植民地支配下の朝鮮と日本のダダイストとを描いた吉川凪『京城のダダ、東京のダダ』(平凡社 2014)に、李鳳九の『明洞』(ソウル三中堂 1967)の一節を引用した部分がある(原文は韓国語:著者訳)。
こんなある日、つまり解放の四年前だったか。日本のダダイスト詩人高橋新吉が満州の大同石仏を見に行く途中にソウルに立ち寄り、呉章煥の案内で明洞に現れた。
すり切れたコートに古びたキャップをかぶり、荷物と言えぱ、列車の時刻表が入つた、肩にかけたバスケット一つだけだった。
明洞の名物であるバーグランのコース料理、カネボウの洋食、川長の鰻丼、江戸川のすき焼き、そして白龍、ノアノア、黄昏、オアシス、羅典区など、個性豊かなグリルとテイールームを見物した高橋は、夜になると鍾路の食道園で妓生と神仙炉に酔い、年若い花嫁のように顔を赤らめた。
独身で一人で暮らしている日本の代表的ダダイスト詩人が明洞の街で豪遊したわけだ。費用は南蛮書店という風変わりな本屋を経営する呉章煥が、日本にいた時に親交があつた高橋のためにおごったのである。
こうして明洞の仲間数人は明洞を出て食道園という料理屋で妓生の長鼓の音を聴きながら久しぶりに素晴らしい夜を過ごした。
1941年、京城を訪れた高橋新吉が、李鳳九や呉章煥たちとどこでどんなものを食べたのかがわかる。高橋新吉は1901年生まれで、40歳。迎えた京城の李鳳九は1916生まれで当時24〜5歳。吳章煥は1918年生まれの22〜3歳であった。京城のダダは若かった。
バーグラン、カネボウ、川長、江戸川、そして食道園。
京城の善隣商業の13回卒の竹崎達夫が作成した1937〜8年の本町復元地図(
尾崎新二『もう僕は京城っ子には戻れない』世界日報社 1995 所載)がある。これでチェックしてみると下のようになる。残念ながら、白龍、ノアノアなどのティールームまでは探せないが。
竹崎達夫作成の1937・38年くらいの本町復元地図
まず、「バーグラン」。これは、韓国語表記とその翻訳の問題かもしれないが、当時の店名は正しくは「ボア・グラン」。
1935年。8月7日の『京城日報』と『朝鮮新聞』(いずれも日本語の日刊紙)に開店の広告が出ている。
京城日報
朝鮮新聞
日本語の新聞だけでなく、朝鮮語の日刊紙『東亜日報』『毎日申報』にも朝鮮語の広告を掲載している。内容は同じだが、デザインが違う。『毎日申報』の広告ではわざわざ「ボアグラン」とルビまでふってある。
東亜日報
毎日申報
この頃、三越百貨店の西隣りで貯蓄銀行の新築工事が行われ、建物はすでに竣工していた。現在も新世界と南大門市場の間に残る第一銀行の旧本店がその建物である。この銀行の建物の裏側にあった「旭ビルヂング」に、8月7日に新たに「ボア・グラン」が開店するという告知広告。初の冷房完備の食堂で、和食と洋食の両方が食べられるというレストランである。
実は、「ボア・グラン」は、この店より前に、朝鮮人街である鍾路2丁目に店を出している。旭ビル店開店の半年前、1935年1月24日の『東亜日報』と『毎日申報』に広告がある。
東亜日報
毎日申報
この「ボア・グラン」の所在地は鍾路2丁目82永保ビルとなっている。「京城精密地図(東京経済大学リポジトリーで公開)」で見るとキリスト教青年会館(YMCA)の斜め向かいあたりになる。「千代田グリルの姉妹館」と銘打っているが、その「千代田グリル」とは、南大門通2丁目の千代田生命ビル(今のロッテショッピングの真向かい)にあった洋食店で、解放後も「首都グリル」として営業された有名洋食レストランであった。
鍾路の「ボア・グラン」では、昼食で1円から1円50銭、夕食で1円50銭から2円、それにサービス料10%。解放後に茶洞に出店する「美荘グリル」のオーナー李重一の回想では、1930年代前半の朝鮮人の給料は通常40〜50円程度で、「外地手当」が出たりする内地人に比べると収入は少なかった。その当時で、ソルロンタンが15銭、カレーライスが30銭、和定食で1円くらい、京城駅の食堂の洋食が2〜3円からということなので、朝鮮人街のど真ん中のボア・グランの食事代も結構な値段だったといえよう。
この鍾路「ボア・グラン」の広告は、日本語の日刊紙『京城日報』『朝鮮新聞』には見当たらない。朝鮮紙読者をターゲットにしていたのであろうか。そうしたこともあって、「ボア・グラン」は朝鮮資本の食堂かとも思ったが、総督府官報の登記では取締役や監査役は全て内地人である。役員の一部が「千代田グリル」と重なっており、提携があったのかも知れない。朝鮮人客を取り込むための事業戦略といったものがあったとも考えられる。いまひとつはっきりしない。同時に、「彼女는 進出했다」「彼女는 進水하다」というのが何を意味するものなのかよくわからない。
1939年に会社名を「ボアグラン」から「萬鼎」に変更し、1941年には株式会社萬鼎の本店は京城から東京に移されている。社名変更や本社移転の理由は不明である。
1941年に、高橋新吉が京城のダダたちとともに食事をしたのは、鍾路ではなく「旭ビルヂング」の「ボア・グラン」。ここでフランス料理のコースを食べた。この時には、店名はそのまま「ボア・グラン」であった。
旭ビルと鐘紡
もう一つ「カネボウ」の店でも洋食を食べている。
竹崎達夫の地図で「カネボウ展示ホール」となっているところ、そして上の「大京城大観」の地図に「鐘紡」と記されているところ、ここの建物にレストランがあった。
1939年11月1日付朝鮮総督府官報に、「飲食店カネボウ」の商号が公示されている。本町1丁目32番地、平賀三男が「商号の使用者」となっている。1935年に京城の本町にあった鐘紡サービスステーション(地図の展示ホールと同じ場所)の店長として赴任したのが平賀三男だった。当時、鐘紡は紡績だけでなく様々な業種で手広く商売を展開しており、そのショールームを本町に作っていた。店長となった平賀三男は、ここに洋食のレストランを併設したのである。
残念ながらメニューまではわからない。
次は「川長の鰻丼」である。
韓国の国立中央図書館で公開されているデジタルデータに『大京城寫眞帖』という資料がある。1937年に中央情報鮮滿支社編で出版されたものでインターネットでのアクセスが可能である。
1923年創業で、東京から呼び寄せた板前の純東京式の天ぷら・鰻料理が自慢だという。ただ、場所は「旭町1-165」で、今日の明洞エリアからははずれている。
南大門小学校の卒業生植木文之助の回想地図では、ボア・グランのところから南山に上がっていったところに「料亭川長」というのが描かれている。
一方、先述の竹崎達夫の地図には、
という記載がある。位置としては今の中華人民共和国大使館の前、レートのいい外貨交換店の並ぶあの角のところに、もう一つの「川長」があったのだと思われる。
多分、「料亭川長」の支店か、のれん分けされた店なのではなかろうか。髙橋新吉たちが鰻丼を食べたのはこの店であろう。
次は、「江戸川」のすき焼き。
「江戸川」も『大京城寫眞帖』に記載されている。
本町1ノ30の「江戸川」は、32番地の「カネボウ」のすぐ近くだった。
この「江戸川」ですき焼きを食べたのだが、実は「江戸川」も鰻で有名な店だと紹介されている。1938年に『東亜日報』に連載されていた金末峯の連載小説『密林 後篇』にも、
「어떠십니가. 저녁밥때도 되어오고하니 우리「우나기」먹으로 에도가와(江戸川)로 갑시다네? 어떠십니까…」
「전「우나기」먹을줄몰라요 감사합니다」
と江戸川が出てくる。まぁ、鰻は「川長」で食べたので、「江戸川」ではすき焼きということになったのかも知れない。この「江戸川」は、解放後の新聞にも登場する。1946年6月19日の『東亜日報』に同志社の同窓会告知が出て、その会場が「本町南宮荘」となっている。そして「전江戸川」と注記されている。
「江戸川」の経営者城台一六は内地に引揚げたのであろうが、朝鮮人の板前などが引き継いで営業したのであろうか。2年後の1948年の『京郷新聞』にも日本音楽校の同窓会が「南宮荘」で開かれるとの告知記事が見られる。
ただ、旧本町、明治町、黄金町一帯は、朝鮮戦争の時、アメリカ軍の空爆によって破壊された。1951年7月に国連軍の取材許可を得て解放後初めて韓国に取材で入った朝日新聞鈴川特派員の当時の街の様子を伝えた記事がある。もちろんアメリカ軍の空襲については触れられていない。
明洞・忠武路あたりの日本式家屋の食堂や店舗の多くはこの時に消失したのではないかと思われる。
さて、内地人のダダ髙橋新吉を内地人の街で洋食や和食でもてなしたあとは、やはり朝鮮の料亭「食道園」で締めることになる。
上述の『大京城寫眞帖』では次のように紹介されている。
食道園は「朝鮮料理店の開祖」とされている。これ以外にも、東明館、朝鮮館、明月館といったところが名店とされていた。
食道園の場所は、南大門通1丁目16 番地、南大門通の漢城銀行と商銀支店の間にあって、飲食だけでなく踊りや芸を鑑賞する場でもあった。国際日本文化研究センター(日文研)の朝鮮写真絵はがきデータベースにその一端を垣間見ることができる。
髙橋は袖の取れてしまったワイシャツを着て、空が見える、穴の開いた靴を引きずっていた。
「大同石仏を見れば、いい詩が浮かぶかも知れん」
と笑みを浮かべてから、
「サヨナラ! サヨナラ!」
を何度も言いながら、満州行きの列車に乗り込んだ。
この時高橋新吉にご馳走した20歳を少し越えたばかりの吳章煥は、明治大学専門部を中退した若き詩人。李庸岳、徐廷柱とともに三大天才と呼ばれた。解放後、38度線を超えて北に行き、朝鮮戦争中の1951年に北朝鮮で死亡したとされる。