見たように1979−80年にピークとなった保険金詐欺事件は、ろくに審査もせず安易に巨額の保険を販売して利益をあげようとし、結果として犯罪を誘発してきた保険会社への風当たりを強くすることになります。

 

朝日新聞「社説」(1981年2月1日)

 

この事件を機に、批判を受けた生命保険業界も、保険金目当ての事件への対応策(自主規制)を取り始めることになりました。

その主な内容は、「何十倍補償といった生命保険の〝宝くじ〟的色合いを薄めることによって事件の防止を図ろうというもの」でした。

 

詳細は省きますが、さらに2010(平成22)年には、保険に関する法律が約100年ぶりに抜本改正されて保険法が施行され、保険金詐欺などのモラルリスクを防止するために、保険会社と保険契約者または被保険者との信頼が損なわれる重大な事由がある場合に、保険会社が保険契約を解除できる規定が新たに設けられました。

 

そうした対策もあってか、近年では保険金殺人事件があの時代のように頻繁にニュースに登場することはなくなったのではないでしょうか。

 

読売新聞(1981年8月2日)

 

しかし、保険金目的の殺人が根絶されたわけではありません。

 

2021(令和3)年11月21日に、広島市に住む南波大祐(当時30歳)が、たまたま宗教の勧誘を受けて知り合った廿日市市の男子大学生(当時21歳)を自分の替え玉にして殺害し、自分自身にかけた6億円を超える保険金を、受取人にした弟になりすまして詐取しようとした替え玉保険金殺人事件が起きています。

 

保険金目的だったかどうかも争われたこの事件の裁判で、広島地裁の石井寛裁判長は2024年7月2日、南波がインターネットで生命保険や殺害方法について1万件を超える検索をしていたことなどから、「6億円を超える保険金を取得する目的で、極めて強い殺意の下で行われた計画的殺人」と判断し、懲役30年を言い渡しました。

 

読売新聞(2024年7月3日広島地方版)

 

南波と弁護側は刑が重すぎると控訴しましたが、2024年11月21日、広島高裁の畑山靖裁判長は「人命軽視の態度も甚だしい。刑の重さは妥当だ」として一審判決を支持し控訴を棄却しました。

 

この事件を見ても、30歳になるかならぬかの職業訓練生でしかなかった南波が、6億円を超える生命保険にどうして入ることができたのか、保険業界の犯罪予防策はまだまだ甘いのではないかと思わせます。

 

【被害者森下隆基さんとご遺族】

それにしても気の毒なのは、偶然にも犯罪に巻き込まれて無惨な死を遂げさせられた森下隆基さんとそのご遺族です。

 

元自衛官で大工として働き、妻の菊江さんと19歳と小学2年(8歳)の2人の娘さんと福岡県西区に住んでいた森下さんは、近所の人の話では「おとなしく無口で酒も飲まなかった。ギャンブルもたまにやる程度だった」そうです。

 

それが、たまの気晴らしに出かけた若松競艇場で酒井らと出会ってしまい、顔も判別できないほど殴られた末に溺死させられたのですから、こんな理不尽なことはありません。

 

遺された妻と2人の娘さんがその後どのような人生を歩まれたのか、案じられてなりません。

 

せめてもの慰めは、1980(昭和55)年5月に公布され、1981(昭和56)年からスタートした犯罪被害者等給付金制度の適用第1号として、わずかとはいえご遺族に390万円が支給されたことです。

 

身勝手極まりない酒井隆と清美、中村豊子に夫を父を奪われた森下菊江さんと2人の娘さんが、喪失の痛み悲しみを乗り越え、それぞれの人生を歩まれたことを願うばかりの小川ですショボーン

 

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますおねがい

次回もどうぞよろしくお願いいたします飛び出すハート

 

リクエスト企画

玉川岩盤崩落事故

1989年

崩落現場(共同通信)

 

読売新聞(1989年7月17日)

 

1989(平成元)年7月16日午後3時25分ごろ、金沢市と福井県河野村(現在の南越前町)を結んでいた国道305号線の同県丹生(にゅう)郡越前町玉川の越前海岸で大規模な岩盤崩落が発生し、たまたま通りかかったマイクロバスがそれに巻き込まれて岩石に押しつぶされ、乗っていた15人全員が死亡するという大惨事が起きました。

 

 

 

越前岬から南東に1.5kmの事故現場付近の国道305号線は、現在はトンネル化(玉川トンネル)されていますが、当時は越前加賀海岸国定公園の一部をなす美しい海岸線に沿って道(旧道:現在は車両侵入禁止)が通っていました。

 

玉川トンネル(北の出入口)

右手の柵の向こうが事故当時の旧道

 

崩落事故に遭遇したマイクロバスに乗っていたのは、滋賀県彦根市の八百末青果食品(馬場源一社長)が得意先を招待した1泊2日の北陸旅行の一行15人(バス運転手を含む)で、前日に宿泊した石川県小松市の粟津温泉を出て、越前の海岸美と車内でのカラオケを楽しみながら*帰途についていた最中でした。

 *カラオケマイクを握ったままの遺体があったそうです

 

 

犠牲になられた方々

読売新聞(1989年7月17日)

 

国道305号線の「漁火(いさりび)街道」と呼ばれる越前海岸沿いの道は、断崖と海岸に挟まれたところが多く、崖が崩れる恐れのあるところには「ロックシェッド」(「ロックシェード」とも言う)という落石防護施設が設けられています。

ロックシェッドとは、落石防止ネットなどでは防げない大きな落石の危険性があるところに設置される、半トンネル式のコンクリート造りの施設です。

 

「漁火街道」にあるロックシェッドの例

 

福井地方は事故の前夜(7月15日午後9時15分)から大雨洪水警報が発令されており、15日の午後10時から16日の午前10時までに降水量73mmの雨が降っていました*。

 *事故の一時間ほど前には、雨もすっかり上がっていたそうです

 

けれども、当時国道を通行止めにする基準となっていた連続140mmの降雨量には至っていなかったために通行制限はなされず、また崖崩れの恐れがないか安全点検のパトロールも特にはなされていなかったようです。

 

崩落事故が起きた現場は、ロックシェッドの南側出入口近くに、高さ100mもある垂直の絶壁があり、高さ30 m付近で数メートル山肌がせり出すようになっていたそうです。

 

越前海岸地質断面図

絶壁の破線が崩落前の状態

(小俣新重郎「忘れてはいけない岩盤斜面災害」より)

 

事故直後に現場検証のために派遣された建設省土木研究所職員の報告書によると、この部分の絶壁が幅40m、高さ25m、奥行き5mにわたって屏風が倒れるように崩れ落ち、1400㎥、2500tもの落石がロックシェッドの側壁に激突・破壊*、走っていたマイクロバスと道路を土石が埋めたのです。

 *ロックシェッドは構造上、真上からの落石の力には強いが、横から押す力には弱い

 

矢印の下が崩落部分(小俣、前掲)

 

(吉田博「落石対策における現状と今後の展望」より)

 

読売新聞(1989年7月18日(上)、17日(下)

 

ロックシェッドの出入口付近の路肩に車をとめ近くの海岸で釣りをしていた男性が事故を目撃していましたが、ロックシェッドがつぶれる瞬間の様子を次のように証言しています(平野昌繁ほか「1989年越前海岸落石災害における岩盤崩壊過程の考察」京大防災研年報No.33 B-1、1990)

 

 ロックシェッドはまるで柔らかい紙の箱を横から押さえてつぶすように一瞬の間にペシャンコになり、その上に岩石が乗っていた。

 岩が動き出してからロックシェッドがつぶれるまでの時間だが、(中略)恐らく5秒もたっていないと思う。

 

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

崩落に巻き込まれたマイクロバスのすぐ後ろを走っていた車に福井テレビの社員が乗っていて、たまたまビデオを回し撮影していました。

YouTubeの福井テレビチャンネルでその動画が公開されていますので、見られた方もおられると思います。

 

 

下は、その映像の一部です。

 

事故にあったマイクロバス

 

崩落直後のロックシェッドと岩石

 

巨岩に埋もれたマイクロバス

 

「事故」は、「危害を加えてやろう」という作為がない点で「事件」と異なりますが、これまでブログで取り上げてきたデパートやホテルの火災、つま恋や大阪天満のガス爆発などを見ても、無作為という作為や重過失を含めると、事件と紙一重の「人災」とも言われる事故があります。

 

この玉川岩盤崩落事故についても、直後から「人災」の面が指摘され問題になりました。

 

読売新聞(1989年7月17日夕刊)

 

まず問題にされたのはロックシェッドの強度です。

事故現場のロックシェッドは、1986(昭和61)年に国道のこの区間を管理する福井県が、国からの補助を受けて建設したもので、全長77m、高さ5m、幅8mありました。

そのロックシェッドの強度は、60㎠に100tの衝撃力に耐えられるよう、具体的には0.5tの岩が40mの高さから落ちた場合に耐えられるよう設計されていたそうです。

 

強度については、下の記事にあるように、社団法人「日本道路協会」の道路土工委員会が想定される状況に応じた基準を設けていますが、どの想定の基準を採用するかは建設する側に任されており、この現場では道路管理者の福井県と工事を請け負った朝日土木事務所が強度を決めました。

 

読売新聞(1989年7月17日)

 

しかし現実に起きた崩落では、設計強度の100倍を超える重さと量の岩石がロックシェッドを襲い、先にあげた目撃者談のように「柔らかい紙の箱を押さえてつぶすように一瞬の間にペシャンコに」なったのです。

 

 

読売新聞(1989年7月18日(上)、20日(下)

 

こうした施設面の問題もあったようですが、現場では過去にもより小規模なものとはいえ崩落が起き、また亀裂があることも観察されていたようで、それにもかかわらず大規模な崩落の可能性を事前に察知して断崖の補強工事や通行規制などの対策を取る体制ができていなかったのではないかとも考えられます。

 

そもそもこの旧道は、1977(昭和52)年に、かつて県道だったころからあった古い1車線のトンネルが、2車線に拡張する工事中に崩壊したため、海岸に沿って造られたものです。

 

その道ができてみると、美しい海岸線を見ながら走行できることが観光客の人気を呼んだことから、通行規制が必要となる崩落防止のための工事に消極的になっていたのではないかとも思われてなりません。

 

しかしこの事故はあくまでも自然災害として処理され、誰も責任を問われませんでした。

その是非について論評するだけの知識も情報も小川にはありません。

 

ただ、上の記事に建設省(現在の国土交通省)が「岩場の写真撮影を含めた崩壊の予兆発見のシステムを開発する方針」を決めたとありますので、それについて調べてみました。

 

分かった一つが「斜面崩落検知システム」というもので、下がシステムの核となる検知センサーの運用イメージです(「斜面崩落検知システム運用マニュアル」土木研究所資料、2013年)

 

 

ただしこれは、大規模な崩落に対応したものではなく、小規模な落石に対する仮設防護柵に付帯して限定的に使うシステムのようです。

 

また実際の防災では予兆システムといったハード面だけでなく、防災担当者の配置や態勢など人的な面も重要になりますので、どこまでいっても完璧を期することにはならないと思いますが、犠牲になられた方たちの死を無にしないためにも、2度とこうした大惨事を起こさないという覚悟で、関係者には改善できる点を着実に進めてほしいと、切に願わずにおれない小川ですショボーン

 

1993年に事故現場に設置された慰霊碑

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました飛び出すハート

次回もどうぞよろしくお願いしますおねがい

 

水戸事件

知的障害者たちに

暴行・強姦を繰り返した

偽善経営者

1995年

毎日新聞(1996年12月23日)

 

【事件の概要】

この事件は、加害内容から「水戸(みと)・知的障害者虐待事件」とも、虐待の場となった会社と加害者(当時の社長)の名前から「アカス事件」とも呼ばれています。

 

茨城県水戸市青柳町にあった有限会社「アカス紙器」(その後「水戸パッケージ」を経て、現在は「クリーン水戸」)で、1995(平成7)年10月に、知的障害がある女性従業員の母親が、娘の体に青アザがあることに気づき、水戸署に被害届を出したのが事件が発覚する発端となりました。

 

アカス紙器には当時約30人の知的障害者が雇用されていましたが、警察が捜査を進めていた1995年12月に、同社が二重帳簿を作り、実際には月にわずか3000円から5000円しか支給していなかった給与*を10数万円も支払ったように見せかけて、最低賃金をクリアしていればその2分の1が国から補助される特定求職者雇用開発助成金を不正に受給していたことが分かりました。

 *そこから寮費や食事代を差し引いていたので、実質的には無給に近い状態で働かされていた

 

その額は1994年からの1年5ヶ月間に848万円にのぼり、さらに障害者の住居確保を名目に日本障害者雇用促進協会(労働省所管)から4200万円もの助成金を得て従業員寮*を建設しながら、実際には同社社長であった赤須正夫(当時49歳)の居宅にもするという問題も判明し、1996(平成8)年1月8日に赤須社長が詐欺容疑で逮捕されました。

 *この従業員寮(下の写真)が、女性従業員への性的虐待の場ともなった

 

「アカス紙器」所在地の現在(2022)

手前の空き地に当時工場があった

正面奥の二階建ての建物が従業員寮

 

【無視・軽視される虐待被害】

しかし、この事件の核心でありそもそもの発端であった従業員への暴行・傷害については、最初の被害届だけでなく、被害者側の弁護士たちが20件近くの被害について調べ告発したにもかかわらず、暴行2件、傷害1件の計3件が追起訴された以外、すべて不起訴とされました。

 

毎日新聞(1997年2月25日)

 

特に、10代から40代までの少なくとも7人の知的障害のある女性従業員が強姦・強制わいせつの被害を訴えているのに、被害にあった日時や状況を正確に説明できないなどを理由に、警察も地検も知的障害者の証言能力に疑問があるとして立件に消極的で、性暴力についての加害責任を赤須正夫が刑事裁判で問われることはついにありませんでした。

 

1970年ごろに設立されたアカス紙器は、赤須社長が、知人に頼まれて知的障害のあるその子どもを雇用したことをきっかけに、1980年代末から知的障害者を積極的に雇うようになり、1990年ごろには障害者の雇用に熱心な「優良企業」として水戸市長名で同社に感謝状が送られたそうです。

 

こうしてアカス紙器は、障害者福祉に貢献する会社という好イメージをまとい、赤須社長も障害者の家族からは「神様」のように見られる地元の有名人になっていったのです。

 

知的障害者の証言は信ぴょう性に欠けるという先入観にプラスして、そうした事情が助成金不正受給以外の暴行・傷害・強姦の立件を、警察・検察に消極的にさせたのではないでしょうか。

 

警察・検察の消極姿勢はマスコミにも影響し、立件されそうにないことを書いて名誉毀損で訴えられては困るということでしょう、被害者側弁護士の記者会見に新聞やテレビが取材には来ても、記事や放送として取り上げられない状態が続きました。

 

被害者の訴えに耳を貸さなかったのは司法やマスコミだけではありません。

1994年春に虐待に耐えきれず同社から逃げ出した女性が、水戸署、水戸公共職業安定所、さらに同社を紹介した大宮地方福祉事務所を訪れ被害を訴えましたが、特に福祉事務所には4回も足を運んだにもかかわらず、「仕事の邪魔だから帰れ」と何の対応もされずに追い返されたそうです。

同福祉事務所の課長はその後の取材に、「深刻な訴えというより愚痴を言いに来たようなものと思った。優良な会社と聞いていたので半信半疑だった」と釈明しています。

 

上の話を含めて、全国紙で初めてこの事件での知的障害者の暴力被害を取り上げたのは、ブログの冒頭に掲げた毎日新聞の「福祉を食う」という連載記事で、最初の被害届から1年以上も経った1996(平成8)年12月23日のことでした。

 

このあたりの事情を、当時同紙の記者だった野澤和宏さん(現在は植草学園大学教授)が次のように述べています(「令和の福祉論 岩盤を壊す〜障害者虐待に挑んだ弁護士」毎日新聞2023年12月22日)

 

「マスコミはいったいどうなっているんだ」。弁護団を率いていた副島洋明弁護士(故人)から電話がかかってきたのは同年(1996)夏だった。捜査当局が立件しなければ、メディアが自らの責任で報道することになる。加害者側から名誉毀損で訴えられることを恐れて報道できなかったのである。弁護士は旧知の間柄だった私に愚痴をこぼしたつもりだったのかもしれない。

 ちょうど薬害エイズ事件の取材に私は追われていた。ようやく後輩記者たちを伴って現場に入ったのは季節が変わったころだった。弁護士による被害者の聞き取りに同席し、関係者の証言を集めて回った。「つらかったよなあ」。暴行されたことを初めて話す少女と一緒に副島弁護士は泣いた。記憶をゆがめかねない感情移入は証拠の価値を下げるとされているが、忌まわしい被害を忘れなければ生きていけない少女の心を開くことは容易ではない。「徹底して寄り添い信頼してもらわ

なければ」と弁護士は意に介さなかった。

 「平和で豊かな日本には、冷酷なもう一つの顔がある……」。水戸市の虐待事件を毎日新聞が報道したのは96年12月23日。社内には異論もあったが、報道に踏み切ったことで全国から電話やファクスや手紙が押し寄せた。ひどい被害を受けながら泣き寝入りをしている障害者は各地にいた。弁護団や支援組織にも賛同者が続々と集まり、勢いは増した。

 

水戸事件で被害者側に立った

副島洋明弁護士(撮影2003)

 

【障害者虐待の実態】

アカス紙器で行われていた障害者虐待はどういうものだったのか、後に民事訴訟で原告となった3人の元従業員(いずれも知的障害のある女性)の1人Aさんが訴えた被害を中心に、水戸地裁の民事の判決文から一部を抜粋します太字にしたのは小川)

 

なお、暴行・傷害の詳細、とりわけ読むのも苦しくなる強姦・強制わいせつの細部はあえて省きますので、もし必要があれば下の判決文や、毎日新聞社会部取材班『福祉を食う 虐待される障害者たち』(毎日新聞社、1998)で被害者たちの証言をお読みください。

 

 

 

①暴行・傷害

・始発のバスに乗っても遅刻する*ことに立腹し、顔面を数回平手打ちした上に、足で右膝を蹴り飛ばすなどした。

 *その後全寮制になり、土日は休みで帰宅もできるとされながら、休日なく働かされたりしていた

・工場に菓子を持参したことに立腹して怒鳴りつけ、顔面を数回平手打ちにし、背中を蹴飛ばして転倒させ、両足を数回足蹴りした。

・寮で朝食を食べないことに立腹し、右膝付近を強く蹴飛ばし、入院加療を要する右膝半月板損傷の傷害を与え、また頭部及び顔面を室内にあったベッドの木製部分に打ち付け、鼻及び口から出血させる傷害を与えた。

 

②強制わいせつ・強姦

・寮で夕食の片付けが済んだ後、「ズボンを脱げ」「入れさせろ」と言い、何をされるのか分からず、また日常的な暴行のため恐怖心を抱いているAさんの衣服を脱がせ、陰部に触れるなどした上、「声を出すんじゃねえ」「誰にもいうんじゃねえぞ」と脅迫して強姦し、その後で自分の性器を舐めさせた。

・その後も多数回にわたり、就寝中のAさんのベッドに潜り込み、「大きな声を出すんじゃねえ」などと脅し、頭を叩くなどして強姦し、あるいは工場や寮の赤須被告の居室*で強姦・強制わいせつを繰り返した。

 *寮の1階は、入り口の左が食堂、右に赤須の居室と「来客」室、その向かいに女性従業員の部屋が2室あり、2階が男性従業員の部屋になっていた

 

女性への性虐待が繰り返された従業員寮

 

・赤須被告は得意先の飲み友達にもAさんへの強姦を教唆し、多数回に渡って就寝中のAさんに「◯◯さんが来たからさせろ」と言い、強いて姦淫させた。

・Aさんと寮で同室だった女性を、Aさんの面前で強姦し、また赤須被告の居室内でAさんと彼女を交互に強姦した。

 

同様の性虐待は、他の原告のBさんとCさんも訴えています。

・赤須被告はBさんに対し「あんまさやってくれ」と言って寮内の寮母室(寮母がいないため来客室として使用)に連れ込み、同人の乳房や陰部をさわり指を入れ強姦し、処女膜裂傷及び出血の傷害を与えた。

・Cさんにビールを買って来させ、ビールを白い薬と一緒に飲ませ手足を縛り口をハンカチで塞いで声が出ないようにした上で強姦し、処女膜裂傷の傷害を負わせ、その後も朝まで縛ったまま放置した。

・赤須被告は、先ほどあげた友達や赤須の長男にもCさんを姦淫させた。

 

さらに赤須被告は、知的障害のある従業員たちに「お前らは国が認めた馬鹿だ」と言ったり、タバスコを1本かけた山盛りのご飯や腐ったバナナを無理に食べさせたりしたほか、次のような虐待行為をみんなの前で行い、それを見せつけることで従業員全員に恐怖を与え従わせていました。

 

・作業が遅いと立腹し、大量の段ボールを投げつけ、本人を突き飛ばして機械に叩きつけた

・朝から仕事が終わる夕方まで、工場内のコンクリートの床に、膝の裏に缶をはさみ、膝の上に漬物石を2、3個載せて正座させ、昼食も与えなかった

・長期間継続して素手で耳や顔面を殴りつけ丸椅子やスリッパで殴打し、漬物石を膝の上に載せて正座させ、少しでも動いたら金属の棒で殴るなどの暴行を加え、また、居室内で同人の顔面にライターの火を近づけて火傷を負わせたり、寮内の階段の手すりに片手を手錠でつなぎ、長時間放置した。

 

こうした訴えに対して赤須被告は、足蹴りにはしたがそれは膝の傷害の原因ではないとか、手錠をかけて手すりに繋いだが長時間放置はしていないなど、原告の訴えを事実無根か事実誤認、あるいは大げさな言い分だと否定し、追及されると「昔のことだから覚えていない」と逃げました。

 

赤須被告が強気で容疑を否認したのには、民事裁判に先立つ刑事裁判で、被害者による告発のほとんどが検察の手で不起訴にされたことが影響していたでしょう。

 

【矮小化された起訴内容と被告に寛大な判決】

これまで述べたように、赤須社長(当時)は1996年1月8日に詐欺容疑で逮捕され、その後従業員への計3件の暴行・傷害で追起訴されましたが、強姦を含む被害の訴えの大部分が不起訴処分となり、起訴されたものでも膝半月板損傷の診断書があるにもかかわらず膝関節炎にされるなど、起訴の時点から被害内容は非常に矮小化されていました。

 

さらに言えば、長年にわたって行われていた助成金の詐取でさえ、時効は5年であるにもかかわらず、立件されたのは直近2年間の不正受給だけでした。

水戸公共職業安定所(以下「職安」と表記)が証拠となる書類を警察に提出しなかったのか、あるいは警察・検察が取り上げなかったのか、その理由はよくわかりません。

 

そうした事実の隠蔽・矮小化にもかかわらずこの事件は、次第に全国に知られるようになり、裁判への支援の輪も広がりました。

 

しかし、1997(平成9)年2月27日に検察がおこなった赤須被告への求刑は、懲役3年という非常に軽いものでした。

 

毎日新聞(1997年2月27日夕刊)

 

刑事裁判の方の地裁判決文を入手できませんでしたので詳細は分かりませんが、1997年3月28日の判決公判で松尾昭一裁判長が赤須被告に言い渡したのは、ただでさえ軽い求刑の懲役3年に執行猶予4年までつけるという非常に「寛大」なものでした。

 

実刑にしなかったのは、被告が障害者雇用に熱心に取り組んできたとされていること、また「だまし取った金は全額弁済しており、反省の態度も顕著だ」と裁判官が情状酌量したからです。

 

しかし「だまし取った金は全額弁済」と言いますが、実は1996年4月8日の夜にアカス紙器の無人の工場から出火し全焼した*ことで会社におりた数千万円の火災保険金が「弁済」に当てられたのです。

 *先にあげた写真に見られるように、全焼した工場の跡は、今も更地のまま車などの置き場となっています

 

火災が起きた時、すでに工場は茨城県ひたちなか市に移転(現在の「クリーン水戸」の工場)することが決まっており、機械その他の主要備品やダンボール紙の製品は数日前に搬出された後で、金目のものはほとんど残っていなかったそうです。

 

この火災は特に放火などの捜査がなされていないようですので、まさか保険金目当ての自作自演ではないと思いますが、アカス紙器にとっては実に都合の良いタイミングでの「災難」でした。

 

また、「反省の態度も顕著」と言いますが、そもそも暴行・傷害についてはごく一部しか起訴されておらず、性的虐待について赤須はその事実すら認めていないわけですから、「反省」も何もあったものではありません。

 

なお、被害の全容がまだ明らかでなかった逮捕直後の時点で、被害者の親たちが赤須社長のの減刑を求める嘆願書を提出したことも、判決での情状酌量の理由にされた可能性があるようですが、その「闇」については後で触れます。

 

少なくとも実刑判決は下るものと考えていた被害者・家族や支援者たちは、執行猶予の判決に怒りを爆発させ、裁判所から帰ろうとした赤須被告の乗った車を取り囲んで「被害者に謝れ」「車から出てこい」と激しい糾弾の行動に出たため、車が立ち往生しフロントガラスが割れるなどの騒ぎとなりました。

 

毎日新聞(1997年3月28日夕刊)

 

この出来事で、支援者の1人が器物損壊の現行犯で逮捕され、後日、被害者・支援者側と裁判所・警察側の交渉・調整にあたっていた支援団体「水戸事件のたたかいを支える会」のリーダー・大河内日出子さんと事務局長の2人が暴行や監禁の容疑で逮捕されました。

 

逮捕された3人は起訴され、水戸地裁(鈴木秀行裁判長)は1999年12月13日、大河内被告と事務局長の2人に懲役1年8月と1年4月という赤須以上に重い実刑判決を、1人に懲役1年4月執行猶予3年を言い渡しました。

 

実刑判決の2人は控訴しましたが、2001年9月28日、東京高裁は大河内被告を懲役1年に減刑したものの実刑は変えず、事務局長の控訴は棄却しました。

この判決は、2003年4月15日に確定しています。

 

毎日新聞(1999年12月13日夕刊)

 

【民事裁判での原告勝訴】

刑事裁判の経緯と判決に納得のいかない被害者3人が、損害賠償を求める民事裁判に訴えたことは先に見たとおりです。

 

民事裁判では刑事裁判から一転して、水戸地裁は2004(平成16)年3月31日の判決公判で原告の訴えを全面的に認め、仙波英躬(ひでみ)裁判長が赤須被告に原告3人に500万円ずつ計1500万円の損賠賠償を支払うよう命じました。

 

読売新聞(2004年4月1日)

 

水戸事件では、知的障害者の証言にどこまで信ぴょう性があるのかが重要な争点の一つでしたが、それに対して民事裁判の判決では、研究者の知見も参考にして原告らの供述は信用できると判断し、次のように述べています。

重要な点ですので、少し長くなりますが判決文を引用しておきます。

 

 知的障害者は、全体を把握する理解力が劣っているため、自分が思い込んでしまった話や思い込まされた話を語った場合には矛盾が出てしまい、つじつまが合わなくなり、話が破綻することから、話をでっち上げたり、話を意図的に変えることは困難であり、自己が体験していない事実について矛盾なく述べることが困難であると言われているが、原告らは被告から受けた暴行や強姦等の被害の中心的事実については当初より一貫した供述をしている。そして他に、原告らの供述が周囲の者から影響を受けたと認めるような具体的な証拠はない。

 以上を総合すると、原告らの供述内容が周囲の者の影響を受けたものであるとか、原告らが自ら体験せず記憶にない事実を弁護士等に語ったものとは認められない。

 そうすると、原告らの供述は信用できるものと認められ、その供述の信用性を減殺するに足りる証拠はないといわねばならない。

 

読売新聞(2004年4月1日)

 

また仙波裁判長は、知的障害者たちが置かれている拒否や抵抗ができない(抗拒不能)弱い立場を利用して、優越的立場の赤須被告が原告らに対し暴行・傷害・強姦を繰り返したことを、次のように指弾しています。

 

 知的障害者である原告らはアカス紙器以外の雇用先を容易に見つけることができない状況にあり、そのため、原告らの雇用主である被告に対し事実上抗拒不能の立場に置かれていたのであり、被告がそうした自己の優越的立場を利用する形で反復継続して上記不法行為等を行ったものである……

 

毎日新聞(1996年12月25日)

 

赤須被告は地裁の判決を不服として控訴しましたが、東京高裁(石川善則裁判長)は同年7月21日に控訴を棄却、被告が最高裁への上告を断念したため判決が確定しました。

 

読売新聞(2004年7月22日)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

この水戸事件では、一般の殺人事件などとはまた違った意味での人間の醜悪さを見せつけられる思いがします。

 

【人の弱みにつけ込む偽善者】

障害など「人がもつ弱さ」は、その不自由さに対して同じ人間として案じる気持ちと、少しでもその人の助けになりたいという善意の欲求を引き出すものである一方、人によっては優越感から弱い相手を見下したりいじめたり、不自由さにつけ込もうとする利己的で邪悪な欲求を誘うものでもあります。

 

どちらの態度をとるかは、相手との関係性と、その人自身がそもそもどういう人間性の持ち主であるかによって異なるでしょう。

 

この事件で加害の中心となった赤須正夫は、障害者雇用に熱心な「善意の人」という前者の仮面をかぶりながら、その素顔はまさしく後者の醜悪な「偽善者」だったと言わざるをえません。

 

自分が雇用した知的障害者に社長という立場から赤須が虐待行為を繰り返したのは、障害者に人としての尊厳を認めない根っからの差別意識があったからであり、さらに女性を性欲のはけ口=単なる道具(モノ)としか考えない男性優位の女性蔑視・人権無視がそれに重ねてあったからだと小川は思います。

 

そうした人として歪んだ意識と資質の持ち主が、長年にわたって「偽善」を通すことができたのは、知的障害者の置かれた困難な状況が社会の構造としてあったからでしょう。

 

障害者に限らずどんな人間にも言えることですが、人が幸せに生きられるためには最低限の生活の安心が保障されていなければなりません。

 

ただその安心感は、お金やモノを一方的に与えられることだけで満たされはしません。

一人ひとりが自分の存在をそれぞれなりに価値あるものと認められ尊重されること、たとえ限られたものであったとしても自分のもつ可能性の活かされる場が居場所や役割としてあることも、単に「生かされている」だけでなく自分で「生きている」と思えるために必要ではないでしょうか。

 

その願いは、障害者本人はもとより、自分が亡き後の子どもの行く末を心配する親にとってとりわけ深刻なものであろうと思います。

 

アカス紙器がその願いに応えてくれるものと期待すればこそ、親たちは赤須社長がわが子をほとんど無給で働かせ、しばしば暴力を振るう現場を目撃しておりながら、それでもなお彼を「神様」のように思わざるを得なかったのです。

 

【事件の「闇」の深さ】

先に、親たちが赤須社長の減刑嘆願書を裁判所に提出したと書きましたが、署名した母親の証言によると、職安の職員が工場にやってきて嘆願書を持ってきてくれと言ったそうです。

 

ハローワーク水戸

(旧 水戸公共職業安定所)

 

赤須逮捕直後のことで事情がよく分からない親たちは、会社が潰れては困るという思いから嘆願書を職安に持っていくと、所長室で幹部全員がそろってそれを受け取り、「警察とは何度も打ち合わせをしているから、あまり心配しないように」と言われたとのことです(『福祉を食う』36ページ)

 

助成金詐取の被害者側であるはずの職安が、赤須の違法行為を捜査する立場の警察と「何度も打ち合わせをし」、率先して赤須容疑者の減刑嘆願書を集めるというこの異常さに、赤須個人の問題にとどまらないこの事件の「闇」の深さを見る思いがします。

 

【分断される被害者家族】

署名した母親の多くがその後、虐待のあまりの酷さを知って嘆願署名の撤回を職安に申し入れたそうですが、握りつぶされたのか、嘆願書はそのまま刑事裁判で赤須に対する情状酌量の手段に利用されたことは先に述べたとおりです。

 

赤須は、女性従業員を性的搾取の対象にしていましたが、男性従業員への暴行についてはある傾向があったようです。

 

それは、賃金の半分が国から補填される特定求職者雇用開発助成金の支給期間は、雇用から1年半となっていたため、実質的に無給で働かせたとしても、赤須にすればその期間を過ぎると「うまみ」が大きく減るのです。

 

そのために、期間が経過する従業員に対しては暴言・暴力をエスカレートさせて「自己都合退職」に持っていき、新しく障害者を雇用するというサイクルを作ることが会社にとっては好都合だったのです(同書、17ページ

障害者福祉が貧困だった当時、まさに「代わりはいくらでもいる」ということだったでしょう。

 

それでも、藁にもすがる思いでアカス紙器に頼らざるをえない親たちの一部は、問題があることを承知の上で事件後も赤須と会社を擁護する姿勢をとり続け、被害者側は分断させられます。

ここにも障害者とその家族が直面する厳しく悲しい現実があります。

 

毎日新聞(1996年12月28日)

 

【支援者の大切さ】

知的障害当事者やその家族がなかなか声を上げることのできない中、支援者の存在はとても重要です。

 

毎日新聞(1997年2月3日)

 

1995年10月に娘の青あざからアカス紙器での虐待を疑った母親が相談を持ちかけたのは水戸市でダンス教室を経営し障害者にもダンスを教えていた舞踏家の大海(大河内)日出子さんでした。

被害にあった娘さんは大海さんの教え子だったのです。

 

大海日出子さん

 

話を聞いた大海さんは、母親と一緒にアカス紙器の関係者や従業員家族から情報を集めます。

また逮捕された赤須がわずか20日ほどで保釈され従業員寮に戻ったことを知って再び性虐待が起きることを恐れた彼女は、友人女性と寮に行き、赤須に足を蹴られてまともに歩けなくなっていた女性1人に声をかけて救い出しました。

 

さらに大海さんは他の女性従業員にも連絡を取って、彼女たちを自分のダンス教室にかくまいましたが、それを知って押しかけた社長側についた親たちに、「誘拐罪で逮捕されても、この子たちは絶対に渡さない!」と引渡しを拒否したそうです(同書、18-19ページ)

 

「水戸事件のたたかいを支援する会」のリーダーとなった大海さんが、刑事裁判の判決後の「騒動」の責任を取らされて懲役1年8月(東京高裁で懲役1年に減刑)の実刑判決を受けたことは先に見たとおりです。

 

実刑判決を言い渡した水戸地裁の鈴木秀行裁判長は、「目的のためには手段を選ばない反社会的行為」だと大海(大河内)さんら被告に対し厳しい言葉を述べたようですが、それとは比べものにならないほど悪質かつ深刻な人権侵害を長年にわたって障害者たちに加え続けた赤須への寛大に過ぎる猶予刑と、あまりにバランスを欠いた判決だと憤りを覚えるのは小川だけでしょうか。

 

毎日新聞(1997年8月20日)

 

その後、大河内(大海)日出子さんは2010(平成22)年に水戸市で、「知的障害児(者)及びその家族、心理的なカウンセリングを必要とする人々に対して、健全な精神と身体の育成を支援する活動、又個性に着目した個別指導教育を推進することにより、人としての自信を回復させ、文化的に自立した暮らしを支援する事業を行い、社会に寄与する」ことを目的とするNPO法人「宙の会」を設立し代表者となって活動しているようです。

 

「宙の会」の施設

 

【ドラマ「聖者の行進」】

 

週刊文春(1998年3月12日号)
 

最後に、この事件が広く知られるようになったきっかけの一つである、水戸事件をもとにしたテレビドラマ「聖者の行進」(脚本・野島伸司)に触れておきます

このドラマは、1998(平成10)年1月から3月にかけてTBS系列で放送され、大きな話題となりました。

 

余談ですが、Wikipediaによれば同ドラマでは、小川の好きな中島みゆきさんの「糸」と「命の別名」が主題歌となっているそうです。

 

「聖者の行進」のワンシーン(第5話)

 

「聖者の行進」は、毎回20%を超える高視聴率で評価する声も多くありながら、毎回流れる暴力シーンやレイプシーンが過激過ぎるとの苦情や視聴率稼ぎとの批判も寄せられて、放映の途中でスポンサーが降りるという事態も起きた、物議をかもす「問題作」だったようです。

 

毎日新聞(1998年2月6日)

 

出演者の番組外での不祥事もあって、再放送されなかったこのドラマを小川は見ていませんので感想を述べることはできませんが、毎日新聞の「福祉を食う」特集の中心であった野澤和宏記者(当時)が同紙のコラム「記者の目」で次のように書いています。

 

毎日新聞(1998年4月1日)

 

彼は、ドラマには確かに「虐待」が表層的にしか描かれていないといった問題があるが、ドラマの制作者や役者を含めて障害者のリアルな実態とそれがよく知られていない現実にもっと目を向ける必要があると指摘しています。

 

つまり、障害者を虐待する「悪役」(現実の事件では赤須正夫)に焦点を当てる*だけでなく、行政や捜査当局の怠慢、社会の偏見や無理解、沈黙を強いられる障害者・家族という、虐待を生む土壌にまで掘り下げる視点がなければ、描き方が「表層的」になり、結果として「障害者を話題づくりに利用した」という批判を招くことになってしまいます。

 *こうした事件を単純な善悪構図で捉えてしまうと、障害者を「悪役」の対極にある「天使」のように純粋(ピュア)で善良な存在として描きがちになりますが、それもまた差別の裏返しで、障害者も身勝手さやずるさなどももった存在、つまり同じ人間と見なければならないと小川は思います

 

高齢者の福祉施設などでもそうですが、利用者や従業員を大切にし良心的に経営しようとすればするほど資金難におちいり運営が困難になるという現実があるのです。

 

【今なお繰り返される虐待】

水戸事件や同じ時期(1997年4月)に職員の内部告発によって発覚した福島県の知的障害者入所施設「白河育成園」事件が大きなきっかけとなって、2011(平成23)年6月に障害者虐待防止法が公布されました。

 

 

障害者を取り巻く状況は、上記の虐待防止法制定に加えて、通所施設の増加や多様化、障害者雇用率の上昇、また障害(者)に対する一般の理解など、徐々に改善されてきていると思います。

 

けれども、今もなお虐待事件が後をたたないのも現実です。

 

2023年8月23日、北海道恵庭市の遠藤牧場で18〜45年間働いていた知的障害のある60代の3人が、月に1、2回2千円程度の「賃金」を手渡されるだけで、3人の個人口座に振り込まれた障害基礎年金がほぼ全額5120万円余り勝手に引き出されたとして、経営者家族と恵庭市を相手取り約9400万円の損害賠償を求める訴訟を提起しました。

 

3人は、牧場内の水道も風呂もないプレハブ小屋で、ボウフラがわく不衛生な水を飲まされ、早朝から日没まで休日もなく外出も許されずに「奴隷状態」で働かされていたとのことです(「知的障害者が「奴隷労働状態」 牧場と北海道恵庭市に賠償求め提訴」朝日新聞2023年8月24日)

 

3人が住まわされていたプレハブ小屋

(朝日新聞2024年8月27日)

 

この牧場を経営していた遠藤昭雄(2020年死去)が、恵庭市議会議員で議長も務めた人物だったことから、恵庭市が遅くとも2017年には牧場での虐待に気づいていながら市の有力者である遠藤に忖度*し、詳しい調査をせず放置したのではないかという行政の作為的怠慢も指摘されています。

 *どこまで影響したかは分かりませんが、水戸事件でも、赤須が逮捕されたために社長を引き継いだ不動産業者の男性(障害のある子どもがアカス紙器に雇用されていた)が、当時の水戸市長の有力な後援者の1人だったそうです

 

この裁判は現在も継続中で、2024年11月18日に第6回口頭弁論が札幌地裁で開かれ、原告の1人である60代の男性が初めて出廷し、顔を出して取材にも応じました。

 

出廷する原告男性(中央)と弁護団

朝日新聞(2024年11月19日)

 

最も弱い立場の人たちがどのように処遇されているかにその社会の本質があらわれると言われますが、知的障害者への虐待問題にこれからも関心を持ち続け、遠藤牧場事件についても裁判の判決が出た時点で改めてブログに取り上げようと思う小川です。

 

 

 

今回も最後までお読みくださり

どうもありがとうございます🥹✨

 

今後とも、よろしくお願いいたします🐱

 

米兵に射殺された日本人女性

ジラード事件

1957年

読売新聞(1957年2月3日)

 

【事件の概要】

1957(昭和32)年1月30日の午後1時50分ごろ、榛名山麓の群馬県北群馬郡相馬村(現在の榛東しんとう村)広馬場にあったアメリカ軍(以下、米軍)相馬ヶ原演習場*内の「物見塚」と呼ばれる小高い丘で、演習場内に落ちている真鍮(しんちゅう)製の薬莢(やっきょう)や砲弾の破片などの金属を拾って売り、生計の足しにしようとしていた同村柏木沢の主婦・坂井なかさん(当時46歳)が、アメリカ兵によって背中から撃たれ死亡する事件が起きました。

 *旧日本陸軍の演習場で、米軍の通称は「キャンプ・ウェア演習場」

 

日本経済新聞(2015年5月2日)

 

毎日新聞(1952年2月3日)

 

毎日新聞などが報じた2人の目撃者(相馬村住民)によると、その日は実弾演習に続いて空包での演習*がおこなわれ、午後1時半ごろに休憩に入ったので、なかさんらが薬莢拾いに行ったところ、米兵が薬莢を投げて呼び寄せたので近づくと、いきなり銃を構えて「ここから出ろ!(Get out here!)」と言われたため逃げ出したそうです。

ところが、米兵の1人がまず逃げる男性(小野関英治さん、当時28歳)に向けて小銃を撃ち(足元に着弾)、次いで数メートルの距離からなかさんを撃ったというのです。

 *薬莢拾いの日本人が60〜70人も周囲にいたため、危険を回避するために実弾(実包)による演習を途中で空包による演習に切り替えたといいます

 

2月6日になってようやく、なかさんを撃ったのは、米陸軍第1騎兵師団第8騎兵連隊第2大隊F中隊所属の3等特技兵*ウィリアム・S・ジラード(同21歳)だと公表されました。

 *この「3等」は上等兵と曹長との間の階級で「伍長」という表記も日本語文献では見られます。「特技兵」とは、狙撃やパラシュート降下、高度な戦闘技術など特殊な技能・資格を持つ兵士のことですが、ジラードの「特技」は軍用車両の運転だったようです

 

ウィリアム・S・ジラード

 

朝日新聞(1957年2月6日)

 

上毛新聞(1957年9月23日、加工は小川)

*「ニクル」とはジラードと一緒にいた同僚兵士(後述)


「流れ弾」による事故だという見方が流されていた中で、この事件を米兵による「故意の射殺」ではないかと疑い、2月6日の衆議院内閣委員会で取り上げ追及したのは、群馬県選出で基地反対運動にも関わっていた社会党(当時)代議士・茜ケ久保(あかねがくぼ)重光議員でした。

 

一方、上の記事にもあるように米軍当局は、なかさんの死は「警告の意味で空に向けて撃ったものがたまたま当たってしまった」単なる「事故死」であると断定する声明を第一騎兵師団副団長が発表し、日本政府もこれが犯罪になるかどうか分からないという慎重な姿勢をとっていました。

 

内閣委員会で質問をする茜ケ久保議員

(山本英政『米兵犯罪と日米密約』)

 

けれども、新聞報道などでジラードの行為の詳細が知られると、日本国内では怒りの声が無視できないほどに湧き起こります。

 

ジラードが使用していたのは、当時米軍の主力小銃だったM1ガーランドという半自動小銃でした。

(Wikipediaより)

 

そして、事件が起こる前までジラードらが訓練で使っていた「空包」というのは、薬莢に火薬は詰められていますが、下の写真のように弾頭(飛び出す弾丸)はないため、撃つと発射音と閃光だけが出る銃弾*です。

 *軍隊で使うものとは違いますが、陸上競技などのスターティング・ピストルを思い浮かべるととわかりやすいでしょう

 

実包(実弾)の例

 

空包の例

 

またジラードの小銃*には、グレネード・ランチャーという、空砲の火薬の爆発力(ガス圧)を利用して小型の爆弾(擲弾てきだん:グレネード、手で投げるものは「手榴弾しゅりゅうだん」と呼ばれる)などを発射する装置が付けられていました。

 *ジラードの小銃が故障したため、このとき彼は副分隊長(3等軍曹)の小銃を借りていましたが、それには一般兵士の小銃にはないグレネード・ランチャーが装着されたままでした

 

銃口の先に装着するグレネード・ランチャー

 

グレネード・ランチャーを装着した小銃(上)

擲弾をランチャーの先に付けた状態(下)

 

ジラードは、通常の使用法に反してランチャーの先に擲弾(てきだん)ではなく使用済みの薬莢を逆さにして詰め、坂井なかさんめがけて撃ちました。

発射された薬莢は、空包のガス圧の威力で銃弾と同じように飛び、なかさんの身体にめり込んで命を奪った*のです。

 *事件後の日米合同検証によると、同様にして発射された薬莢は、10m離れた五分板(厚さ15mm)を容易に貫通し、100m離れた的にも当たるほど直進することが実証されました(『米兵犯罪と日米密約』)

 

事件の翌日(31日)、群馬大学で解剖された

坂井なかさんの体内から発見された薬莢

(読売新聞 2015年12月23日)

 

しかも、先に少し述べたように、同僚兵士のニクル*がばら撒いた空薬莢を指さしてジラードが、「ママサンダイジョウビ。タクサン、ブラス(薬莢)、ステイ(あるよ)」と片言の日本語でなかさんをおびき寄せて彼女が近づいてくるや銃口を向け、それを見て逃げ出したなかさんを背後から撃ったと言われますから、ジラードの行為は悪ふざけではすまされない殺人行為と言わざるを得ません。

 *休憩中、ジラードと2人で軽機関銃と軍用ジャケットの監視を上官から命じられたビクター・ニクル3等特技兵

 

ビクター・ニクル

 

下の写真では、ジラードは小銃をいわゆる「腰だめ」(銃を腰のあたりに当て、大まかな見当で撃つこと)で構えていますが、実際には「銃を肩に当てて婦人の方へ向けて発射した」とニクルが裁判で証言しています。

しかもジラードは、隊で優秀だと認定されるほど射撃が得意でした。

 

現場検証で小銃を構えて見せるジラード

(アサヒグラフ 1957年10月13日号)

 

【被害女性と薬莢拾い】

被害者の坂井なかさん(明治43年8月13日生)は、相馬村議もしていた農業・坂井秋吉さんの妻で、3歳の幼児から21歳まで6人の子どもの母親でした。

 

坂井なかさん

 

坂井さんの家は特に貧困な家庭というわけではありませんでしたが、夫が村会議員をしており人付き合いなどで出費が多かったため、日本の重工業が朝鮮戦争(1950-1953)の特需を契機に復興していく中で、高値で買い取られていた金属類を回収して売り、生計の足しにしようと、時折演習場内に立ち入っていたものです。

 

薬莢や砲弾の破片を拾う人びとは相馬ヶ原演習場だけでなく、この時代には全国の演習場でも同様にみられたそうです。

 

 

相馬ヶ原で薬莢拾いをする人たち(上)

重さを計って薬莢を買い取る業者(下)

(いずれも「米兵犯罪と日米密約」)

 

ただ相馬ヶ原演習場付近の農民においては、戦後に米軍に接収された時に演習場が大幅に拡張されたことから農地を手放すことを余儀なくされ*たり、また砲撃や戦車の走行で山の草木が失われ裸地化したことによる水の減少や水質悪化が農業生産にも悪影響をもたらし、もともと豊かとはいえないこの地区の人たちの生活がさらに困窮して、危険をおかしてでも薬莢拾いに行かざるをえないという事情があったようです。

 *坂井なかさんの家は、旧日本陸軍の演習場拡張の時に、すでに先祖伝来の農地が3分の1にまで減ったそうです

 

朝日新聞(1957年2月7日)

 

演習場内は立ち入り禁止とされていて、そのために禁止を破って演習場内に入っていたなかさんの方に過失があったとする見方もありました。

しかし立ち入り禁止とはいえ、演習に直接の支障をきたさなければ、村民たちが薬莢拾いなどで演習場内に立ち入ることを米軍も黙認していました。

 

先に書いたように、事件の日も大勢の薬莢拾いの人たちが演習をしている場所の近くに入り込んでいた*ので、それを承知して危険を避けるために実弾での演習を途中から空包に変更したというのが実情だったのです。

 *拾う側にも生活のための熾烈な競争があり、演習が止むとすばやく薬莢や砲弾の破片を拾う必要から、できるだけ演習をしている場所の近くで待機していたようです

 

ですから坂井なかさんの死は、立ち入り禁止を無視した本人の無謀な薬莢拾いが招いた自業自得の死だとは言えないのです。

 

【ジラードはどう裁かれたか】

ジラード事件の捜査を陣頭指揮した群馬県警の岡田三千左右(みちざう、当時48歳)刑事部長は、事件の翌々日の2月1日に、県警捜査一課長と5人の目撃者を連れて米軍キャンプに出向き、当時現場にいた米兵たちのいわゆる「面通し」をして、なかさんを撃ったのがジラードだと確信しました。

ところがこの時ジラードは、すぐには自分の犯行であると認めようとしなかったそうです。

 

岡田三千左右刑事部長

 

しかし、県警がジラードの身柄を容疑者として確保し取り調べることはできず、質問項目を米軍側に提出して回答をもらうという間接的なやり方をとらざるをえませんでした。

というのもそこには、次のような当時の日米の取り決めがあったからです。

 

1951(昭和26)年9月8日に調印された「サンフランシスコ講和条約」(1952年4月28日発効)で日本は主権国家としての独立を回復しますが、それと同時に結ばれた「日米安全保障条約(旧安保条約*」に基づき、7年間にわたり日本を占領していた米軍は、引き続き日本国内に駐留し続けることになりました。

 *1960(昭和35)年に現在の安保条約(新安保条約)に改定されました

 

この駐留米軍に関する日米間の取り決めが「日米行政協定」(1952)ですが、米軍関係者の裁判権について定めた第17条が、1953(昭和28)年9月28日に改定されました。

 

改定された協定には、次のように書かれています太字は小川)

 

第17条

3 裁判権を行使する権利が競合する場合には,次の規定が適用される。

(a)合衆国の軍当局は,次の罪については,合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して裁判権を行使する第一次の権利を有する

 (i)(略)

 (ii)公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪

 

この規定を前提に米軍は、2月7日、ジラードの上官(中隊指揮官)であるカール・エリグッド中尉の名前でジラードの発砲が任務中の行為であるとする公務証明書を前橋地検検事正宛に出し、第一次裁判権が米軍側にあると主張しました。

 

このように、米軍は全力をあげて自軍兵士であるジラード擁護の姿勢を取り続けましたが、その中で米軍側の調査を担当した陸軍憲兵*隊長・リチャード・マーキュリー少佐は、ジラードの曖昧な証言に疑念を抱き、事件の真相解明のために県警の岡田刑事部長に協力したそうです。

 *憲兵とは英語でMP(Military Police、軍警察)と言われるように、軍隊内の秩序維持を任務とする兵科

 

捜査協力を通して個人的にも友情が芽生え

岡田の自宅でおどけたポーズをとる

岡田部長とマーキュリー少佐(1958)

(毎日新聞、2020年3月7日)

 

また、米軍兵士の中で真相解明に協力して証言したのが、先にあげたビクター・N・ニクル3等特技兵です。

 

ただニクル自身も、単なる事件の目撃者というわけではなく、落ちている空薬莢を拾っては日本人に見えるように投げ、まるで投げたパンくずに寄ってくるスズメやハトを見て面白がるようなことをしており、事件のきっかけを作ったとも言える人物でした。

 

(山本英政「ジラード事件 追考④」)

 

当初ニクルは、ジラードをかばって何も見ていないかのような証言をしていました。

 

ところがその彼がジラードには不利になる証言をするようになったのは、山本英政氏によると、ジラードがニクルを射殺事件の共犯者であるかのような嘘を言っていることに不快感を覚え、またアメリカ国内でジラードが不当な告発と闘うヒーローのように扱われていることに対し「それは正義ではない」と考えたからだったそうです。

 

実地検証で説明するニクル(◯印)

(山本英政「ジラード事件 追考④」)

 

毎日新聞(1957年9月25日)

 

ニクルは、米軍の事情聴取においても、ジラードの供述とは異なる証言をしています。

 

毎日新聞(1957年7月11日)

 

ジラードの身柄を米軍が日本側に引き渡さない中、群馬県警は2月8日に捜査会議を開き、ジラードの罪状について検討しました。

 

会議では、岡田刑事部長の提案により、ジラードを殺人罪で送致することで一致したのですが、ところが、警察庁から「傷害致死罪」で送検するようにとの命令があった*ため、やむなく県警は2月9日に命令通り傷害致死罪で前橋地検に書類送検することになりました。

 *当時、群馬県警捜査一課の担当係長だった志塚政男さんが書き残したメモ(毎日新聞「日米関係をゆるがせたジラード事件 「密約」が阻んだ捜査」2020年3月7日)

 

この罪名変更については、2月9日に関東管区警察局公安部長がやって来て群馬県警本部長らと再協議して決めたと言われます(信夫隆司「ジラード事件と刑事裁判権」)が、詳しいいきさつは明らかになっていません

 

一方、アメリカ国務省の2月25日付の文書に、「日本とは極秘で、元被告をできるだけ重くない罪で起訴し、最も軽い判決を裁判所に勧告することに合意した」と記されている(毎日新聞2020年3月7日)そうですから、裁判権についての結論も公には出ていない段階で、すでに事件のいわゆる「落としどころ」が日米間で密かに合意されていた*ということなのでしょう。

 *この事件に関する日米間の密約が明らかになったのは、1991年のアメリカ政府の秘密文書公開によってであり、1994年には日本政府も「戦後対米外交文書公開」で明らかにしました

 

毎日新聞(1994年11月21日)

 

こうして、この事件がこじれると日本国民の間で反米感情が高まり反基地運動がさらに激しくなるのではないかと恐れたアメリカ政府が、いわゆる「名を捨てて実(じつ)を取る」、つまり裁判権を日本側に譲ることと引き換えに、ジラードを実質的には無罪にする(日本の刑務所には入れない)という政治決断をし、その線で日米間の密約が交わされたのです。

 

1957年2月20日に新橋駅前広場で開かれた

全国軍事基地反対連絡会主催の

「米兵の日本婦人射殺真相究明国民大会」

事件の目撃者・小野関英治さんも登壇した

 

その後の経緯を文章で述べると膨大になりますので、要点をそれを報じる新聞記事とともに時系列にまとめました。

 

1957年2月15日 最高検察庁が、ジラードは公務外で事件の裁判権は日本側にあると結論

 

朝日新聞(1957年2月15日夕刊)

 

 3月7日 裁判権問題で、日本側が日米合同委員会の開催・協議を米側に申し入れる

 3月12日 日米合同委員会第一回会合で、裁判権が競合する場合の取り扱いについて協議

 4月4日 岸信介首相(当時)の訪米が正式決定、安保条約改定を提起すると表明

 5月16日 日米合同委員会で、米側は裁判権を行使しないと日本側に通知

 5月18日 米側の裁判権放棄を受け、前橋地検がジラードを傷害致死容疑で起訴

      アメリカではジラード擁護、日本の裁判権行使に反対する世論が高まる

 5月24日 2月15日に着任したマッカーサー駐日大使*が国務省(日本の外務省に相当)宛に、ジラードには故意ではないが公務に関係しない行為で殺害した責任はあると電報

  *マッカーサー元帥の甥で、ダレス国務長官の側近であったダグラス・マッカーサー2世

 5月28日 アイゼンハワー大統領(当時)が、日米合同委員会の決定を追認すると声明

 6月4日 米国務省・国防省両長官が共同声明で、日米合同委員会の決定に同意と発表

 

朝日新聞(1957年6月5日)

 

 6月7日 ジラードの兄のルイスが、ワシントンDC連邦地裁にジラードの保釈と米国での裁判を求める人身保護令の発布を申請し、日本での裁判手続きがストップする

 

兄のルイス・ジラード

 

朝日新聞(1957年6月7日)

 

 6月18日 ワシントンDC連邦地裁判事が、ジラードの日本引渡しは米国憲法と諸法律に違反するとの裁定を下す

 6月19日 訪米した岸首相がアイゼンハワー大統領と日米首脳会談

 7月11日 米連邦最高裁が、ジラードを裁判のために日本に引き渡す権限を米政府に認める裁定を下し、日本の裁判権が最終的に確定する

 

朝日新聞(1957年7月12日夕刊)

 

 8月26日 前橋地裁でジラード事件の初公判が開かれる

 

毎日新聞(1957年8月26日夕刊)

 

 9月24日 事件現場でジラードとニクルを伴い実地検証(実地検証は3回行われる)

 10月31日 求刑公判で検察官が、ジラード被告に傷害致死罪で懲役5年を求刑

 11月19日 前橋地裁(河内雄三裁判長)はジラード被告に懲役3年執行猶予4年を判決

 

朝日新聞(1957年11月19日夕刊)

 

判決後、記者会見をするジラード

 

 12月3日 検察首脳会議が検事控訴をしないと決定し、判決が確定する

 

朝日新聞(1957年12月3日夕刊)

 

 12月6日 検察の控訴期限が来るのを待ち、新妻と一緒にジラードが帰国

 

毎日新聞(1957年12月6日夕刊)

 

なお、裁判が開かれている最中の9月5日、在日米陸軍当局から、坂井なかさんの夫・秋吉さんに慰謝料として約63万円(概算で現在の約400万円に相当)を支払いたいとの申し入れがあったそうですが、「金ですべてを解決するようなものはもらわない」と秋吉さんは受け取りを断ったそうです。

 

朝日新聞(1957年9月6日)

 

【ジラードのその後】

ジラード帰国の記事に「奥さん同伴」とありますが、彼は裁判権の問題さえまだ決着していない7月5日、前年9月に婚約していた日本人女性・末山ハルさん(当時27歳)と米軍基地内で結婚式を挙げています。

 

末山ハルさん

 

毎日新聞(1957年7月6日)

 

帰国後のジラード夫妻について、読売新聞(1958年7月14日夕刊)は米誌を引用し、次のように報じています。

 

 

遊び半分で人ひとりの命を奪いながら、米軍の自己中心的な姿勢と日米両政府の政治判断で日本側に身柄を拘束されることもなく実刑を免れ、のん気に結婚までして帰国したジラードでしたが、事件で階級を最下位の兵卒にまで下げられ、帰国後に不名誉除隊(懲戒免職に相当する処分)となりました。

 

故郷のイリノイ州オタワに住んだジラードに対し、女性を誘き寄せて背後から射殺した日本での事件の詳細が知られるにつれて、かつてはヒーローのように彼を擁護したアメリカ人も、手のひらを返したように冷淡な態度をとるようになったそうです。

 

仕事も長続きせず酒浸りの毎日に、読売新聞の記事にあるように、新婚わずか1年にして夫婦は危機を迎えます。

 

それでもジラード夫妻は離婚には至らず2人の娘に恵まれますが、住居を転々とする生活が続き、アメリカ西海岸にようやく落ち着いたものの、ハルさんは苦労が絶えなかったであろう人生の果てに2010年ごろ他界したそうです(山本英政「米兵犯罪と日米密約」あとがき)

 

事件から67年、もし存命なら今年で88歳の米寿を迎えるはずのウィリアム・S・ジラードが今どうしているのか、それを伝える話はありません。

 

余談ですが、遺された坂井さんの一家は事件の後で相馬村から他所へ住居を移されたようで、判決の後のインタビューで「執行猶予がついたことは無罪と同じですこれでは罪の償いはできないと思います。死んだ母がまったく可哀そうです」と無念の思いを語った次女の坂井佳代子さんらご遺族の消息も分かりません。

 

坂井なかさんの次女 佳代子さん

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

すでに触れたように、ジラード事件でアメリカが裁判権の帰属で日本側に譲歩したのは、アメリカ・西欧とソ連(現在のロシア)・東欧のいわゆる「東西冷戦対立」が深まる中で、日本で反米感情や反基地闘争が高まることに対し、アメリカ政府が(そして日本政府も)危機感を抱いたことによります。

 

大沼久夫氏(「「ジラード事件」と日米関係」)によると、ジラード事件に先立って相馬ヶ原演習場の薬莢拾い関係だけでも死傷事故件数が、昭和 28(1953)年から 昭和32(1957)年の間に14 件(うち死亡 7、重傷 8、軽傷 7)あったそうですが、全国的にも米軍基地や演習場の近くで駐留米兵が日本人を殺傷する事件が多発していたからです。

 

【東富士演習場事件】

ジラード事件の前年、1956(昭和31)年9月7日、静岡県の東富士演習場でほとんど同様の事件が起きています。

 

早朝、演習場に薬莢拾いに来ていた根上きぬえさん(当時31歳)が、米軍のトルジェク上等兵からグレネード・ランチャーを装着したM1小銃で薬莢を2回発砲され、2発目が胸に当たって全治7ヶ月の重傷を負っています。

 

御殿場警察署は、根上さんが立入禁止区域にいたことなどから第一次裁判権は日本側にないとして立件せず、発砲したトルジェクは米軍の軍法会議で無罪となり帰国しました。

ジラード事件を受けて関東管区警察局は、静岡のこの事件についても再調査を指示したそうですが、「後の祭り」でしかありませんでした。

 

朝日新聞(1957年2月7日)

 

そのほかにも、今では信じられないような事件が起きています。

 

【米軍機母子殺傷事件】

1957(昭和32)年8月2日午後2時半ごろ、茨城県那珂湊市(現在のひたちなか市)で、息子(当時24歳)を荷台に乗せて県道を自転車で走っていた母親(同63歳)に向かって、ジョン・L・ゴードン中尉(同27歳)の操縦する連絡機が、米軍が使用していた旧日本軍の水戸東飛行場を飛び立ったまま上昇せず、車輪が出たままの超低空飛行で母子に接触し、母親は身体を真っ二つに裂かれて即死、息子も重傷を負うという事件(「ゴードン事件」とも呼ばれる)が起きました。

 

同型機

 

いばらき(1957年8月3日)

 

同飛行場付近では、これまでも危険な低空飛行で住民を驚かせる米兵による「悪ふざけ」がたびたび起きていたようで、ゴードンも自転車に二人乗りしている母子を見てカップルだと思い悪戯を仕掛けたのではないかと推測されましたが、米軍側はあくまでも高温による熱気流が原因で起きた不慮の事故だと言い張り、公務中の出来事だとして日本側に裁判権は認められず、このようにむごたらしく人を殺傷しておきながら、ゴードンは過失罪にすら問われることがありませんでした。

 

【ロングプリー事件】

またこれはジラード事件の翌年になりますが、1958(昭和33)年9月7日午後1時51分、埼玉県入間郡武蔵町(現在の入間市)で、西武池袋線の下り電車が米軍ジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)内*を走行中、同基地所属のピーター・E・ロングプリー2等兵(当時19歳、下の記事ではロングビリーと表記)が撃ったカービン銃の銃弾が、乗車していた武蔵野音楽大学2年生・宮村祥之さん(同22歳)に当たり、病院に運ばれましたが午後3時ごろ死亡しました。

 *旧陸軍航空士官学校を米軍が接収したもので、線路を挟んで基地があるため、士官学校時代は線路との境に塀がありましたが、米軍基地になってからは取り払われていました

 

 

読売新聞(1958年9月8日)

 

米軍の発表によると、ロングプリーは、実弾を込めたカービン銃(銃身の短い小銃)を持って警備の任務についていましたが、休憩に入って手持ち無沙汰から、弾が入っていることをつい忘れ、練習のつもりで通りかかった電車を狙い引き金を引いたと米軍での事情聴取で供述したそうです。

 

新聞報道で「カービン銃」と書かれているので、ロングプリーが持っていたのはおそらく警備用火器として当時使われていたM1カービン銃だと思われます。

 

 

写真の上はジラード事件で使われたM1ガーランド小銃で、下がより小型のM1カービン銃です。

 

ご覧のようにM1カービン銃では、M1ガーランド銃とは異なり、弾はカセットのような弾倉に詰めてから銃に装着する(引き金の前にあるのが弾倉)ものですから、いくら経験の浅い19歳の兵卒とはいえ、弾倉が装着されているかどうかすら分からないまま撃つはずはないと思いますし、ついさっきまで実弾をこめたこの銃で警備任務についていたのですから、弾倉が空だなどと錯覚するはずもありません。

 

当時「第2のジラード事件」とも呼ばれたこの事件、公務外(休憩中)の出来事とのことで裁判権こそ日本側に認められましたが、限りなく虚偽が疑われる供述内容のまま、日本側も「事故」としてロングプリーを過失致死罪で起訴しました。

 

1959(昭和34)年5月に浦和地裁は禁錮10ヶ月の判決を下し、被告側は控訴しましたが東京高裁は9月に控訴を棄却して判決が確定しました。

 

この事件では、ジラード事件のように執行猶予はつかず、かろうじて実刑判決となったものの、もしも多数の乗客が乗っている電車に向かっての意図的な発砲であれば悪質極まる犯罪行為で、現に前途ある若者が命を落としているにもかかわらず、わずか10ヶ月の禁固刑で済まされるという、米軍におもねったとしか思えない非常に軽い判決でした。

 

以上は氷山のほんの一角に過ぎず、山本英政氏は読売新聞(1957年6月7日夕刊)の記事を引用して次のように書いています(『米兵犯罪と日米密約』53ページ)

 

年間、5、6000件にも及ぶ大小さまざまな米軍関係者による犯罪。しかし、そのうち97パーセントもの容疑者たちの多くは帰国してしまったか、不起訴処分とされたか、あるいは彼らの裁判権がアメリカ側に移管され、日本人被害者たちはくやしさに身を震わせ泣き寝入りさせられた。

 

こうした事件・事故が米軍基地の撤去・返還を求める住民の運動を活発化させます。

それらを背景に、ジラード事件の起きた相馬ヶ原演習場は1959(昭和34)年に、米軍機母子殺傷事件の水戸東飛行場は1973(昭和48)年に、ジョンソン基地は飛行場部分の管理運用が1963(昭和38)年、全面的には1978(昭和53)年に、日本に返還されました。

 

しかし、日本本土にある米軍基地の返還が進められる一方で、1972(昭和47)年5月15日にいわゆる「本土復帰」がなされるまでアメリカが施政権を持っていた沖縄に、米軍基地が移転されることになり、現在、在日米軍基地の総面積の約70%が沖縄に集中しています。

 

詳しく事例をあげることは略しますが、その沖縄の基地周辺で、女性・女児へのレイプ事件など米兵による犯罪が多発してきたことはあらためて言うまでもないでしょう。

 

1995年9月4日、沖縄駐留米兵3人が

12歳の女子小学生を車で拉致してレイプ

県警は犯人の身柄引渡しを求めたが、

米軍は日米地位協定を理由に拒否した

写真は10月21日に開かれた「怒りの集会」

(時事通信)

 

そして、ジラード事件などで米兵の犯罪を日本の警察・司法が取り締まり裁くことの大きな障害となった日米行政協定による日本の行政権・裁判権の制限が、現行の新安保条約における日米地位協定(1960)においてもそのまま引き継がれ、その不平等性が問題になっています。

 

しかし、上の写真の少女レイプ事件をきっかけに、重大犯罪では加害米兵の日本側への身柄引渡しに「好意的な配慮を払う」と米側が言っただけで、地位協定自体の改正についてはいまだに何の手もつけられていないのが現状です。

 

その意味で「ジラード事件」はいまだに終わっていないのだと、このブログを書きながら強く思った小川ですショボーン

 

〈参照資料〉

山本英政『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実」(明石書店、2015)

田中・佐藤・野村編『戦後政治裁判史録3』(第一法規、1980)

山本英政「「ジラード事件」追考④ 判決と反応」(獨協大学「マテシス・ウニウェルサリス」第16巻第2号、2015)

大沼久夫「「ジラード事件」と日米関係」(「共愛学園前橋国際大学論集」No.16、2016)

信夫隆司「ジラード事件と刑事裁判権」(日本大学「法学紀要」58巻、2017)

ジラード事件前橋地裁判決(データベース「世界と日本」)

新聞各紙の事件関係記事

その他

 

 

今日はハロウィンなので、小川とトラ吉と小虎でお菓子を食べました🎃
 

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい飛び出すハート

戦後初めて執行された女性死刑囚

ホテル日本閣殺人事件

1960年

サムネイル

今回は、ホテル日本閣殺人事件を取り上げました。

貧しい農家に生まれた女性が、「色と金」への飽くなき欲求に突き動かされ、持ち前の愛嬌と商才でいったんは成功をおさめながら、その過程で夫と温泉旅館経営者夫婦の3人を殺害したことから、戦後初めて執行された女性死刑囚になってしまった事件です。

 

朝日新聞(1966年7月14日夕刊)

 

【小林カウの生い立ちと結婚】

事件の主犯となった小林カウ(旧姓不詳、名前の読みは「こう」)は、1908(明治41)年10月20日、埼玉県大里郡玉井村(現在は熊谷市玉井)の農家に、7人きょうだい(8人とも言われる)の5番目に次女として生まれました。

 

小林カウ

 

家が貧しかったため、カウは尋常小学校(6年制の義務教育)を4年しか行けずに学校をやめ、その後5年間を農作業と家事手伝いで過ごしました。

 

都会に憧れていたカウは、16歳で家を出て上京し、本郷の旅館で働きました。

 

21歳で郷里に戻ったカウは、姉のすすめで自転車屋を営む小林秀之助さん(当時27歳)という新潟県柏崎市出身の男性とお見合いをし、1930(昭和5)年に結婚します。

 

翌年生まれた長男はすぐに亡くなりましたが、その1年後には長女が生まれ、幸せな家庭生活が始まるかのように思われました。

 

しかし、相手のことをよく知らないまま一緒になるのが普通だった当時の見合い結婚のこと、虚弱な夫は胃腸が弱く病気がちでおまけに慢性淋病まで患っていたことをカウは知りませんでした。

 

満足に働けない夫に代わって家計を支えるために商売を始めたカウは、家庭での経済的、性的な不満もあって、外でのお金儲けの面白さに目覚めたようです。

 

彼女が商才を遺憾なく発揮したのは、戦後の闇市経済においてで、米や砂糖、自転車のゴム、それに春画(エロ絵)を仕入れては売り、かなりの大金を稼いだようです。

 

【カウの「初恋」と夫殺し】

そうこうしていた1951(昭和26)年、小林カウは中村又一郎(当時25歳)という若い警官と出会い、深い仲になります。

 

中村又一郎

 

きっかけは、近くの派出所に勤務していた中村巡査が、戸口調査でカウの家を訪れたことです。

闇物資を商っていた彼女としては、取り締まりを免れるために警察官と親しくなっておこうと彼を歓待したようですが、それだけでなくいわゆる「イケメン」の中村にカウは惚れてしまったのです。

43歳にしての彼女の「初恋」でした。

 

ふたりの仲が深まるにつれ、夫の秀之助もそれに気づかずにはいません。

夫婦仲がすっかり冷え切っていたカウは夫に別れてくれるよう頼みましたが、夫は意地でも離婚を認めませんでした。

 

困ったカウは、愛人の中村と共謀して夫を殺害しようと決意するのです。

 

後の取り調べで中村は否定しますが、彼がメッキ工場から手に入れた青酸カリをカウに渡し、1952(昭和27)年10月2日、それを彼女が風邪薬だと偽って夫に飲ませました。

死の間際に夫が異様な叫び声を上げたため、聞きつけた近所の住民が駆けつけましたが、カウは泣きながら遺体にとりすがり頬をさすっていたそうです。

 

急死した夫を検死した医師は、死因を「脳出血」と診断しました。

妻のカウに警察官である中村が寄り添っていたことから、医師も殺人を疑わなかったと言われています。

 

当時住んでいた場所から「熊谷事件」とも呼ばれるこの夫殺しが発覚するのは、後で見るように、9年後にホテル日本閣の事件でカウが逮捕されてからの取り調べにおいてです。

 

夫の死亡後、小林カウは中村又一郎の自宅で同棲生活を送るようになります。

しかし、甘い生活は長くは続きませんでした。

 

1952年11月6日、中村は警察官として素行不良ということで、懲戒免職になってしまいます。

さらに、16歳年上のカウへの熱が冷めた中村は、彼女が商売で家を空けることが多かったこともあって若い女性と親しくなり、2年ほどで文字通り「不倫(倫理的でない)」な同棲生活は破局を迎えました。

 

その後、その女性と結婚した中村の新居に、彼を諦めきれないカウは何度も押しかけて激しく戸を叩くなど荒れに荒れたそうですが、最後には中村にいくらかのお金を渡して彼女なりの区切りをつけたと言われます。

 

この「失恋」経験を経て小林カウは、商売と金儲けにこれまでよりさらに熱を入れるようになります。

 

【ホテル日本閣と経営者夫婦殺害】

小林カウは以前から、熊谷銘菓の「五家宝(ごかぼう)」という和菓子を内職で作っていたそうですが、新たに辛子漬けを考案して姉の家で製造し、「風味漬」の名前でカウが販売するようになります。

五家宝

 

彼女が栃木県の那須塩原温泉郷を初めて訪れたのも行商のためで、当地の人たちの温かな人情に触れ、カウはすっかりここが気に入ったようです。

 

秋の塩原温泉郷

 

塩原温泉郷で大きく商売を発展させたいと考えたカウは、1956(昭和31)年、風味漬の代金が焦げついていた「那珂屋物産店」という土産物店を乗っ取るようにして手に入れ、さらに翌1957年には隣の土地に「風味屋」という食堂をオープンさせて姉夫婦に経営を任せます。

 

彼女の商売は大いに当たって、一財産を築くほどの成功をおさめました。

 

そんな折もおり、塩原温泉郷の「ホテル日本閣」が300〜400万円で売りに出されるらしいという噂を聞きつけ、その程度のお金を出せるだけの貯蓄があったカウは、ぜひ手に入れたいと思いました。

というのも、貧しさのあまり小学校すら中退した彼女が、16歳で単身上京し働いたのが旅館の女中でしたので、自分が女将になってホテルを経営する立場になるのは、そのころからの彼女の夢でもあったからです。

 

今も更地のままの「ホテル日本閣」跡地

塩原街道から福渡(ふくわた)橋を渡り

「天皇の間記念公園」の手前にある

 

ただこの「ホテル日本閣」は少し訳ありの物件でした。

ホテル日本閣は、1957(昭和32)年に生方鍵輔(うぶかた・けんすけ)が創業したばかりの新しいホテルでした。

しかし、新たなライバルの参入を心良く思わず、また日本閣自身も設備が貧弱なままの強引な開業だったことから、生方は塩原温泉の旅館組合に入れてもらえず、そのため源泉から温泉をホテルに引き湯する権利が与えられなかったのです。

 

塩原温泉の旅館は源泉掛け流し100%が人気

 

つまり、全国有数の温泉地にありながら浴場が温泉ではない日本閣は、観光客に避けられてたちまち経営が苦しくなります。

そんなことから経営者の生方も一時心を病み、宇都宮の精神科病院に入院します。

 

経営難のホテル日本閣が格安で売却されるという噂が流れたのはそのころでしたが、1958(昭和33)年夏に退院した生方は、新館を増築してなんとか起死回生を図ろうとします。

 

しかしカウが生方に会いに行くと、彼は噂を否定し、ホテルを売るつもりはないとにべもなく彼女の買収の申し出を退けたのです。

 

ところがその後まもなく、新館増築工事が資金難から中断を余儀なくされ切羽詰まった生方は、小林カウのことを思い出して、今度は彼の方から彼女を訪ねました。

 

生方が申し出たのは、妻のウメさん(当時49歳)と離婚するための手切金50万円を出してくれたらカウを女将にするので、日本閣を共同経営しようというものでした。

 

カウは喜んで申し出を受け入れ、おそらくそのころにもう彼女は生方と男女の仲になっていたと思われます。

 

しかし、単にケチったのか生方の妻への感情があったか分かりませんが、カウは50万円は多すぎると30万円に値切ったらしいのです。

それに怒ったのか、ウメさんは離婚話を蹴ります。

 

ウメさんに離婚の意志がないのなら、いつまでたっても自分はホテルの共同経営者になれないと焦ったカウは、生方と共謀して邪魔なウメさんを殺害することにしました。

 

実行役にしたのは、ホテル日本閣で雑役夫をしていた大貫光吉(当時36歳)というさえない男でした。

 

大貫光吉

 

女気のない大貫にカウは、ウメさんを殺したら2万円に加えて自分を抱かせてやると約束し、殺人を引き受けさせます。

 

しかし、なかなか殺害のチャンスを大貫が見つけられず月日ばかりが経つので、業(ごう)をにやした(思い通りにことが運ばず腹を立てた)生方が大貫に、今夜やれとけしかけました。

そこで1960(昭和35)年2月8日、大貫は寝ているウメさんの首を紐で絞めて殺し、遺体を3人でホテルのボイラー室に運び、土間を掘って埋め、コンクリートを表面に流しました。

 

ところがその後、「最近ウメさんの姿が見えないが、殺されてホテルの地下に埋められたのでは……」という噂が近所で立ち始めたため、3月中旬になって3人は慌てて遺体を掘り起こし、近所の山林に埋め直しています。

 

こうして念願のホテル日本閣の女将で共同経営者の座を手に入れた小林カウは、200万円の資金を提供して新館増築工事を再開させました。

増築した新館は小林カウの名義にするという約束を生方と交わした上でです。

 

すべてがうまく行ったかに思えたカウでしたが、念のためにと登記所でホテル日本閣の登記状態を確認した彼女は驚愕します。

 

というのも、約束と異なり新館の名義がカウになっていないだけでなく、ホテル全体が莫大な借金のカタになっていて、競売にかけられる寸前だと分かったからです。

生方は、カウにお金を出させて新館を完成させ、資産価値を高めてからホテルを売却する計画だったのです。

 

生方に裏切られ、ただ利用されただけだと知ったカウは憤り、生方鎌輔を殺害することを決意します。

 

カウは大貫に、生方の殺害に協力すれば一緒にホテルを経営しようと言葉巧みに持ちかけました。

 

そうして1960(昭和35)年12月31日の大晦日、午後5時過ぎに、家でくつろいでいた生方に大貫が襲いかかって首を絞め、カウが包丁でトドメを刺して殺害しました。

遺体はホテルの廊下の床下に埋め、行方不明を装ったのです。

 

【3人の殺人容疑で逮捕】

一年足らずの間に、ホテル日本閣の経営者夫婦が連続して行方不明になったことは近所でも噂となり、事件性があるのではと疑いを持った栃木県警大田原署は、1961(昭和36)年2月18日にまず大貫光吉を窃盗の別件で逮捕して追及しました。

 

すると大貫は、夫婦の殺害をあっさりと認めたため、その供述にもとづいて小林カウを2月20日に殺人容疑で逮捕したのです。

 

読売新聞(1961年2月21日)

 

2人の自供により、警察は逮捕の翌日(2月21日)、生方鍵輔の遺体を、カウが資金を出して完成させた新館の広間廊下の床下から発見しました。

妻の遺体が近くの山林から発見されたのは、さらにその翌日(2月22日)でした。

 

本当ならカウの夢が実現した晴れの場所だったはずの日本閣新館に生方の遺体を埋めたのは、自分を裏切った彼へのカウの恨みの強さを示しているのかもしれません。

 

読売新聞(1961年2月21日夕刊)

 

事件と小林カウの逮捕がマスコミで報道され、社会の注目が集まると、9年前のカウの夫である小林秀之助さんの死も毒殺ではないかという投書が栃木県警本部に寄せられたことから、警察はカウを追及しました。

 

警察が共犯と考えた中村又一郎は容疑を否定しましたが、小林カウが当時愛人だった中村と共謀して夫を青酸カリで殺したと認めたため、同年4月12日、中村も小林秀之助さん殺害の共犯容疑で逮捕されました。

 

読売新聞(1961年4月13日夕刊)

 

【裁判と死刑判決】

こうして小林カウは、小林秀之助さん殺害容疑で中村又一郎と共に、生方鍵輔・ウメ夫妻の殺害容疑では大貫光吉と共に起訴されて、宇都宮地方裁判所で審理にかけられ、検察はカウと大貫に死刑を、中村に懲役17年を求刑しました。

 

読売新聞(1962年12月26日)

 

1963(昭和38)年3月18日、宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決公判で、3人を殺害した小林カウに死刑、共犯の大貫光吉に無期懲役、小林秀之助さん殺害の共犯である中村又一郎には殺人罪では証拠不十分で無罪、拳銃の不法所持で懲役1年の判決を下しました。

 

読売新聞(1963年3月18日夕刊)

 

検察と中村以外の被告双方が判決を不服として控訴したため、東京高等裁判所で第二審が行われた結果、1965(昭和40)年9月15日、小林裁判長は小林カウには再び死刑、大貫光吉には無期懲役を破棄して死刑、中村又一郎にも殺人罪での無罪判決を破棄して懲役10年の有罪判決を言い渡しました。

 

読売新聞(1965年9月15日夕刊)

 
被告の上告で裁判は最高裁まで争われましたが、1966(昭和41)年7月14日、最高裁第一小法廷の長部裁判長は、二審判決を支持して上告を棄却する決定を下し、小林カウと大貫光吉の死刑が確定しました。
 

読売新聞(1966年7月14日夕刊)

 

【死刑執行】

上の記事にあるように、女性で死刑が確定したのは小林カウが戦後で3人目になります。
ちなみに、1人目と2人目の確定した女性死刑囚は次の通りです。
 
菅野村強盗殺人・放火事件の山本宏子

戦後初となる女性は、1949(昭和24)年に兵庫県飾磨郡菅野村(現在は姫路市)で強盗殺人と放火の罪に問われた山本宏子(当時34歳)で、1951(昭和26)年に死刑が確定しています。

ただ山本は、その後精神が崩壊したため特別恩赦で無期懲役に減刑され、1978(昭和53)年に63歳で病死しました。

 

山本宏子

 

女性連続毒殺魔事件の杉村サダメ

戦後2人目は、1960(昭和35)年に熊本市で、金銭目的で女性ばかり3人を毒殺し1人を植物状態にした杉村サダメ(当時48歳)で、1963(昭和38)年3月に死刑が確定しました。

杉村は、1970年9月19日に59歳で死刑が執行されています。

 

杉村サダメ

 

死刑が確定した後の小林カウは、女性には死刑は執行されないのでいずれ保釈されると思っていたらしくその後の計画をいろいろ考えていたとか、独房での生活が耐え難いので刑務所内で何か仕事を与えてほしいと願い出て却下されるなどのエピソードが残っています。

しかし彼女が、被害者たちへの謝罪と反省を口にすることはなかったようです。

 

1970(昭和45)年6月11日、小林カウは大貫光吉と共に、小菅刑務所(現在の東京拘置所)で死刑が執行され、戦後初めて執行された女性死刑囚となりました。

 

読売新聞(1970年6月13日)

*記事中、「他の二人は恩赦と死亡で執行されていない」は誤報

 

最後に「思い残すことも、言い残すこともありません」と言って刑場に向かったという小林カウ——61年の波乱の人生でした。

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

(「週刊公論」昭和36年5月1日号)

 

 

上の写真は、週刊誌に載った大田原署に連行される小林カウですが、ネットで最もよく見かける下の写真よりも、持ち前の愛嬌で男を魅了したと言われる彼女の雰囲気がよくうかがえます。

 

小学校も満足に行くことができず、少なくともある時期まではカタカナしか書けなかったという小林カウが、性的・金銭的欲望のままに行動し、自分を邪魔する者たち(いわば障害物)を次々と排除(殺害)していったことに、弁解の余地がないことは言うまでもありません。

 

しかし彼女を、冷血非情な殺人者だと簡単に片付けてしまうことには、小川はためらいを覚えます。

その短絡的思考や欲に駆られた愚かさも含めて、小林カウはあまりにも「人間くさい」のです。

 

貧しい農家に生まれ、夢見る少女時代などあるはずもなく働きづめだったカウは、16歳で上京し下働きしながら、都会の豊かな暮らしと性の快楽・効用(男社会だからこそ使える「女の武器」)を初めて身をもって知ったことでしょう。

その体験から「イロとカネ」に囚われた人生を送ったことを、彼女だけのせいにして責めることはできないと思うのです。

 

これまでもいろいろな事件を見てきて、「もしここで事情が違っていたなら」と考えてしまうケースがよくあります。

 

カウの場合も、もし夫との結婚生活が幸せなものであったなら、その後の人生は大きく違っていたでしょう。

彼女の人生の最初の分岐点です。

 

姉のすすめでろくに知らない男と結婚したカウは、夫が金銭的にも性愛的にも自分を満足させるには程遠い人物だとすぐに気づきます。

しかし、夫への期待が失せた分彼女は、自分が人並み以上の商才を持っていることに自信を持ち、経済的満足は夫に頼るのではなく、自分の力で手に入れようとします。

その意味で小林カウは、「自立した女性」になるのです。

 

また闇物資の売買で彼女は、仕入れの代金をお金ではなく「カラダ」で払うことで、儲けを増やしたようです。

 

そのように「女の性」を生きるための道具として使いながら、8歳年下の若い警官との性的快楽に溺れるようになります。

実は彼(中村又一郎)と出会った当初は、19歳になっていた娘の相手にどうかとカウは思ったらしいのですが、すぐに自分が43歳にして知った「初めての恋」にのめり込んでしまいます。

それはおそらく、彼女にとって生涯にたった一度の恋愛だったことでしょう。

 

カウは夫に別れてくれるよう懇願しますが、頑として離婚を認めようとしないために、夫を殺害してしまいます。

後の日本閣事件さえ起こさなければ、この殺人は完全犯罪になったところですから、中村との生活が幸せなものとして続いたならば、その後の人生は大きく違ったでしょう。

カウの人生の第二の分岐点です。

 

彼と過ごした2年間が、小林カウにとって経済的にも性的にも人生で最も満たされた幸せな年月だったでしょうが、しかしそれは2人のすれ違いによってあっけなく終わりを遂げます。

 

ちなみに、中村との同棲生活の間に、20歳になったカウの娘さんは、母親を見限って家を出て行き、その後の消息は分かりません。

 

失恋をバネにして商売で成功をおさめひと財産築くまでになった小林カウにとって、最後で最大の人生の分岐点となったのが、ホテル日本閣をめぐる一連の出来事です。

 

ここでも、先に見たような期待と裏切りの連鎖がカウをもてあそび、ついに彼女は凶悪な連続殺人犯になってしまいます。

 

カウ自身の欲望のなせる業(わざ)で自業自得だと言ってしまえばそれまでですが、彼女のカネを目当てに、初めから騙すつもりで共同経営という甘い空約束をし、妻殺害計画に巻き込み、さらに裏切りがバレて自分自身も殺されてしまう生方鍵輔が、もう少しまともで誠実な人間であったならと、ここでもカウにとっての不運を想い、「もし……」と別の人生展開を考えてしまった小川です。

 

最後に、よく事件と関連して話題にされますので補足しますが、小林カウと日本閣事件をモチーフに、東映映画「天国の駅」(出目昌伸監督、早坂曉脚本、吉永小百合主演)が1984(昭和59)年に制作されています。

 

 

この映画を小川も観ましたが、場所や状況の設定が実際の事件と異なるのは当然として、小川として残念だったのは小林カウに当たる女性が、カウとは正反対と言ってもいいくらい、演じた吉永小百合さんの清楚で控えめなイメージどおりのキャラクターだったことです。

ですので、もしご覧になるのであれば、日本閣事件とはまったく別の物語として楽しまれたらいいのではと思いました。

 

なお、このブログを仕上げているときに、西田敏行さんの訃報に接しました。

上のポスターの男性(事件で言えば大貫光吉に当たる役)が西田さんです。

テレビ番組「探偵ナイトスクープ」(朝日放送)の局長で出ておられた時に小川もよく観ていましたので、享年76歳という早すぎる西田敏行さんの急逝を、心から悼みたいと思います。

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますおねがい飛び出すハート

 

 

 
これは、AKB48「言い訳Maybe」のコスプレ衣装です♡
高校の文化祭でハロウィンパーティーをすることになり、親におねだりして(たしか…1万円以上したような…)買ってもらいました。
たった一度しか着なかったです。
小川の職場(障害者の福祉施設)では今年もハロウィンパーティーをするので、クローゼットの中を整理していたら、懐かしいコスプレ衣装と久しぶりに対面飛び出すハート
さすがにこの歳になると恥ずかしくて、もう着られないのですが……驚き
今年は魔女のコスプレにします🖤🧹