ちょっとコワイWikipedia | のろ猫プーデルのひゃっぺん飯  おかわりっ!!

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少し前の話になるが、ある時母が語気も荒くこう言った。

「今日、来た取材記者がこんなもの持って来たんだよ。私の経歴だっていうんだけどデッポデタラメ!一体、どこからこんなもの持って来たんだって怒ったんだけどね」

差し出された紙を見てすぐにwikipediaとわかった。

これはウィキペディアだよ、と母に説明するのも億劫だ。なにせ母はスマホとパソコンとツイッターとブログとインターネットの区別が全くつかない。まず、インターネットの説明から始めてウィキペディアまでどうたどり着こうか、その道中はきっといろんな質問が降ってくるだろうし、迷子になることもあるだろう。同じところをグルグル回ったかと思えば、元来た道に逆戻りすることもあるはずで、その道筋を想像しただけで力が萎える。

そうして声を枯らして説明を終えるや母は言うに違いない。

「なんでこんなものを作るんだ!」

これはもうゼッタイに言う。母は自分の脳みそで処理できないこととぶつかると、それを作り出したこと自体に怒り出すのだ。

とりあえず簡単に説明した。

「要するに広辞苑みたいなものなんだよ。多くの人が自分の得意分野について書き込んでページを作り上げて行くの。必要な情報をこのウィキペディアから引き出せるのは助かるんだけど、中には間違いもあるからね」

すると案の定「なんで間違うようなもんを作るんだ!」と毒づいた。

「とにかくおばあちゃんのページもあるんだけど、それが娘の私の目から見てもおかしくてさ。おばあちゃんがしっかりしている内に間違いは正していかないと、間違った情報がそのまままかり通ってしまうのは問題があるじゃない? だから一緒に見ておかしなところは直してほしいのよ。実は以前、私が自分の知っている範囲でおばあちゃんのウィキを直したんだけど、瞬く間に間違った形の修正が加えられてしまったのよ」

「だれがそんな修正をするんだ! 」

「多分おばあちゃんのファンだと思う。善意であって悪意はないんだよ。おばあちゃんの本をたくさん読んでいて、沢山のことを覚えている人だね。ただエッセーでも対談でも常に事実そのものを書いているわけじゃないじゃない」

「そりゃそうだよ。その場の勢いや文脈の流れによって違ってくるよ。役所に提出する書類じゃないんだからね」

「けれど多分その人はそれが真実と書いてしまっているんだよ」

「あんたが直した時に『もうこれ以上書き直さないでください』って書いとけばいいじゃないの」

「それはできないんだよ。後から知ったんだけど本人や家族はウィキに書いてはいけないんだって」

「なんで」

「知らんよ。宣伝や嘘が並ぶ可能性があるからじゃないか? とにかくせめて私のブログに正しい情報を記しておこうと思って。このままほっとくとおばあちゃんの間違った経歴が後世まで伝えられてしまうからね」

「まったく誰がこんなことを考え出すんだ!」

 ということで母と頭を突き合わせ、ウィキペディアの経歴を直した。このブログを読まれている方は母のファンが多いと思う。せめてその方々だけは正しい情報を知っておいていただきたいと思った。

もう母も97、今のうちに直しておかないとチャンスは残り少ない。

 下記がウィキの経歴だが、おかしなところは赤で記しの下に母の言葉を添えておいた。

 

 

  • 1923年 - 11月5日(戸籍上は11月25日)佐藤洽六(紅緑)(50歳)・シナ(30歳)の次女として、大阪市住吉区帝塚山に出生。母・シナは元女優(芸名三笠万里子)。父は先妻はるを棄ててシナ(25歳)と再婚[2]
  • 1925年 - 兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。自ら「私の故郷」と呼んでいる[3]
  • 1931年 - 小学校時代、大衆小説の大家である父へ送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふける。算術は苦手であった。
  • 1936年 - 4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。自己嫌悪にも陥った[4]
  • 母「別に自己嫌悪になんか陥ってないよ。なんで陥るんだ?」
  • 1941年 - 3月、女学校卒業。兄サトウ・ハチローの家に寄寓する。雙葉学園英語科に入学するが3か月で中退。帰郷し7月肋膜炎で臥床。治癒した頃に戦争が勃発。
  • 母「ハチローのところになんか行ってないよ! 雙葉学園にも入学していない。英語の講習会が開かれたのでちょっと行ってみようかって行っただけ。ブラブラしていたからね。夏期講習とか春期講習とかそんなもんを受けていただけ。肋膜炎なんて書いたかねぇ。微熱が続いただけだよ」
  • 1942年 - 防火演習や防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず無為に過ごす。
  • 1943年 - 12月、最初の夫となる病院長の長男、森川弘と見合い結婚し、岐阜県恵那市(旧大井町)で暮らす。「戦争だから、しようがないから結婚していた」という[5]。 森川は陸軍航空本部勤務のため、飛行場設営隊の主計将校として赴任、同地で約5カ月の新婚生活をおくる。[6]
  • 母「赴任していたのは長野県伊那市です」
  • 1944年 - 11月、清水市(現静岡市清水区)の疎開中の実家で長男出産。
  • 母「興津」
  • 1945年 - 夫の実家である大井町にて敗戦を迎える。「戦争が敗けて、これで自分もこの結婚を解消して、自分の好きな道に進めるんじゃないかということを考えた」という[5]。人手の多い病院で、穏やかな日々を過ごす。この年、次兄が被爆死。三兄がフィリッピンで戦死。[7]
  • 母「これは正しくない。戦争が終わったことで目の前が開けたような気持になったんだよ。『自分の好きな道に進める』も何も、このころはまだ好きな道なんかなかったんだから」
  • 1946年 - 復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村、現柏市で帰農生活に入る。軍隊在職中の腸疾患治療のための夫のモルヒネ中毒(依存症)に悩む。
  • 1947年 - 長女、を出産。
  • 母「夏ってだれだ?」
  • 私「おばあちゃんの産んだ女の子だよ」
  • 母「夏なんて知らんよ。素子かいな。なんで夏なんて名前になるんだよ」
  • 私「おばあちゃんがどこかに素子姉さんの名前を夏に代えて書いたんじゃないの?」
  • 母「書いてないよ! 私の好みの名前じゃないよ」 
  • 1949年 - 父、紅緑死去。享年76。 夫のモルヒネ依存症は戦後も治癒せず。世田谷区上馬にて母と共に暮らすこととなる。母に勧められて田中村の生活を書いた小説を父に見せたところ、「面白い」と言われて文学を志す。父の紹介で加藤武雄に原稿を見てもらう。子供2人は婚家先の両親が引き取る。[8]
  • 母「モルヒネ中毒が治らないから別居したのよ。それが抜けてる。で、別居中に死亡したの。だから死別なんだよ、本当は。離婚二回じゃなくて本当は一回。もう一回は死別。それと『加藤武雄に原稿をみてもらう』というより、加藤先生に師事した、そう書いて欲しいね。
  • 1950年 - 同人雑誌「文藝首都」に参加、北杜夫田畑麦彦なだいなだらがいた。同誌に処女作『青い果実』が発表され、同作で文芸首都賞受賞。
  • 1951年 - 別居中の夫、死去。同人誌に「西風の街」6月号に『宇津木氏の手記』を発表。同人誌仲間と渋谷、新宿を歩きまわる。仲間には後の結婚相手もいた。[9]
  • 1952年 - 「冷焔」を発表。その後、しばらく文学への自信を喪失。
  • 1953年 - 母と衝突し、信州伊那谷の鉱泉に1か月滞在。田畑が訪れ、関西地方をともに旅をしたことが、結婚の契機となる。6月、実家を出、自立。聖路加国際病院で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始める。
  • 1954年 - 『埋もれた土地』を「三田文学」に発表。
  • 1955年 - 12月、聖路加病院を退職。
  • 1956年 - 2度目の夫、田畑と結婚。披露宴が4月1日であったため、嘘だと思って来なかった客もいたともいう。田畑と暮らしていた渋谷区初台の家売却、母、世田谷区上馬の家売却。世田谷区太子堂にて、母と同居。新居は文学仲間のサロンとなった。[10]
  • 1957年 - 田畑、川上宗薫らと同人誌「半世界」を創刊。
  • 1959年 - 「三田文学」に作品掲載
  • 1960年 - 3月、田畑との間の長女響子出産。母との共同出資で自宅を新築。
  • 1962年 - 最初の著作『愛子』を刊行。 田畑、第1回文藝賞を受賞。 田畑の父が生前に東京急行電鉄の社長を務めていたことがきっかけで、産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立、経営に参加。
  • 1963年度 - 上半期『ソクラテスの妻』で芥川賞候補。連続して下半期『二人の女』で芥川賞候補。
  • 1966年 - この頃からエッセイの注文が増える。
  • 1967年 - 12月、田畑の会社、倒産。夫の借金を背負う。倒産額は2億で、うち3500万円位、引き受ける[11]。債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続く。借金返済のために多数のジュニア小説を執筆。
  • 1968年 - 1月、「借金から身を守るための偽装離婚」という田畑の説得で離婚。
  • 1969年度上半期 - その体験を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞。波乱万丈の人生は、その後の自身の執筆活動にも活かされた。
  • 1972年 - 母、死去。享年78。
  • 1979年 - 4月、『幸福の絵』(新潮社)を刊行、女流文学賞を受賞。
  • 1980年 - 一人娘の響子とともに、タイインドエジプトギリシアイタリアイギリスへ23日間外国旅行。7月『奮闘旅行』、11月『娘と私のアホ旅行』を刊行。メス犬のチビを飼う。
  • 母「なんだ奮闘旅行? こんなもの書いてない」
  • 私「あの、本当にどうでもいいんだけどチビ飼い始めたの、この前の年だったような気がする……」
  • 1984年 - 迷いイヌのタロを飼う。
  • 1988年 - 秋に響子がジュエリーデザイナー杉山弘幸と結婚。一人暮らしとなる。
  • 1989年 - 7月から『血脈』(第1部)が別冊文芸春秋に連載開始。
  • 1991年 - 孫、桃子が生まれる。
  • 1994年 - 娘と一緒に住むために2世帯住宅を新築。
  • 2014年 - 91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行[12]

とりあえず経歴は直した。これで正しい情報が残せる、と私は肩の荷が下りた気分だ。

とはいえこのように訂正できるのはまだいい方かもしれない。遠い昔に亡くなった人物のデータなど直しようもないから、デッポデタラメの情報がまことしやかに語り継がれている可能性だってある。そう考えるとウィキペディアはちょっとコワイ。

すると私の意見を聞いていた母が言った。

「人生上の些末なデータなんかどうでもいいんだよ。大事なのはどう生きたか、それが問題なんだ」

確かに! このセリフは私の脳内ウィキペディアの母の項に加えておこうか。