「積木くずし」
穂積由香里の生涯
自著『娘の積木くずし』の扉に掲載の写真
『積木くずし』は、1982年(昭和57年)に俳優の穂積隆信さんが妻の美千子さんと一緒に、非行に走った一人娘・由香里さんと葛藤した日々を赤裸々に綴った手記です。副題は「親と子の二百日戦争」となっています。
当時は、子どもの非行や家庭内暴力が大きく社会問題化していたことから、この本は300万部とも言われるベストセラーとなり、何度も映画化・テレビドラマ化され、それらも大きな話題となりました。
こうしたことから、これまで「積木くずし」と言えば非行に走った子どもを持つ親の立場、両親の苦悩が話題の中心でしたが、このブログでは「積木の子」と言われた娘の由香里さんの揺れる思いと行動に焦点を当て、35年という彼女の短い生涯を追いかけてみました。
なお、煩雑さを避けるため、本文中では原則として人物の敬称(さん)は省いています。
人は誰しもただ一度の人生を生きるものですが、生まれ落ちる環境、つまり父母、家庭環境、遺伝的生理的な素質、時代状況などを選んで生まれることはできません。
そしていずれかの要因が、時に運命としてその人の一生を大きく左右してしまうことがあります。
穂積由香里(戸籍上の姓は鈴木)の生涯は、与えられた運命の奔流に時に流され時に抗(あらが)いながら、何度も心と身体を傷つけ、ついに力尽きた35年だったと思えてなりません。
【生まれついた病弱】
1967(昭和42)年12月16日、由香里は東京・港区の虎の門病院で、穂積隆信と美千子夫妻に初めて授かった一人娘として生まれました。
虎の門病院(当時)
予定日をひと月も過ぎての出生にもかかわらず、体重2600gと小さな赤ん坊でした。
両親は娘の誕生をとても喜びましたが、由香里の体は生まれながらにして病魔におかされていたのです。
父に抱かれて
(『娘の積木くずし』[以下「自著」]より)
母の美千子は長崎出身の被爆者で、医師から原爆症との診断を受けたわけではなかったようですが、時おり襲う目の痛み(左目は失明同然になる)やひどい頭痛の発作に悩まされていました。
内臓奇形(左卵巣の奇形)で生まれた由香里の病弱な体は、母の被曝の影響ではないかと両親(特に母親)は心配していたようです。
生後7ヶ月で脱水症状を起こし虎の門病院に入院した由香里は、その後も入退院を繰り返しました。
生後7ヶ月(「自著」)
3歳の時、左の卵巣が腫れあがったために、摘出の大手術を受けます。
五分五分と言われた手術は成功しましたが、その後に長期間投与されたステロイド(副腎皮質ホルモン)剤の副作用と生涯続く腎不全に由香里は苦しめられることになります。
副作用の一つが肥満で、さらに手術後すべて抜けて生え替わった髪の毛は、光の具合ではブロンドに見える薄い赤茶色でした。
3歳ごろ母と(「自著」)
また、4歳9ヶ月には、腸に腫瘍が見つかります。
検査の結果、幸い良性だと分かり、手術によって快復しますが、その後も入退院を繰り返した由香里には、「病院が第二の我家みたい」という状態が続きました。
【灰色の小学校時代】
1974(昭和49)年、由香里は千代田区立永田町小学校(統合により現在は麹町小学校)に入学します。
旧永田町小学校の校舎
戦前に建てられたコンクリート造りの昭和モダン建築
彼女が「私の小学校時代……思い出したくもない」と書いたのは、「入院ばかりしているから勉強なんかまったくできない劣等生」であっただけでなく、ずっといじめの対象にされたからです。
いじめの原因は、先に書いた薬の副作用による肥満と赤い髪でした。
小学6年生で身長145cmに対し体重が67kgもあったそうですから、赤い髪の色と合わせて目立ったのでしょう。
身体的暴力はなかったようですが、「デブ、ブタ、あいの子」「赤毛のアン」「女関取」など言葉の暴力でいじめられた由香里は、言い返すこともできずに何度も家に泣いて帰ったそうです。
おまけに、子どもの世界では父・隆信が芝居で悪役や敵(かたき)役をすることが多かったこともいじめの遠因になったようで、「そのころ、正直言って父の職業をあまり良く受け止めていなかった」と彼女は振り返っています。
しかし彼女は、親に心配をかけたくないという気持ちもあり、いじめを誰にも打ち明けることなく、じっと耐えて過ごしました。
何の楽しいこともない灰色の小学校時代。子供たちが体と心を育成していく大切な時代に私は孤独と病気に耐えて、子供の特権のような遊びとか笑いとか、まったくない灰色の世界を漂っていた。
(「自著」27ページ)
それに耐えられたのは、「由香ちゃん、ごめんね。ママが弱く生んだせいで苦しめちゃって……」と謝りながら、いつも側にいて慰め励ましてくれるやさしい母がいたからですが、それに対して「父というものの存在は私にとって疑問だった」と彼女は自著で述べています。
「私には幼いころの父との記憶があまりない。(中略)というのは、父はあまり家にいなかったから」です。
遊びも笑いもない灰色の世界は、父親不在の家庭にも連続していたのです。
私と母は寂しい食卓を囲んで、食事を食べる。はずむ会話なんかあるはずない。だって、私は学校での出来事などひとつも報告するわけでなく、友達をつれてくるわけでもなく、何も楽しいことなんかないのだから。
もっとつらいのは日曜日……。学校がないのは救われたけど、父がいなくてどこへも遊びにつれていってもらえない。どこにもいかなくても、せめて3人でいるだけでも良かったのに、父は帰らない。
(「自著」30ページ)
父親の帰らぬ理由が「仕事一筋だったら、まだ良かった。仕事が大変なかわいそうなパパとでも思えたかもしれないけど、父が帰宅しない理由はもっと別にあったのだ。それは父に愛人がいた」からで、「本当はうちは元々、崩壊家庭だった」とまで彼女は書いています。
娘にかかりっきりの妻と心の距離が生まれたのでしょうか、隆信が目黒区の蛇崩(じゃくずれ)に愛人(「じゃくずれ」は愛人のニックネームでもあったそうです)を囲い夜遅く帰宅したり家に帰らなかったりした期間は、由香里がいじめに耐えていた小学校時代に重なっています。
子どもだった彼女は、愛人関係についてよく分からなかったでしょうが(それと知ったのは14、15歳になってだそうです)、小学1年生のある日、それまで「じっと耐える人」だった母が怒りを爆発させ、娘の目の前で夫と大げんかしたのを覚えているそうです。
その時、父は家を出て愛人のもとに行ったまま、1週間ほど帰りませんでした。
「子供が非行化する一番の原因は何といっても家庭の問題だろう。(中略)『私って何て不幸……こんな親の元に生まれて』そう感じてしまうと危ない。すでに親を呪いはじめて、それが非行につながっていく」と由香里は書いています。
【リンチと非行】
「愛人騒動」がまだ尾を引いていた1980(昭和55)年、由香里は千代田区立麹町中学校に学区指定で入学します。
千代田区立麹町中学校(当時)
麹町中学は当時、都立日比谷高校から東大というエリートコースの流れに位置づけられた「名門公立中学」で、越境入学者も少なくなかったそうです。
「劣等生」の由香里には厳しい環境だったでしょうが、健康が回復した彼女は、「勉強ではついていけない落ちこぼれ」ながら、剣道部に入って楽しい中学生活をスタートさせます。
ただ、進学校では「落ちこぼれの少数派」の側に身を置かざるをえなかったため、非行の道に染まっていくことになります。
中学1年の夏休みが近づいたころ*、学校が終わって校門を出たところで待ち受けていた他校のツッパリ女子生徒4、5人にからまれた彼女は、自宅に近い赤坂氷川神社まで連れて行かれます。
*『積木くずし』ではこの出来事は、「中学1年も終わりに近い3月上旬のこと」と書かれています。真相は分かりませんが、「3月上旬」というのは後で見る「レイプ事件」だったのではないでしょうか
赤坂氷川神社
実はそれは、麹町中学の先輩ツッパリ女子生徒のさしがねだったと後で知ったそうですが、由香里は「お前、俳優の娘だろう、だからって、髪の毛染めて格好つけるんじゃねえ、ふざけるなよ、このデブ」と何度も顔を殴られ、「染めてません」と抗弁するほど「生意気だ!」とリンチがエスカレートし、押さえつけられてカミソリで眉を剃られ顔を5センチも切られたのです。
しかし、それだけではなかったようです。
父・隆信が『由香里の死そして愛 積木くずし終章』に載せている、由香里の死後に遺品の中から見つけたという彼女の文章には、リンチの場に男子生徒が現れ、「顔を切られた後、押し倒されて性的ないじめを受けた」と書かれているのです。
幸い顔の傷は浅く、またレイプまではされなかったようですが、彼女は精神的に「致命傷」を負い「絶望の縁」に立たされたと感じたそうです。
「病気も太ったことも、勉強ができないことも、赤い髪も、すべて私が悪いんじゃない」というぶつけようのない怒りは両親に向けられ、「父が俳優のため私はリンチを受けた」という思い込みから、「特に父親に憎しみがむいた」と先にあげた文章で由香里は書いています。
思い起こすと、これが私の反抗の始まり、このことから私の「積木くずし」は始まったのです。(中略)リンチを受けた悔しさを、父や母にぶつけたのです。どうしたら、両親が困るんだろう、そればかり考えました。それには、私が悪くなればいいんだ、そう思いました。忘れもしません。それから私は、自分の意志で、自分自身を変えていったのです。それから、格好も、俗に不良を真似し、行動も、不良らしく振る舞いました。最初は真似のつもりが、気が付いた時は、すっかり本物になってしまったのです。
(『由香里の死そして愛』92−93ページ)
いかにも13歳の未熟な思考ですが、「スカートのたけを長くして、カバンをすり潰し」、「態度や歩き方、言葉使いまで」不良に変身した娘に親は驚き、学校に行くと「クラスメイトも先生も私を見てたまげている。みんなに注目され、恐れられている自分が誇らしくてならなかった」そうです。
ある高校の生活指導部が作画した
当時の不良女子生徒の服装(1975年)
こうして由香里は、家出、外泊、シンナー吸引、ディスコ、竹の子族、暴走族……と、非行少女の「ワルの道」を突っ走ります。
その心理を、10年後に『娘の積木くずし』を書いた時の23歳の由香里は、次のように自己分析しています。
私は非行という非行をすべてやった。世の中をあざわらうような悪いことは覚えると楽しくてしかたない。ワルとして注目されるのも楽しい。それは、幼児がわざと親の関心をひくために物を壊してみたりするそんな甘えと似ているかもしれない。不良たちは親の愛に恵まれずに、物心ついてから、そんな幼児期の行動をするのかもしれないと私は今になって思うのだ。
(「自著」43ページ)
【おぞましい出来事】
不良グループに加わってしばらくしたある日、「本物の不良少女になってしまったきっかけ」となる、思い出すのもおぞましい出来事が起こります。
グループの先輩男子から呼び出しを受け彼らのたまり場になっているアパートに行った由香里は、そこにいた中学の先輩5、6人から殴られレイプされたのです。
男性経験のなかった彼女は、恐怖のあまり途中で失心したそうです。
このように、リンチでの「性的ないじめ」と「レイプ」と、彼女は2度も性暴力被害にあったようなのですが、両親はそのことを知りませんでした。
このレイプ事件も、生意気だと彼女のことを良く思っていないグループの先輩女子が仕組んだ制裁だったそうです。
性暴力被害者がおちいりがちな自罰的心理ですが、「家にたどりついてから必死で体を洗い続け」とめどなく涙が出てとまらなかった由香里は、「ただ、もう自分が元に戻れない、もうすっかり汚れきった本物のズベ公(不良少女の俗称)になってしまったんだと思った」そうです。
私にとってこの事件は、その後の私を左右する、人生の最大のターニングポイントだったのかもしれない。私は、この時に思った。「もう、こんな私なんか、どうなってもいいや」
この事件後の私はそれこそ急降下していった。自暴自棄になっていたから、自分がどんどん汚れていくことをむしろ望むようなところもあったのだ。(中略)それからの私は本当にひどかった。(中略)自分を捨てた人間ほど強くて怖いものはないと思う。そんな少女だった。
(「自著」51-52ページ)
ここまで見てきた「積木くずし前史」を知らなければ、病弱な娘を案ずる優しい両親がおり、親からの虐待を特に受けたわけでなく、経済的に困窮してもいない家庭の娘であった由香里が、一変してなぜあれほどの非行に走ったかは不可解でしかありません。
娘のあまりの変わりように驚いた両親の困惑はまずその不可解さにあり、うろたえ振り回されながらも、「不良」になった娘をなんとか立ち直らせようと、彼らは警視庁少年課の専門相談員・竹江孝氏のアドバイスを受けながら、1981(昭和56)年から翌年にかけて「親と子の200日戦争」を闘ったのです。
【悲劇をもたらした涙の書】
1982(昭和57)年9月、穂積隆信は『積木くずし』(桐原書店)を出版します。
出たばかりの著書を手に語る穂積隆信
(1982年10月15日)
2005年に出した同書完全復刻版の「あとがきにかえて」で隆信は、この本は「自身への戒めと悔恨の書」「我が家にさまざまな悲劇をもたらした涙の書」「親と子の愛の在り方を教えてくれた書」だったと書いています。
「さまざまな悲劇をもたらした涙の書」とはどういう意味なのでしょうか。
由香里は次のように書いています。
この本はドキュメントで私の非行の軌跡を追ったものである。それは、1人の少女が転落していき、最後にほんの少し親子の交流ができて、立ち直れるのではないかという光明がさしたところで終わっている。この内容は、父の秘密が書かれてないことと、私が非行に入った原因がよくわからないこと以外はすべて真実だ。
(「自著」64−65ページ)
「父の秘密」とはもちろん隆信の愛人問題であり、その結果であり原因でもある両親の不和です。
それは由香里が非行に走った原因の底流にあったものですが、そこには触れず、先にあげた娘の辛い体験や苦しみについてもほとんど知らないまま、娘の気持ちを置き去りに親目線だけで書かれたものが、由香里にすれば『積木くずし』でした。
そのすれ違いが「悲劇」を生むことになります。
【悪魔のように描かれた非行少女】
『積木くずし』は、またたく間に2百数十万部を売り上げる大ベストセラーになり、毎月一千万円を超える印税収入が隆信の銀行口座に入りました。
思いがけない本の売れ行きに、わけもわからず由香里も両親と一緒に喜びます。
1983(昭和58)年2−3月、本をもとにした高部知子主演のテレビドラマ(TBS系列)が放映され、最終回は45.3%という驚異的な視聴率を記録しました。
読売新聞(1983年2月5日夕刊)
テレビドラマの1シーン
ところがドラマでは、「ケバケバしい鬼のような少女が、『ババアー、金出せよー』と母親の髪の毛をつかんで引きずり回している場面」など、「ただ非行し、親を泣かせる悪魔そのもの」としてしか自分が描かれていないことに衝撃を受けた由香里は、あらためて本を読んでみて本自体の内容がそうだったのだと気づくのです。
私の心も気持ちもどこにも書かれていない。(中略)この本では私の心の悩みや苦しみも伝わらない。私はあんなに苦しんだのに……。これではただのシンナーぼけのアホな女じゃない。
その時、私は反省した以上に親を恨んだ。(中略)うちには思わぬ大金が入り、信じられないほど一瞬にして金持ちになったのだが、これも私の過去を本にしたおかげであると思った。
そう思うと、親が私を利用したとしかとれなかった。私は、石を投げられて、非行少女でシンナー狂いのレッテルを貼られ、世間にさらしものにされたのに、親だけは被害者でかわいそうな親だという目で同情を買っているのだもの。なんて、不公平なのだと、私は怒りに燃えていた。
(「自著」67ページ)
『積木くずし』は、両親が娘を非行から立ち直らせかけたように終わっていますが、「それはほとんど父の勘違い」で、この本の出版は由香里の非行をさらに悪化させたのです。
【狂った家族の生活】
『積木くずし』は発売直後から爆発的に売れ、わずか2ヶ月で2千万円もの印税が入ります。
驚いた穂積夫妻はこのお金の使い道を相談し、1983年1月5日、親子3人の名前(隆信・美千子・由香里)の頭文字をとった「タミユ企画」という非営利の会社を2千万円の印税をもとに設立しました。
美千子が代表者となった「タミユ企画」は、子どもの非行に悩む親や本人の無料相談を目的とし、呼ばれれば地方にも無償で出かけ、また必要とする人のための宿泊所ともなる事務所を借り、スタッフも雇いました。
毎日新聞(1984年9月19日)
それは、自分たちの体験や知識で、同じように困っている人の助けになりたいという善意からのものでしたが、肝心の自分たちの足場が固まっていなかったのです。
ただの俳優・主婦が、時の人として悩める人の相談への対応や講演旅行に大忙しの毎日となり、夫婦は家を留守がちになって自分の娘に接する時間が少なくなります。
相談の電話を受ける美千子と隆信
こうして、親子関係がさらに危うくなる一方、かつてない大金を手にした3人の金銭感覚は狂い始めます。
赤坂の古いマンションの自宅をリフォームしたのをはじめ、美千子は高価な洋服や靴、毛皮のコートやアクセサリーなどを買い、隆信は派手に飲み歩き、一家は1982・83年と連続して年末年始にスタッフも引き連れハワイ旅行もしています。
父(右)と(「自著」)
自分の過去をさらしものにして得たお金だと感じていた由香里も、それを使う権利が自分にはあると、多い月には洋服など150万円もの買い物を現金やツケでするようになりました。
【壊れる夫婦関係】
娘が非行に走ったことは、皮肉なことに壊れかけていた夫婦仲を一時的にせよ修復する効果をもたらしました。
父は、娘が心配で毎日家に帰るようになり、目黒の愛人との関係も切れたようです。
ところが、莫大な印税が入ったことから、夫婦の関係は決定的に壊われることになります。
合わせて3億円を超える印税収入などの金銭管理を、隆信はすべて妻に任せていました。
そこで美千子は、タミユ企画にかかる経費や先に見た家族の「浪費」の資金をやりくりしていたのですが、湯水のようにお金が出ていく一方で、彼女が予想していなかった高額な所得税や法人税など税金の支払いに窮するようになります。
詳細は省きますが、お金を工面するために美千子が、隆信が養家(鈴木家)から相続した三島の土地を無断で売ったことを彼が知って怒り、また彼女が金銭管理で頼っていたタミユ企画の監査役の男性による横領や妻との関係を疑ったことから、夫婦関係は修復不可能なまでに悪化していきました。
夫婦は、1987(昭和62)年の別居と離婚に行き着き、由香里もそれに巻き込まれるのですが、それについては後で触れることにします。
話が先走りましたので、時間を巻き戻して由香里の後半生を見ていくことにします。
【現実逃避とシンナー】
「シンナー遊び」と言われた有機溶剤の吸引による酩酊が若者の風俗として現れたのは、1967(昭和42)年夏に東京・新宿区駅前広場の「フーテン族」の間でとされていますが、その後それは10代の若者に急速に広がり、下図のように検挙補導者数がピークに達するのがまさに由香里がシンナーを吸い始めた1980年代初めなのです(福井進「有機溶剤乱用・依存の実態と動向」『精神保健研究』第40号、1994)。
「私は現実から逃避したかった。自分のことも親のことも学校のことも考えるのもうんざりしている毎日。そんな時、幻覚を呼ぶシンナーはうってつけの遊びだったのだ」という由香里は、自著で次のように書いています。
なぜ、シンナーがいけないのかわからなかった。(中略)大人たちだってアルコールを飲む。それとほとんど変わらない気がした。みんな、現実の苦しみを忘れたいから飲むのだから、私たちも現実から逃避したいがためにシンナーに頼っていた。
(「自著」59ページ)
確かに、アルコールにも現実逃避の飲酒や依存症があるという意味ではシンナーと程度の差かもしれませんが、問題はその差、つまり心身を蝕む毒性と依存性が、シンナーは(麻薬や覚醒剤はさらに)アルコールより桁違いに大きいのです。
悩みを抱えた若者にとってシンナーで簡単に現実逃避できる誘惑は抗しがたい力を持っており、由香里も「私はシンナーが怖いことだとよくわかっていた。けれど、その時にはもう中毒になっていて、それから抜け出せない状態だった。(中略)私の元々弱い体がどんどん蝕まれていくこともわかっていたが、もう、死ぬなら死んでも仕方ないとさえ思った」そうです。
それでも彼女は、いく度となくシンナーをやめようと決意し、中学2年だった1981(昭和56)年9月には虎の門病院に自ら望んで入院するのですが、退院するとまた元の生活に戻るを繰り返します。
やめられたと思っても、何らかのストレスをきっかけにまたシンナーに手を出してしまう——これが、一度それにはまると抜け出すことがきわめて難しいシンナー(薬物)依存の怖さです。
『積木くずし』が出版された翌1983(昭和58)年、アルバイト先の喫茶店で知り合った19歳のトラック運転手「健ちゃん」とつき合い始めた15歳の由香里は、思うように会えないすれ違い生活などのストレスから、しばらくやめていたシンナーに手を出すようになります。
そして同年10月18日、シンナー(有機溶剤の総称)の一種であるトルエンを持って歩いていた彼女は、薬物及び劇物取締法違反容疑で新宿署に補導されました。
家庭裁判所の審判で21日間の少年鑑別所送りになった由香里を新聞は、「『積木くずし』父は悩む」「一人娘 再びつまずく」と全国に向けて報じました。
朝日新聞(1983年11月6日)
母と16歳の由香里(「自著」)
【覚醒剤での逮捕】
トルエン所持で補導されてから2年後の1985(昭和60)年8月12日、17歳の由香里は覚醒剤等取締法違反容疑で逮捕されます。
彼女によると、覚醒剤は女友だちから訳ありだと頼まれて預かったセカンドバッグに入っていたもので、自宅に乗って帰ったタクシーの中に置き忘れたことから発覚したのです。
友だちを警察には売らないツッパリの意地と、もしチクったら報復が怖いという理由から彼女は罪をかぶり、今回は少年鑑別所では終わらず、初等少年院送りになりました。
少年院に入っても「(覚醒剤は)自分がしたことではないというのがあるから、反省とか考えられなかった」彼女は、ただ「早く出たい一心」で「模範生として真面目に生活」し、最短の4ヶ月で出ることができました。
シンナーとは比較にならぬ重い覚醒剤事件だけに、反省はないと強がりながらも、この時ばかりは親を悲しませ迷惑をかけてしまったことへの心の痛みと、「これからまともに成人していけるのだろうかという不安」に由香里はかられたようです。
【芸能界へのデビューと挫折】
18歳になっていた由香里は、「そうそう遊んでばかりはいられない」のでなんとか自活したいと考え、親に頼んで「メイクアップアーチスト」や「ネイル」の学校に入りますが、いずれも長続きしません。
由香里によると、そんな娘に父親が1986(昭和61)年夏ごろ、「芸能界に入って、お父さんと一緒にがんばってみるか」と勧めてくれたそうです。
ただ母親は、1987年に出した『残影』の中で、「お父さん、私ね、女優になりたいの」と由香里の方から「将来の夢」を口にしたと書いています。
どちらにせよ、由香里が「芸能界なら、私の過去も関係なく、名前も顔も知られているからやりやすい。もう私に残された世界はこれしかないように思えた」、「過ちを背負った少女の私でも、この世界なら受け止めてくれるのではないかと思った」と自著に書いているところからすると、自分の将来に不安を感じていた彼女としては、父親のコネもあり覚醒剤の前科がある自分でも芸能界なら生きる道があると、その時は考えたのでしょう。
こうして由香里は演劇の基礎も学ばないまま、父親が、出演していた日本テレビのドラマ「妻たちの課外授業Ⅱ」に自分の娘の役を頼み込んで作ってもらい、「穂積由里」という芸名で〝一夜漬けのデビュー〟(『残影』)を果たします*。
*1986年12月17日放映の第11回「積木くずしを越えていま再出発」に出演?
上の『FOCUS』の記事のように、由香里と父親には「話題の親子」としてマスコミの取材が殺到したそうです。
しかし、俳優としての夫をずっと間近で見てきた母・美千子の目には、娘は次のように映っていました。
現在の由香里は、(中略)「三度の飯をガマンしても演劇の勉強をしよう」という意欲が足りないと思っています。そこまで貪欲にならないと、女優としては大成しないでしょう。
(『残影』225ページ)
それは図星でした。
自著で由香里は、「もう私に残された世界はこれ(芸能界)しかないように思えた」と書きながら、2ページ後では、「私もちょっと日の当たる場所で華やかな生活を送ろうかな……と軽い気持ちで芸能界に飛び込んだ」と書いているのですから……。
それでも由香里は、芸能界に決意して飛び込んだのだと小川は思います。
ところが、芝居経験もない彼女に、そこは思ったほど簡単な世界ではなかったのでしょう。
母親が書いたように、由香里には貪欲に努力を重ねて女優になるという道もあったはずですが、彼女にそれはできませんでした。
何かに失敗した人が、そのことで自尊心が傷つくのを避けようと、「本気でやったわけじゃないし……」と言い訳するのは、よくある人間の心理です。
由香里が「軽い気持ちで芸能界に飛び込んだ」と後で書いたのは、そうした心理からではなかったでしょうか。
ここにも、不本意な現実に向き合うことができず逃避しようとする、シンナー吸引に通じる彼女の弱さが現れているように思われます。
その弱さは、病弱に生まれついた運命が災いして、小学生のころから嫌々ながらでも粘り強く何かに取り組むという訓練を積むことができなかった彼女の不幸だったのではないでしょうか。
その後、親子3人でインタビューを受けるテレビ番組の出演はありましたが、「女優」としての仕事が「穂積由里」に来ることはなかったのです。
芸能界は過去の過ちを問わない「どこか甘い世界だ」と彼女は書いていますが、甘かったのは由香里自身だったでしょう。
早々に女優熱の冷めた彼女ですが、1987(昭和62)年8月15日に『穂積由香里写真集』を出します(加工は小川)。
写真集の出版について由香里は、手記の中で次のように述べています。
こうしてヌードになったのは、はっきり言って、両親からの独立宣言なのです。そして『積木くずし』の暗いイメージから、明るい自分に生まれかわる決心をしたまでです。
もう、親のお金をあてにしたりする生き方をやめ、自分で儲けて、自分で生きていく決心をしました。
自分の裸で収入が得られれば裸にもなります。
自分の道を自分で切り開いて生きていくためのアピールなのです。
(『残影』230ページ)
彼女のこの言葉に嘘いつわりはなかったでしょう。
『積木くずし』が出てからのお金と「積木の子」というレッテルの呪縛、さかのぼれば生まれてからの運命に流される生き方から抜け出したいという由香里の気持ちは本当だったと思うのです。
しかし彼女の思いとは裏腹に、この写真集自体、下の『FLASH』の見出しのように、「積木くずし穂積由香里」が脱いだという話題性と不可分でした。
写真集は「まあまあ売れ」、一時は『平凡パンチ』『GORO』などの雑誌のグラビアを彼女のヌード写真が飾りましたが、しょせんは一過性に終わり、由香里はグラビアアイドルになれるでもなく「あっという間に芸能界を断念」しました。
「人生の最大のターニングポイント」となりえたかもしれないこのチャンスを、彼女は自身の甘さと弱さから活かすことができなかったのです。
【両親の別居・離婚】
穂積夫妻の関係が、深刻な金銭トラブルから崩れていったことは先に触れた通りで、1987(昭和62)年3月、母は娘を連れて家を出ます。
美千子としては夫との冷却期間を置くぐらいのつもりだったようですが、タミユ企画の監査役だった男に操られて自分を裏切ったと思い込んだ隆信の妻への不信感は抜きがたく、ついに離婚となりました。
ただ、かつて父親を憎んだこともあった由香里ですが、自分を親身に案じてくれる隆信の気持ちを理解してからの父娘の仲は良かったようです。
母と家を出た由香里は、両親の離婚後に一時期父と一緒に暮らします。
しかし、覚醒剤のことなど過去の非行を蒸し返しては小言をいう父親とケンカが絶えなかったため、母親の元に戻りました。
「穂積のイメージには、由香里が〝お嬢様〟でいることが望みなんです」「「品のいい娘」が好きなんです」と美千子が『残影』(227ページ)に書いていますが、娘へのそうした期待を父親は諦めることができなかったのでしょうか。
母の元に戻った理由には、元々健康不安のある母が胃がんの手術(1986年5月)をしたばかりだったので、ひとりにさせられないという娘の思いもありました。
美千子と一緒に暮らした由香里は、母親が赤坂に出した「積木の家」というナイトクラブをホステスとして手伝いました。
ホステス姿の由香里(「自著」)
【アメリカ留学と結婚・離婚】
1987年12月21日、20歳になったばかりの由香里は、英語を学びたいと2年間の予定でアメリカに渡り、知人のいたロサンジェルスの学校に入ります。
英語を学ぼうとしたのは、留学経験のある遊び友だちの女性が、バーで外国人と楽しそうにおしゃべりしているのを羨ましく思ったからです。
彼女自身「単純な動機」と書いていますが、この留学にはかつてのような両親からの独立や自分の生きる道の模索といった意味も気負いもありませんでした。
誰も「積木くずし」など知らない環境での生活は、由香里にとって「本当に生きている実感と、人生の楽しさを満喫した、素晴らしい時だった」と書いています。
ビーチで友人と遊ぶ由香里・左(「自著」)
【結婚と離婚、そして覚醒剤】
酷な言い方かもしれませんが、穂積由香里の人生を振り返った時、分水嶺となったのは芸能界で生きようとチャレンジした19歳の時で、それを不本意な方向に越えてしまってからの彼女は、落日を追うように残された命を生きたとしか思えません。
アメリカ留学は彼女の気持ち的には「黄金期」だったとしても、その輝きは沈みつつある夕陽がひときわ大きく見えながら放つ光にすぎなかったのではないでしょうか。
ロスで由香里は、デザインの勉強に来ている日本人留学生と恋に落ち同棲します。
彼は大きなパン製造会社の「おぼっちゃま」で文字通りの遊学だったのでしょう、体調を悪くして予定の2年に満たず1989(平成元)年1月に帰国した由香里に学校をやめてついてきて、美千子の家に3人で暮らします。
その後2人は婚姻届を出しますが、実家からの仕送りがなくなり家でゴロゴロするだけの夫への愛はすぐに冷め、わずかひと月で離婚しました。
その後、母親が勤めていた不動産会社で働き始めた由香里は、友人に紹介されて同業者の男性と知り合い好きになります。
ところがこの男は、暴力団関係の人物で、しかも覚醒剤の常用者でした。
彼の家に行くうちに由香里は誘われて覚醒剤を打ち、その快感から常用者になってしまうのです。
覚醒剤でやつれていく娘を心配した母親が思いあまって赤坂署に通報したことから、由香里は1990(平成2)年5月に身柄を拘束されます。
体調を考慮して入院措置となった彼女は、退院後の7月2日に覚醒剤取締法違反(所持、使用)容疑で逮捕されました。
なお、入院中の一時帰宅の際に家を抜け出した由香里は睡眠薬で自殺未遂を図っています。
毎日新聞(1990年7月10日)
彼女を覚醒剤に誘った男は、大崎署に逮捕された後の取り調べで由香里に覚醒剤を売ったと虚偽の供述をしたことから、彼女は覚醒剤売買容疑でもあらためて逮捕・取り調べを受けます。
売買については身に覚えのない由香里が否認を貫いたため証拠不十分で不起訴になり、所持・使用容疑についてのみ1990(平成2)年10月から東京地裁で裁判が始まりました。
そして11月7日の判決公判で由香里は懲役1年8月、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受けます。
【母の自死と由香里の死】
2001(平成13)年8月、娘への腎臓提供で人生にもう思い残すことがないと思ったのか、実母の美千子がひとりで暮らしていた一間だけのアパートで、ほとんど無一文の状態で首(頸動脈)を切って自死しました。
読売新聞(2003年9月1日夕刊)
遺影とされる写真
*『積木くずし』を3冊入れたという記述が多いですがそれは不自然で、由香里の生前に隆信が出した『積木くずし』『積木 その後の娘と私たち』『積木くずし 崩壊 そして……』の3冊を入れたと小川は思います
由香里の墓前での隆信
(2004年)
穂積由香里の35年という短い生涯を追いかけながら、その都度小川が思ったことなども書きましたし、アメブロの字数も限度一杯になりましたので、ここでは次のことだけを述べて終わります。
それは、隆信が2012(平成24)年3月24日に出した最後の著書『積木くずし 最終章』で、由香里が自分の娘ではなかったと公表したことです。
由香里の死後に遺品を整理した隆信は、娘に託した前妻・美千子の手記ノートを見つけます。
読後に焼却するよう娘に頼んだそのノートの中で彼女は、由香里が実は「会計士の沼田」の子だと告白しているのですが、にわかには信じられない思いが小川にはあります。
このことを含めて、今回ほとんど立ち入ることのできなかった父・隆信と母・美千子の人となり、そして出会いからの2人の関係について、由香里の生涯を考える上でも重要ですので、後日ブログであらためて取り上げたいと思います。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
次回もどうぞよろしくお願いいたします😺
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