都怒我阿羅斯等について。
加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)の伝承は、どうしてわざわざ海を渡って日本の天皇に謁見しているのか。
しかも5年間使えたというし、敦賀に上陸したので都怒我阿羅斯等の名を取って【敦賀】というらしい。
その後、祖国(朝鮮半島)に帰って、垂仁天皇の名を取って任那国を建国した。
彼は最初、山口県のどこかに上陸したが、そこにいた伊津々比古(イツツヒコ)は聖皇ではないと知り、出雲を経由して敦賀の地に降り立った。
彼のまたの名を于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)と言い、牛の姫(木)氏のことであり、呉の末裔であることを意味します。
さて、牛の姫氏である都怒我阿羅斯等は、一族を率いて日本へ渡って来ていますが、最初の上陸地である山口県の穴門というところには、伊津々比古という名の呉の韓人が治める国があり、出雲から敦賀へと移動します。
敦賀からは近江を得て、畿内に入ることが出来るので、都怒我阿羅斯等は日本の垂仁天皇に謁見して、5年間滞在したと思われます。
一方、同じように天之日矛(アメノヒホコ=秦氏)という一行が、同じように新羅から日本に渡ってきますが、天之日矛は新羅(シルラ)の王子=呉の末裔で、都怒我阿羅斯等と同族という話。
彼等(秦氏)の祀る神は竈(カマド)神であり、日本でいうところの荒神で、荒とはすさぶという意味があり、文字通りの須佐乃男(武神)の事をさします。
つまり天之日矛とは太陽神の意味で、矛や槍というのは太陽光線のさすような光の意を表し、太陽の御子という意味になります。
また、貧しかった蘇民(韓人)に将来にわたり接待を受けたお礼として、茅の輪の目印を付けたその子孫を疫病から守る須佐乃男の言い伝えがあるため、疫神として須佐乃男が牛頭天王として祀られた。
そして、須佐之男が武神とされるのは、楚の西北端、武当山が道教の聖地であることに関係している。
で、呉系楚人(秦氏=熊襲)の神は須佐乃男で、人身牛首の形をし、日と月と竈の神であり太陽神となります。
武神の祀られている社は、疫隈となっていて熊と結びついているので、熊野はスサノオの意という事になる。
また、須佐之男を迎えることを拒絶し、滅ぼされた富める弟の名は巨旦将来とされていて、巨(きょ、コ)は大人の呉に結び付きますし、旦は朝を意味し、これも呉の要素です。
呉人が呉系楚人(須佐之男=武塔神))に滅ぼされた形になっています。
それから、呉系楚人、秦氏の首長の姓は「姫」なので、「キ」という音の文字、機、旗、鰭、肌はすべて「はた、はだ」と訓まれています。
また、期、碁は「ご」と訓み、其、磯は「そ、いそ」と訓まれます。
これだけあると偶然とは思えないので、茅の読みが都怒我阿羅斯等の出身地、伽耶(カヤ)と重なるのも偶然ではないと言える。
さて、応神紀には新羅の国に阿具沼という沼があり、その沼のほとりで一人の美しい女性が昼寝をしていた…とある。
その女性の陰部に虹色の太陽光が当たり、娘は身籠り赤い玉を産む。
それを見ていた男が娘から赤い玉を貰い受け、持ち帰ったところ玉から乙女が生まれた。
その乙女がアカルヒメと言い、天之日矛は玉から生まれた娘を娶ることにした。
ところがある日のこと、奢り高ぶった天之日矛がアカルヒメを罵倒し、自分は妻にふさわしくないと言い残して実家へ帰ってしまう。
アカルヒメが小舟に乗ってついた場所が難波の宮で、今の東成区にある比売碁曾神社に鎮座する。
あとを追いかけて日矛は難波に降り立つが、難波の神に阻まれて丹波に折り返し、そこに留まったという。
これが秦氏の渡来伝説というわけだが、都怒我阿羅斯等=天之日矛であり、スサノオと重なる。
また、移住は二度に渡って行われたようで、特に弓月の民が帰化したと言う二度目に大規模な移住のあったことが伺える。
そして百二十県という広がりは、漢氏の十七県に比べて桁違いに大きく、それ以前の中国から朝鮮半島への移動が、極めて大きな政治権力によってなされたものであることもまた示されている。
秦氏(呉系楚人、須佐乃男、月読、神産巣日、スクナビコナ、天之日矛、ツヌガアラシト、大山咋=虁、弁辰人)の首長、弓月君はおそらく辰韓(後の新羅、越系)に圧迫されたため、民を率いて百済、加羅に逃れ、そこから玄界灘を渡って山口県にたどり着いた。
弓月君は新羅とは対立的に書かれていて、同一部族なのにツヌガアラシトが大加羅の王子、天之日矛が新羅の王子、弓月君が百済から渡来とするのも、そういう流浪の跡を示す。
なんだかこれって、政治的要素が濃厚で、どう見ても移住というより侵略行為なのですが...orz
しかも女性を強姦して孕ませ、子を産ませたうえ、その娘を娶る…どう見ても近親相姦ではないですか。
おまけに虹とは蛇を表す隠語だそうで、これも太陽神と蛇神を示している訳で、つまりは天之日矛のことでしょう。
こういう習慣がある国は、今でも日本ではなく韓国です。
その上、日本に毎度毎度大量に不法侵入してきて、不法に占拠するのもお隣の国ですよ。
それで「日本人とは渡来人のことだ」と秦一族の末裔に豪語されても…『侵略(不法占拠)しておいて言うな』と思いますね。
ああ、知れば知るほど気が滅入る話だ...orz
因みに、秦一族の末裔が語る文字とは漢字のことで、彼等は漢字が最も古い文字だと信じている。
彼等はその名の通り秦の始皇帝に仕えた者の子孫で、中国と韓国の国境辺りに住んでいた民(魏)と思われる。
語源が中国系なので、漢字を使っていたらしく、日本へ渡ってからも使われていたよう。
彼等は九州から瀬戸内を通り、南海から畿内に至る広範囲に分布していた…てか、占領されたんですね...orz
国譲り=武力による制圧ってことで、従わぬ者は攻め滅ぼしたわけだ。
先に来て根を下ろした同族もろとも武力で制圧ですか…何とも残酷な話です。
それが今から約1500年~2000年前のお話。
これより前の時代には、神社もお寺もありませんしね。
この後の1200年~2000年前の時代に、最も古いとされる寺社が創建されるんですから、当たり前かな。
そして、お伊勢さんが今の場所に鎮座するまであちこちを回り、1200年ほど前に建てられる。
たぶん出雲が一番古くて1500年~2000年程前で、その後で1200年~1500年くらい前に熊野本宮が建ち、最後に伊勢が今の場所に落ち着いたってことかな。
確かそんな話を以前、熊野本宮の宮司さんが言っていた気がするが…ほぼアタリだね。
一番新しいのがお伊勢さんで、一番古いのが出雲大社だと聞いた。
上記の流れを踏まえて考えれば、そうなるなと思う。
紀国は呉の末裔ですか…そう言われると、すごく納得できる気がする。
土地柄本当に貧しいところで、同和が多いし、弘法大師の伝承も何故か多い。
それに熊野に参詣する人が多かった理由もわかる気がする。
平城京を中心に五芒星を描くと、熊野本宮が星の頂点で五行の木になる。
ココが彼等にとっての特別な場所ってことだ。
だから徐福も立ち寄っているし、新宮には墓まであるんだね。
そう考えると納得いくよ。
おまけに一之宮の日前・圀懸神宮は、御神体の鏡の名称が日像鏡(日前神社)と日矛鏡(国懸神社)といい、準皇祖神扱いなのだそう。
因みに、天岩戸隠れの際に鋳造された八咫鏡に先立って造られたのが「日像鏡と日矛鏡」と言われていて、紀国の国譲りの時に元々あった伊太祁曽神社を山東に移して建てられたのが垂仁天皇の時代と言われる。
垂仁天皇の在位はおよそ今から2000年前のBC29年~AD70年までの99年間とされている。
そうだね、出雲神話でも国譲りの物語が登場するので、およそ2000年ほど昔にあった話と推測できるし、紀国の名草邑の国譲りの話も同時期になると思われる。
そうすると、高麗=秦一族ってことになるわけで、神社の狛犬は秦一族をさしているわけだ。
…ということは、大まかに言えば、今から2000年~2500年くらい前に最初の渡来人(呉の末裔)が来て、その後に新羅から天之日矛が一族を率いてやってきたのが2000年ほど前の話になるのか。
そして卑弥呼が登場して、内乱が起きて…1500年くらい前に中国の魏に滅ぼされる。
つまり秦氏というのは、ただ単に渡来人という意味ではなくて、本当の意味での侵略者(支配)達の事なんだとわかる。
技術と文化を友好的に伝えるのに、武力で従わせる必要はない。
まったく…奴らはこの日本をなんだと思っているのか!?
いつの世も奴らに言いように扱われて、生き延びるために従ってきたんだね。
そしてこの国の歴史を知るには、隣国の歴史を知ることになるとは...orz
そう、隣国の歴史を知って、初めてこの国の歴史を知ることが出来る。
正直、情けなくもあるが、それが事実だ。
だけど、神社だけでなく国も村々の名前まで、かの国の名と文化を継承していたとは...orz
鄒牟(ツム)という名は、百済の始祖だそう。
別名を朱豪という。
この名前を韓国ドラマで見た記憶がある。
なので、しばらくドラマを観てから続きを...