桑名は海辺にありて、荒海を帯び、川をひき、松平越中守の城あり。
1855(安政二)年4月25日、清河八郎一行は、佐屋から舟に乗って、東海道の桑名宿に到着しました。
なお、引用は引き続き、『西遊草』(岩波文庫)です。
上図は、『伊勢参宮名所図会』(1797年)より挿画「桑名渡口」*。
左上には、帆を立てた舟が数隻、描かれています。
桑名は、東海道宮宿との七里の渡し、脇往還佐屋宿からの渡し舟も往来し、東海道でも指折りの賑わいでした。
左中に見えている二隻は、帆を下ろしていますから、出航直後か、着岸寸前でしょうか。
左下の舟は帆を倒していますから、客か積荷を揚げ下ししているところかもしれません。
続けて、左下に見える鳥居は、「一ノ鳥居」です。
『久波奈名所図会』によれば、「諸国より伊勢参宮の人々に神の御国の入口なるを知らしむべき為に」、天明年中に創建されたものだそうです。
なお、右中に描かれているのは、「松平越中守の城」。当時の藩主は松平定猷(松平猷)です。
櫓など数十、川にのぞみ、いと景色よろしき所なれども、昨年の大地震に壊られ、いまだに普請もできあがらず、殺風景なり。
1854年12月の「安政東海地震」で、伊勢の国は大きな被害を受けました。
清河八郎らは、この後も、各宿場の被災状況を目にすることになるはずです。
市中は東海道にてゆびおりのよき城下にして、にぎわしきなり。
桑名城は維新後取り壊しとなり、「七里の渡し」も伊勢湾台風後に整備された堤防により、当時の面影を偲ぶことはできません。
*国立国会図書館近代デジタルライブラリー