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バンコク在住のじゅーざです。
以下、本題です。
現在日本の一部で上映されている
トンデモ反日映画『ラスト・プリンセス-大韓帝国最後の皇女』(原題『徳恵翁主』)
なんですが
・トンデモ反日映画『徳恵翁主』が『ラスト・プリンセス-大韓帝国最後の皇女-』として日本上映中!
・徳恵翁主が高宗が毒?で殺されたその場にいた
とか
・徳恵翁主がハングルの歌の子供たちに教えたとか(日本語の作詞はしてましたよ)
とか
・徳恵翁主が朝鮮人労働者の前でアジ演説した(原作小説にもない創作)
とか
・李王垠の欧州渡航に合わせて逃げ出してラブロマンス…(箸にも棒にも掛からぬ妄想)
とか
史実をぶっちぎったトンデモ映画
なんですが、史実の徳恵翁主は当然ながら
日本の準皇族である「朝鮮王公族」として
日本語の教育を受けて日本語で童謡の作詞を行い
日本留学後は学業に励みながら、皇族同様の公務をこなしていました。
また結婚する前までは毎年のように朝鮮に帰省してました。
以下、当時の新聞から。
『東京朝日新聞』1929年11月29日より
この写真は1929年11月28日に行われた上野の東京音楽学校創立50周年式典に参加した徳恵姫(右から3番目)で、右端と2番目の李王垠夫妻、そして多くの皇族女性陣とともに公務として出席しています。
他にも多くの公務に「準皇族」の一員として参加していますね。
しかしこれらは多くが周りに人がいたわけで、自由が効かなかった、ということなのですが…しかしこんなことも…
『京城日報』1928年12月29日号より
1928年12月28日に里帰りした徳恵姫。
姫が朝鮮に帰るときはほとんどが李王垠夫妻と一緒でしたが、この時は
学習院の冬休みを利用して1人(もちろんお付きはいますが)朝鮮に里帰り…
映画のようなことをする人物だったらこの機会を利用して逃げていたのでは…
ちなみに確認はできませんでしたが、この帰郷の際には
母親である梁貴人と親子水入らずの時間があった可能性が高いです。(この前の帰郷の時は李垠夫妻と一緒に戻ってきていたのに母親と一緒に過ごしていました)
ちなみに梁貴人は年が明けてから長患いだった乳がんで亡くなりますが、その数か月前に会っていたわけで、
徳恵姫がずっと母親から引き離されていた
というのは大嘘です。
まあ死に目には会えませんでしたが、遠距離にいて勉強しているのですから当然の話ですね。
それにしてもこの時も含めて
徳恵姫がほぼ毎年のように朝鮮に戻っていた
ということはここのブログ以外ではほとんど書かれていませんね。
とはいえ、さすがに上の写真の時は1人(お付きはあり)での帰郷で嬉しかったのか
カメラに向かって満面の笑みを見せています。
彼女の写真は結構見たけど、ここまではっきり笑ってる写真は他にないですな。(この前に朝鮮に戻った時の写真も笑ってますがはにかみ笑いでした)
『京城日報』1926年3月8日号より
そしてこれも
他ではまったくとりあげられていない徳恵姫の御製
「照宮」というのは昭和天皇の第1皇女だった東久邇成子様の幼名です。1925年に彼女が生まれた際にそれを祝って徳恵姫が書いた歌がこれ。
静かに暗の夜ははてて
明けの明星かがやきぬ
東の空はくれないの
色もめでたき日の本の
東西南北一せい(一斉)に
ひらめきなびく日の御旗
他にもいくつか御製の歌が残っていますが、
残念ながら当ブログ以外で紹介しているものはありませんでした。
ちなみにオレが復活させた
徳恵姫御作の童謡
がこちらです。
あまりにひどい創作韓流映画に抗議の意を表する
ために、またしばらく徳恵姫の話について書いていきたいと思います。
こんかい終わり
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