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これまで、ヤマトタケルの伝承から、古代史を見てまいりました。

読んでいただいたみなさんには、バラバラになって分かりにくい面も多いと思うのですが、
いちおうヤマトタケルの造型に到る、もとの古伝承や、歴史的な背景を検証し終えたという事になります。

その中で、出雲タケルの伝承については、建部伝承の吸収として終わっていたのを、もう一度出雲の征討伝承として検証しなおしたのが、
一連の「出雲の国の物語」であったわけです。

で、ヤマトタケルもろもろのことのなかで、残ったのが「日子坐王」系譜になるのです。

じつは「日子坐王」系譜については前に少し言及しています。
ヤマトタケル 小碓命考 その7 三上山(近江富士)

日子坐王系譜

その時は、ヤマトタケルの付属のような話として、さらっと終わったのですが・・・

出雲の国の服属について、検証し終えた今、この系譜のもつ意味の大きさに立ち止まらずを得ないと考えるようになったのです。


それは、もちろん、ヤマトタケルの原型と思われ、
湖東から美濃地方に広がりを持つ「大碓・小碓伝承」・・・
その主人公の大碓命の配偶者である「兄比売・弟比売」の父神大根王や、
小碓命の配偶者であろうフタジヒメの実家、安国造家の始祖が語られているだけでなく、


あの出雲のキヒサツミが出迎えたホムツワケ王、彼に随行していた曙立王、菟上王の兄弟、さらにホムツワケ王の生母サホビメと兄のサホヒコ、
さらにはサホビメが死の間際に、夫垂仁天皇の後添いにと推挙した丹波の4姉妹
(そのうちの一人はヤマトタケルの父景行天皇の生母)

さらには、あの新羅の王子、天の日矛の系統と一緒になって、そこから応神天皇の母である神功皇后に到る系譜が記されています。


まあ、弥生時代は大陸からの北方系民族の流入が契機だったと考えられるのですが、
別にそういうふうな議論を重ねるまでもなく、「古事記」には天皇家の系譜に天の日矛の血が流れていると明記しているわけで・・・

もちろんそのあとには、百済系の高野新笠の産んだ桓武天皇が、あの平安京を建設するのですから、
天皇家でもそうなのですから、一般にはもう普通に半島系の人々との混血があったと考えて差し支えないと思います。

古代史では、それは当たり前の事実で、ことさら天皇家は半島から来たとか、大見出しに書くことでもないし

逆に、渡来文化について論じている方を、売国奴のように批判する人もいますが、それもおかしな風潮だと思うわけです。


さて、話を戻しますと
この系譜の分布はかなり広範囲にわたるわけです。

それを少し整理しようと思います。

と思ったら、Wikipediaにまとめてありました!ありがたいです(´;ω;`)ウッ…

でもあんまり多いので、Wikipediaの文にこちらで番号を振らせていただきます。あと妃(お母さん)、王子(子供)、王孫が混在しているので、わかるように段落をつけておきます^^;

王の子女に関して次のように記載する(表記は『古事記』を第一とし、括弧内に『日本書紀』ほかを記載)。

1.妃:山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ、苅幡戸辨)
  2.大俣王(おおまたのみこ)
    3.孫:曙立王 - 伊勢之品遅部君祖、伊勢之佐那造の祖。
    4.孫:菟上王 - 比売陀君の祖。
  5.小俣王(おまたのみこ) - 当麻勾君の祖。
  6.志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ) - 佐佐君の祖。

7.妃:沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ) - 春日建国勝戸売の女。
  8.沙本毘古王(さほびこのみこ、狭穂彦王) - 日下部連祖、甲斐国造の祖。
  9.袁邪本王(おざほのみこ) - 葛野之別祖、近淡海蚊野之別の祖。
  10.沙本毘売命(さほびめのみこと、狭穂姫命/佐波遅比売) - 垂仁天皇の前皇后。
  11.室毘古王(むろびこのみこ) - 若狹之耳別の祖。

12.妃:息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと) - 天之御影神の女。
  13.丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ、丹波道主命)
    14.孫:比婆須比売命(日葉酢媛命) - 垂仁天皇の後皇后、景行天皇の母。
    15.孫:真砥野比売命(真砥野媛) - 垂仁天皇妃。
    16.孫:弟比売命 - 垂仁天皇妃。
    17.孫:朝廷別王 - 三川之穂別の祖。
  18.水之穂真若王(みずのほまわかのみこ) - 近淡海之安直の祖。
  19.神大根王(かむのおおねのみこ、八瓜入日子王) - 三野国之本巣国造の祖、長幡部連の祖。
  20.水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)
  21.御井津比売(みいつひめ)

22.妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと) - 彦坐王の母の意祁都比売命の妹。
  23.山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
    24.:迦邇米雷王
      (25.息長宿禰王・・・wiki不記載)    
        - 子孫に 26.息長帯比売命(神功皇后)、
             27. 息長日子(吉備品遅君祖、針間阿宗君祖)、
             28. 大多牟坂王(多遅摩国造祖)ら。
  29.比古意須王(ひこおすのみこ)
  30.伊理泥王(いりねのみこ)

本当は、息長宿禰王の妃が二人、子供がさらに1人、Wikipediaでは不記載なので、
総勢33人、それに垂仁天皇、ホムツワケ王、景行天皇、大碓・小碓命、兄比売・弟比売、フタジヒメとその父オオタムワケなどがぶら下がっているので、

それはもう、登場人物だけで40人を超えます(・。・)

そこでその子孫の分布をみることにしておきます。

茨城・・・長幡部連(常陸)  
山梨・・・甲斐国造(甲斐)                            
愛知・・・三川之穂別(三河)    
三重・・・伊勢之品遅部君(伊勢)
三重・・・伊勢之佐那造 (伊勢)      
岐阜・・・三野国之本巣国造(美濃)
福井・・・若狹之耳別(若狭)
滋賀・・・近淡海蚊野之別(近江)
滋賀・・・近淡海之安直(近江)
滋賀???佐佐君(未詳、近江佐々木君説あり)
京都・・・葛野之別(山城)
奈良・・・当麻勾君(大和)
奈良???比売陀君(大和or河内?)
大阪・・・日下部連(河内)
兵庫・・・針間阿宗君(播磨)
兵庫・・・多遅摩国造(但馬)
岡山・・・吉備品遅君(吉備)

そして、この系譜が紡ぐ物語はというと、大和、丹波、山城、近江、美濃そして出雲です。

そもそも銅鐸というのは「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」があったという事はお話しました。
聞く銅鐸の分布は出雲から近畿
見る銅鐸は近畿から東海地方に分布します。

日子坐王の系譜に関わる物語は聞く銅鐸、
子孫の広がりは見る銅鐸の分布と一致しているように思います。

そしてその両方が集積されたのが、滋賀県野洲市なのですが

妃の12.息長水依比売の父、天御影神こそは近江の三上山の祭神、
その子の18.水之穂真若王は安直の祖先なのです。

そういえばこの系譜の大和の氏族は、葛城地方の当麻だけ・・・
ヤマトヒメとその前の斎宮トヨスキイリヒメが遷宮を繰り返したのは丹波地方と
伊勢に到る近畿東部の近江・伊賀・伊勢でした。

そこには鏡の祭祀を受け入れる以前、銅鐸を信奉した人々がいたと思われます。

大和朝廷初期の三輪王朝において、反乱伝承を持つサホヒコやサホヒメは、前代の王者であったでしょう。その系譜も語っているこの日子坐王系譜は

なにか大和朝廷以前の、古い記憶をとどめていると・・・そんな気がしてなりません。