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5ch掲示板『癌闘病ブログ』と名のつく
スレッド、3d、ネットストーカーFなどの
誹謗中傷がエスカレートし
心を病みましたので、
致し方なく
などを書きました。
⚫『学歴』と『学』の違い
学びたくても社会的背景で学べなかった、
進学出来なかった、
※5ch掲示板の悪解釈しかしない方々には誤解を招く
文章ですか?
一言付け加えれば、私はそれなりの大学進学は
しています。
お金の心配をしなくてよければ、
安心して学ぶ環境があれば、
(お金だけでなく、精神面も)
あの時進みたかった道に進めただろうに、
という思いは残して。その逆境でも進む
勇気がなかった。
お金の心配が先ですから、次の就職を
考えて進路を妥協した、その就職は、結果的に、
その時赤本で見て私が進路を妥協する考えに至った
赤本の就職先の先頭に書かれていた先に就職できて
います。
5/12
5/11に追記した内容は、この記事で
書いたことの本質がブレるので、
別記事にしました。
そういう悔しい思い
を理解出来る人は
私の世代ではだいぶ少なくなっていた
(逆に親達が勉強させて、良い学歴を
持たせようと塾などに通わせる時代
だった)
ので、
真に経験しての感情を共有できる人々は
少なく、私は一世代ズレていたのですが、
(このズレも、多感な思春期には
大きく影を落としました。精神的孤独感。
勿論、友人たちとは普通に仲良くしてたし
家が貧乏で受験費用を稼ぐためにバイトを
しているのは知っていた友人たちも
多かったけど…。)
父母の世代には、家計の状況で、
特に兄弟姉妹の上の方では、
同じ事が、まだまだ、よくあるケース
だったようです。
だから、同じように高校進学を諦めた
父方の叔母(妹の叔母は高卒、叔母たちの
時代は、大学進学する女子は、全国的に
レア、諏訪にはほぼいなかった時代)が、
よく不満、愚痴を聞いてくれました。
母方の祖母も、
よく、不満、愚痴を聞いてくれ、
毎回同じ話ではありますが(お互い)、
祖母の話や若くして亡くなった長男の
伯父(私が生まれる前に亡くなっています)
の話をしてくれては、
涙を流していました。
その祖母の話を書きたいと思います。
(語り継いでおきたいと思います。
ある差別問題などは、本来書くつもりは
一切なかったけれど、
私に対してでは なかったけれど、5ch掲示板・ブログ板
「がん闘病ブログ」で差別書き込みがあったり、
3d、ネットストーカーFからも、延々とサイコパス
的な誹謗中傷記事発信、3dからは攻撃的嫌がらせ
コメントも続いているので、
全て書くことに踏み切りました。
強く賢く優しかった、
尊敬する母方の祖母の話です。
ーーー
明治生まれの祖母は、家が貧乏で
(差別対象でもあったのかな?、と
数年前に気付いたことがあって、
それは一番下に書きます)
子守りをしなければならなかったため
尋常小学校もきちんと通えなかった
けれど、
子守り(おんぶ)をしながら、教室の外の
校庭で授業を聞いていたそうです。
他にも、そういう子達が何人もいて、
先生は、わざと大きな声で、
外の子達にも聞こえるように
授業をしてくれたそうです。
※祖母の生家は諏訪ではなく、
同じ長野県でも文化圏の違う北信。
私の中学の担任が小谷村の出身で同じ地方でした。
肥えた土地のない全体的に貧しかった長野県が
真の「教育県」たる所以は
こういうところなのではないかな。
今はどうかは知りませんが…。
私も貧乏、教育ネグレクトな家庭でしたが、
小中学校の先生方に育ててもらいました。
嫁いでからは、祖父が病弱だったため
祖母の着物の仕立てなどで生計を立て
子供たちを育ててきています。
祖父が戦争に行けなかったために
肩身の狭い思いもしたそうです。
(祖父は戦争に行けなかったおかげで
長寿を全うしました)
祖父母の部屋には本がそれなりにあって
遊びに行って読ませてもらったり、
漱石や次郎物語など、中学時代、
祖父から借りて読み書いた読書感想文で
毎年、県のコンクールで賞をとり、
本を返しに行き、賞状を見せて、
ありがとう、と本を返しました。
その後、大学に出るときだったかな、
何冊か本を選んで譲ってくれました。
今も私の書斎の本棚に眠っています。
※実家の父母は勉強嫌いなので本などほとんどなく、
鬼母が本を読んでいるのは見たことがない。
小さい頃に親指姫を読んでもらったかもしれない。
父の高校時代のものが少し残っていたかな、
工業高校だったのでルートの開き方の説明は
父の本の方が分かりやすかった。
『学歴』はない
(小学校卒でもない)ですが
『学』のある、
尊敬する賢い祖父母でした。
長男の伯父は、向学心が強く、
高校に進学したかったけれど、
長男であり、
家計を支えるために就職する必要があり、
行かせてあげられなかったとのこと。
定時制高校に通っていたのも、
就職先から転勤を命じられて続けられなく
なり、通信教育に変更した、
それさえ、業務に差し支えると
(多分嫌がらせかな、と想像します
そういう時代であったと…)
就職先からストップさせられ、
本当に悔しい思いをしている間に
若くして亡くなってしまった。
他の弟妹たちの誰よりも向学心が強かった
のに、長男だったために、
本当に「むごいことをした」と、
毎回同じ話をしてくれて、
同じように涙を流していました。
私の思いと本当に重なる、
「お金がないから進学させられない、
女に学問はいらない」と言い放ち
私の気持ちを理解すらしてくれない鬼母
のことを、
(中学)高校の頃、学校帰りに寄っては、
何度も愚痴を聞いてもらいました。
祖母は決して鬼母を悪くは言わずに、
鬼母にも何も言わずに
「○○(鬼母の呼名)を、あんまり悪く
言うな。悪いのは、○○を我が儘に
育てた、ばあちゃんだから、
恨むなら、ばあちゃんを恨め。」
とも言っていました。
ここが、娘が私への不満を言ったり
あれこれあった時に、私に対して
「相変わらず性格が悪い」(私のこと)
と言い放つ、
鬼母と祖母との決定的な違いだと
思います。
祖母が36の時の子なので、
「年をとっているのが恥ずかしいから
参観日に来るな」
と鬼母から言われた話などは聞きました。
私は母が24の時の子、同級生の男子に
「美人だ」と言われて喜ぶ一方、
もう少し小さい頃に
「お父さんに似て不細工で可哀相」
と、私に言い放つ鬼母だったので、
さもありなん、と。
大学入学時に、祖母が年金を貯めたもの
から、そういった額からすると大金の
お祝い金を出してくれました。
祖母はそれを母に渡し
「ばあちゃんからと言わずに、自分から
だと言って渡せ。」
と言ったそうです。
それを鬼母は、そのまま私に伝え、
「きっと同居の伯父たちに内緒でくれた
と思うから、言わないように」
と言って渡されました。
祖母は何度も何度も私の愚痴を聞いて
くれていたから、
敢えて、鬼母からだと言って渡せと
言ったのだと思いますが、
そんな親心、祖母の愛の分からない
鬼母でした。
祖母の気持ちを無にしては悪いから
私は祖母にお礼を言いませんでした。
(結婚後、だから26歳頃に
祖母が寝たきりになってから、
お見舞いに相当額を包み、
お世話をしている伯母に、渡しました)
祖母は明治生まれにしては背が高く
(私より大きかったかな)
姿勢よく着物を着て、凛としていました。
骨折してから寝たきりになり、
その後も用は自分で足していたのですが、
ある時、自分で用をたそうとして
粗相をしてしまい、
孫に片付けてもらったのがショックで
涙しながら、オムツを受け入れた
と伯母から聞いています。
私の結婚式の時には、既に寝たきりに
なっていたので、
出席はしてもらえませんでしたが、
ビデオを何度も見て、私は見所がある
と言ってくれていたそうです。
気丈な祖母は最期まで意識は確かだった
(認知症はなく)から、介護されるのが
切なく辛かったようですが、
召される直前に、介護してくれた伯母に
世話になってありがとう、と
お礼を言って召されたそうで、
祖母らしいと、皆で泣きました。
戦時中は、よく物乞が来たそうですが、
自分達も困窮していても、
困った時はお互い様、と、
必ず、なにがしかは渡していたそうです。
祖母のお葬式には
「あの時助けてもらった者です。」
と言って、知らない人が何人も来てくれた
そうです。
(後から聞きました)
明治~昭和を生き抜いた、
尊敬する女性、強く賢く優しい祖母
でした。
私が、子育てで難儀している時、
(今、まだ、途上)
今、祖母がいてくれたら、と
何度思ったかしれません。
祖母は絶対天国にいますから
私も天国に行けるように頑張って
(地獄に落ちないように頑張る、という意味で
書いています)
祖母と再会したら聞いてみたいこと。
あの立派な祖母が、どうやって育てたら
鬼母のようになってしまったのか、と。
未だに謎です。
鬼母だけなんですよね、
他の伯父伯母叔父と違って…。
※鬼母も祖母のような年齢になれば
そうなるのかな?とも
思ったり(期待したり)していましたが
そうでもなかった…。
今、これを書いていて、ふと気付いたこと
あの祖母の努力でも及ばない、
社会的な差別なども影響があったのかも
しれませんね…。
ー◆ー◆ー◆ー
同和問題
数年前に、ネットで見かけた中に
そういう地域の中の豊かな例として、
祖父母の家近辺が載っており、
豊かなそういう地域、
(自治で豊かだった、差別の逆利用による
豊かさではなかったはず。すぐに、
そういう穿った見方をして叩く人々が
いますが)
として特徴が載っていました。
共同の温泉(共同浴場)を持っており、
その地域の人たちだけが入れるように
鍵をかけてあって、鍵を持ったその地域の
人たちだけが入る、と。
祖父母の家に泊まりに行ったときは
私も、まさに鍵を開けて入り、
脱衣場で「どこの子?」と強い口調で
聞かれて、伯母が「○○(鬼母)の子」
と答えて、「ああ」と納得された、
その光景を今でも覚えているので、
もしかしたら? と思ったのですが、
私は鬼母からは一切聞いたこともなく
ただ、そう言われれば、
・教育実習の時に、指導教員から敢えて
「この辺りは、その差別はなくなって
いるので、触れないように。」
と指導されたこと
・就職時の保証人が本支店所在地である
必要があり、親戚の集まる諏訪では
NGだったので、母方の別の伯父に
頼んだ時に、「家でいいのか」と
何度か確認されたこと
を思い出し、もしかしたら
そうなのかなぁ、と感じていました。
(父方は違う)
もしもそうだとしても、
私自身は上記2点が引っ掛かったくらいで
何ら差別を受けたことはなく
(その件ではないけれど
ここまでのイジメに合ったのは
5ch掲示板「癌闘病ブログ」が初めて
です)
妹も従妹たちも、
普通に就職や結婚もしているし、
もしも、
そういうことであったとしても、
私が子供の時代から、既に、過去の差別
になっていたのだろうな、と思います。
(そう私や妹に分からせないように
していただけなのか、は分かりません。
私は直接そのことで差別や嫌がらせを
されたことはありません。)
ここまで書いてきて、そうか、
もしも、そうだとすると、
鬼母が周りからどう見えるかとか、
見た目をすごく気にするのは
鬼母の子供の頃には、まだ、その類いの
差別が存在していて、その影響からなのかな
とも思いました。
ーーー
祖母のことを書くに当たり
もしかしたら、やはり、祖母の頃は、
そういう類いの差別で、尋常小学校に
行けずに子守りをする背景だった
のかなぁとも思い、
(時代全体なのか、特殊な差別ゆえなのかは
特に調べていないので分かりません)
父に、この際だから、と聞いてみたら、
ずーっと昔、そういうことも聞いたな
と。
※父との話でもあり、何だか一般論なのか
個別回答なのか曖昧、
ハッキリしませんでした。
※祖母は諏訪の出身ではありません。
北信の出身です。
(そういう地域の人は、離れた、
そういう地域の人と結婚することも
多かった、と書かれていたので
そうだったのかな? と思いました。
子守りをしながら外から授業を聞く話も
そういう地域の差別があった例として
書かれていたのを、そういえば
読んだことがありました)
鬼母とは直接話すことはないので
謎のままにしておこうと思います。
ネットストーカーFが、メッセージの
やり取りが成立していた1年以上前に
唐突的に同和問題
(差別用語を使って書いてきました。
アメブロのゲームで 、それを書く人が
いるといったような内容で
書いてきたことがあり。
私がどうこう言われたわけでは
ありませんが)
を、敢えて私にメッセージしてきたので、
少々不気味ではあります。
私に対してではありませんが
少し前に、5ch掲示板・ブログ板の
『がん闘病ブログ』で
同和問題も話題になっていました。
私がフォローさせていただいている方々、または
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