「日大節」の歴史について - 東京桜門ライオンズクラブ

 



日大節 (櫻忍)
東に大利根の清流を注ぎ (櫻忍)
西に霊峰富士を仰ぐ (櫻忍
ここ大江戸神田三崎の森に 巍然と聳え立つは我が日本大學である (櫻忍)
青山櫻花のもとに馳せ参じ 明日の日本を背負い立つ
我が日本大學の強者どもが ここに集いて声高らかに 日大節の一節を
いざ歌わんかな舞わんかな いざ狂わんかな (櫻忍)
エッサコリャコリャ この俺は (ア ヨイショ)
まかり出ました この俺は (ア ヨイショ)
日大一の色男 (ア ヨイショ)
エッサコリャコリャ この俺は (ア ヨイショ)
まかり出ました この俺は (ア ヨイショ)
日大一の強き者 (ア ヨイショ)
エッサ見てくれこの体 (ア ヨイショ)
柔道で鍛えしこの体 (ア ヨイショ)
エッサ見てくれこの腕(カイナ) (ア ヨイショ)
空手で鍛えしこの腕 (ア ヨイショ)
エッサコリャコリャ 前から来い
(ア ヨイショ)
後ろから来い (ア ヨイショ)
前から来る奴ぁワンパンチ (ア ヨイショ)
後ろから来る奴ぁ背負い投げ (ア ヨイショ)
エッサコリャコリャ 日大名物数あれど (ア ヨイショ)
数々あれど 数あれど (ア ヨイショ)
数ある中のその中の (ア ヨイショ)
日大節の一節を (ア ヨイショ)
皆が揃ぅたら 日大節だよ 日大節は一拍子 (オリャ)

(ここは神田か 東京の街か 東京の街なら 大学は日本) エッサコリャコリャ
(大学日本の 学生さんは 度胸一つの 男伊達) どうしたどうした
(度胸一つで 神田の街を 歩いて行きます 紋付袴) エッサコリャコリャ
(紋付袴は 日大の育ち(印であったようです) ぼろは俺等の 旗印) どうしたどうした
(ぼろはまとえど 心は錦 どんなものにも恐れはせぬぞ) エッサコリャコリャ
(どんなものにも 恐れはせぬが 可愛いあの娘にゃかなやせぬ) どうしたどうした
(可愛いあの娘も いつでも捨てる 母校のためなら 生命までも)エッサコリャコリャ
(命捨てても その名は残る) どうしたどうした
(大学日本の その名は残る) エッサコリャコリャ
(大学日本の その名は残る)

つ---いでに桜門技術士会のその名は残る
皆が揃うたら三度三度の七拍子 (オリャ

母校卒業して40年となりましたが、日大節は自粛することになって久しい。

 我々が入学時にはぜひ歌うように論され、ことあるごとの打ち上げには日大節を唸ることが恒例でした。

 それが、元々は近畿大学が発祥ということで無断で利用するなどまかりならんということになったのが自粛の理由だとわかりました。しかも著作権があるというので調べてみたら平成16年に登録はされていましたが、ある作曲家の個人名での登録でした。法人格ではないようなので、そもそもどこに問題があるのか考察してみました。

近畿大学自体は、創立は1925年ですが元々日本大学専門学校を大阪に設置したのが始まり1939年に日本大学大阪専門学校に改組し日本大学から独立されたとの記録がありました。従ってそもそもは日本大学が開祖ということであります。近畿大学としては、1949年に新学制に伴い設立され、よって戦後に現在の形になったようです。

日本大学は、創立1889年日本法律学校が始まりで日本大学の名称は1903年でありました。従って歴史的に見ても戦前に大学として存在していたのは日本大学ということになります。近大節は、報国節とされ日大予科節とほぼ同様に歌われていた模様です。日大予科節は当時の学生であった方が日大節の歴史についてで述べており、模倣した背景はないように思われます。それは、当時近畿大学自体が存在してなく名称が日本大学大阪専門学校とあるからです。報国節との名称が無ければ恐らく学校名が名称となるため日大節となったことが考えられます。歴史的な名称としては、戦前から日大節は歌われており近畿大学設立前であったことから完成度は日大節の方が先であったと言えます。

近大節の作詞作曲は近畿大学応援団OG・OB会とサイトでは掲載されていますが、著作権では個人名で登録されており名称表示に相違がありました。通常法人格での著作権登録は、公表から50年で消滅するようなので伝統校でしかも元祖〇〇節の近大節が公表から50年以上経過していることを考慮しても著作権を全面に打ち出すのには無理があります。

著作権者である方も既に故人のようですが、個人の場合は没後50年で著作権が消滅します。

しかし、そもそも元祖である近大節がこの著作権者のものであるというと、日大節、明大節、農大節など伝統校より後に作られたことになり、翻って、近大節があたかも後塵を拝したことを認めることになるので何処が元祖であるかという論理は意味があるのか疑問ではあります。掲載されている文献を元に考察しました。

学校法人として、互いの文化を認め敬意を払い共有するのは教育を司る法人ならばこそであります。なお、著作権侵害は、営利目的ではなくそもそも歌詞がまったく違うので問題ないと法律的に解釈できます。

今や現役学生諸君は日大節の存在すら知らない大学運営になっておりますので忘れ去られる運命になるでしょうか?さらに関連して、日本大学応援部はチア部のみで体育会としても廃部になり40年以上時が経ったようであります。このトピックスは日本大学のネガティブな闇の時代が垣間見れます。時代はSDGs、闇との決別を目指す時期が今ではないかと感じております。それは、数々の悪しき伝統からの訣別、健全なる再興を目指し不易流行と捉えてチア部に応援部を付加し、古くて新しいスタイルを取り入れるNNStyleに取り組むのも良い時期と言うことです。たとえばゴリゴリの日大節をチア部の華麗な舞を取り入れてブラスバンドを活用しリニューアルして復活させるなんて今流ではないかと考えます。

 神宮東都大学リーグ野球部のエール交換はやはり団長がしっかり決めてそれがチアリーダー良いのですが、チア部男子部新設にしてチア部を体育会応援部にして日大節というチア部LBGTQの実践にも繋がります。チアに男子!

 桜門らしい、結婚式や大学イベントでOB会に出演したり余興パッケージにあるのではないか。会長マターとしての発想は、本会の総会懇親会などに応援部小団で出演して頂き、母校を学生、OBが一体となって盛り上げるNN styleをクラウドファンディングを通じて日大ブランディングの質の向上を促しセレンディピティな化学反応が学内に出てくる様なイメージがあります。

日大ブランドに日大節復活あり。

 

日本大学新学長は日大理工出身、日大節で復活!

櫻魂

会長談