今回は、教団でどのようなものを食べていたのかについて、書くことにする。
私が出家した頃は、健康的な食生活を送っていたと思う。基本的には菜食であり、肉や魚を食べることはなかった。主食は胚芽米であり、玄米は気を下げるという理由で採用していなかったような記憶がある。白米より胚芽米は栄養があり、私は胚芽米を美味しいと感じ、好んで食べていた。それに胡麻、のり、ひじき、納豆か豆腐などをご飯と一緒に食べていた。納豆は一日二個まで、胡麻は小さじいっぱいまでなどと制限は一応ついていたが、それ以上とっていたものも多くいたのではないか。
そして、オウム食とよばれていた根菜類を煮込んだものも食していた。これは昆布やシイタケで出汁を取り、それにニンジン、大根、牛蒡、レンコン、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、などを味付けをせずに煮込んだものである。味がついていなくても、私はオウム食を美味しいと思っていた。だから食事に困ることはまるでなかった。しかし、味付けをしていないから、中にはオウム食を食べることに抵抗を感じる人もいたかもしれない。
これらに加えて、豆乳を飲んでいた。私はオウムに入ってから初めて豆乳を飲んだが、最初のうちは豆乳どくとくの風味が口に合わず、あまり美味しいとは思わなかったが、何度も飲んでいるうちに、とても美味しく感じてきた。今でも豆乳はよく飲んでいる。それも調整豆乳ではなく、無調整のものがやはりよろしい。豆乳も一応何杯まで、という規定はあったが、みんなけっこう何杯も飲んでいた。
これらの食事に加えて、ゴマ供養という儀式も行われ、それは祭壇に捧げたお供物を、出家修行者がいただくというものであった。主に果物であったが、野菜もまじっていた。富士山総本部道場では、毎日大量のお供物が祭壇に捧げられ、それらを供養する際には、一人あたり膨大な量になることもあった。あるときなどは、キャベツ一個まるごと一人にまわってきて、それだけではなくほかにも多くの果物を供養するはめになり、みんな苦しみに耐えながら供物を食していたらしい。らしいという表現をしているのは、私はその日は富士山総本部にいなかったのである。
そこで私はそのときは難を免れたが、私も大量のお供物に苦しんだ経験は何度かある。一度はあまりに苦しくて、吐いてしまったこともある。その場で吐いたのではなく、トイレに行って吐いたのだが、もしそれがばれたら大目玉を食らうところであった。しかし、私はあんなに苦しんだら、吐いてしまうのも仕方がないと思っていた。これに関しては、私の考えの方がまともであろう。
また量だけではなく、食するのに苦労するものが出ることもあり、一度はたまねぎの丸かじりをしたことがある。これは噛むごとに口の中がひどく刺激され、本当に涙が出てきてしまった。今思い出しても、口の中が妙な感じがしてくる。教団ではこういった点できちんとした配慮がなされることがほとんどなかった。
とはいえ初期の頃は、なかなかきちんとした食生活を送っていたと思う。それが後には変化してしまう。手元に資料がないからはっきりとわからないが、1991年か1992年頃から食生活が変わっていった。松本死刑囚が、食べるものを自分たちで作り、それを修法してエネルギーをもっと弟子たちに注ぐようにする、というようなことを言って、それから出家修行者の食べるものは変化していった。
エネルギーを注ぐということだけでなく、野菜を切ると殺生になるということで、非殺生の実践をするために、オウム食は廃止されてしまった。これは今から思うと非常にまずい方向に行ってしまったと思う。この世に生きている以上、何らかの犠牲の上に私たちは生きながらえているわけで、殺生をしたくないから生きているものを食べないというよりも、生命を奪う形になってしまうが、感謝をしていただくという姿勢の方が、よりよいのではないかと思う。ともかく生きているものではなく、生命力のんばいものをずっと食していたことで、出家修行者の健康はどんどん損なわれていった。
食べ物はお供物ということになり、お供物を自分たちで作ることにしていった。最初は餅があったがそれはやがてなくなり、手作りのパンと饅頭、ラーメンとそば、それにアストラルメイトといって、カロリーメイトのようなものが、お供物として作られることになった。私はこれらのお供物も好きではあったが、甘い味の物が多く、人によっては食べるのに苦労したであろう。後には大豆蛋白を用いたから揚げやハンバーグなども出るようになったが、アストラルメイトよりさらに甘いお菓子のようなものが出た時期もあり、どう考えても体によくないものを食べるようになっていった。教団がおかしくなっていった原因の一つに、食べるものもあったように思う。