ご訪問ありがとうございます。
長野県民は郷土愛に溢れる人が多く、
「信濃の国」をみんな歌えるし、
故郷を離れても県民会も多いし、
私もご他分に漏れず、故郷は大好きです。
母校も、同窓生は皆、母校愛に溢れている
と思います。
青春を謳歌できた、
素晴らしい母校の思い出。
5ch掲示板ネットwatch板
『癌闘病ブログ』と名のつくスレッドで
今書き込まれているようなことを
書くような人々は
皆無であろうし…。
5ch掲示板ネットwatch板
『癌闘病ブログ』と名のつくスレッドで
私の出身地を晒した上での、
学歴などへの誹謗中傷、名誉毀損、
も延々と続き、
止まないので、
先日、母校の名前を明記しました。
さらなる誹謗中傷も延々と続いたので
母校のことを書いておきたいと
思います。
※多分、珍しく貴重な、本当に良い学校
だったなぁ。
今は、だいぶ、変わってきてしまっている
みたいではありますが…。
SSHになったり、中高一貫もできたり、
時代に合わせて変わりつつ、
HPを見る限り、
伝統も引き継がれていそうですね。
ー◆ー◆ー◆ー
私が高校生の頃は、
長野県では、長野、松本、諏訪が
三大地域であり、
(精密業の衰退、長野オリンピック、上越を走る
長野新幹線、リニア構想が諏訪を外し等々を受け
ここ10~20年の諏訪の衰退は大きいように
見受けられます)
長野、松本深志、諏訪清陵が三大進学校、
並んでいる感じだったと思います。
※比較的最近のことなのか?
松本深志への越境が認められるように
なってから、偏差値、大学進学という点
では、だいぶ凋落したと聞いていますが…。
※5ch掲示板『癌闘病ブログ』スレッドに、
偏差値でしか学校を見ない方々の、
あり得ない、
「長野高校が一番で、諏訪から通えばいい
じゃん」、みたいな失礼な書き込みも
ありました、苦笑。
因みに、今でも諏訪から長野市まで通う
など、物理的にあり得ない。
必要性もないし、苦笑。
当時、学区は厳格に守られていたし、
そもそも山がちで交通の便の悪い県、
(当時は、まだ、塩尻峠のトンネル 開通前で
辰野でのスイッチバックに時間を要し、
松本まで毎日通うのも大変な時代。
共通一次を松本で受験するのにも、前泊が
必要な生徒も多かった。)
特に偏差値云々の教育でも無かったし。
偏差値的なことで言えば、
長野地方だったら長野高校が一番、
松本地方だったら松本深志が一番、
諏訪地方だったら諏訪清陵が一番、
その程度の話であり、立ち位置の似た学校
多分、校風は似ていて、親近感はありつつ
皆、自分の母校が一番(偏差値とか進路とか
じゃなくてね)だと思っていると思います。
⚫諏訪清陵高等学校の思い出
【時代背景】
私の時代は、
男子校的な校風が色濃かった時代。
女子が、まさに増え始めたハシリの頃。
2つ上の学年までは長い間、
1クラスの女子が5名/全45名 程度が
続いていました。
※偏差値的な順で言えば、
諏訪清陵➡諏訪双葉(女子校)
➡岡谷南(男子校)➡岡谷東(女子校)➡・・
まだ、女子校や男子校が残っていた時代、
清陵だけは早くから少しだけ女子がいた。
よい教育県だったんじゃないかな、
と思います。
一番の進学校だから、当時から、女子も
ほぼ全員4年制の大学に進学しました。
稀に短大もいたかな、私の年はって感じ。
因みに、今はどうか知りませんが
東大、京大 旧帝大 で20~30人くらいだったかなぁ、
もっといたかな?(浪人生含め)
意識したことなんてないから正確じゃないですが…。
私の年は女子倍増、女子10名強/全45名。
世の中、全国的に、
ちょうど、女子の大学進学、短大進学が
増える流れのハシリだったのかな?
大学進学よりは短大進学、高卒が
圧倒的に多い時代ではありました。
■諏訪清陵高等学校
偏差値云々、大学云々より
校風がよくて、行事も活発で
青春を謳歌できる学校でした。
まさに自由な、
生徒が自立した学校でした。
⚫質実剛健、自主自立、
の男子校的校風。
校則なし、制服なし
(トレーナーやTシャツにGパンって感じ。
男子が多いから色的にも全体的に
地味~な感じだったかな。
学ランに下駄で通っている人も中にはいた、
好きずき)
※偏差値的に上の学校は制服がなかった。
規則や指導で律しなくても、
生徒の「自主」に任せられる、
すなわち、入学してくる生徒は、
自分で自主的に勉強してきたから
勉強が出来るようになっていて、
さらに進学する意思があるから、
偏差値的に上位の学校に入学できているし
不健全な問題を起こすことはしない、
そういう生徒ばかりだから、
自主自立、校則なし、制服なしでも
生徒集団は、のびのび自由に、
健全に、青春を謳歌しながら、
そこからさらに本質的に重要な成長を
していけるのだと、私は思っています。
・山がちな地域柄、バイク通学も可
(自転車で通えない山の中の僻地の生徒に
許可された、許可制)
※自転車で通えないかどうかを、
ママチャリで直立不動の姿勢でどんな坂でも
スイスイ登る私の担任~若手~が、
ママチャリで生徒の家まで確認に来て
許可する許可制。
私はバイクで通っていました。
※因みに教育実習の時、実習生は、車じゃなく、
出来るだけ電車などで、生徒の様子をみましょう、
と指導されましたが、
在校時から私を知っている先生の
「彼女の家は無理」の一言で簡単に許されました。
レーシング仕様の2ストだったので、
⬆これは、大学時代に購入したもの。
高校時代は「小さいし女子だから原付で」の担任
判断で馬力のある原付に乗っていました。
結構スピードを出して車を抜くから、中型免許を
取らせておけば良かったと担任は後悔してました^^;
大学卒業前に、高校時代からの友人(手術入院も
手伝ってもらったS)と九州一周の卒業旅行ならぬ
卒業ツーリング。バイクを買ったので車の免許が
取れなかった(どっちもは、お金がなくて^^;)
全校での音楽観賞会の移動時に、
教員は自分の車で生徒の集団を通り越していく
(直帰、現地解散だから。生徒はバイクも自転車も
OK。自分の通学手段に応じて自由) ので
禁止されたくらいだったかな。
⚫校訓
(という言葉で合っているのかは
分からないが)
校則はないけれど、
校訓として引き継がれているのが孟子の
「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」
自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、
千万人と雖も、吾往かん。
高校に合格すると、地方会(出身中学の会、
私の所属した会は黎明会。同窓生には、
そう言えば、どの中学出身か分かる)の
先輩達が、合格者それぞれの家まで行って、
『民』をして祝福してくれました。
我が家は僻地なので、「校庭でいい?」と
中学の校庭でしてもらった記憶が。
『民』というのは、
スクラム組んで(肩を組んで輪になって)
「金色の民、いざやいざ、
戦わんかな、時来たる、
戦わんかな、時来たる、
フレッ(フレーを短く) フレッ清陵
フレッ フレッ 清陵」
と雄叫びをあげながら回るもの。
色んな時にしたけれど、初めて接するのは
合格時。真ん中に合格者を入れて
祝ってくれる時。
⚫日本一長い校歌
校歌第一8番ある
校歌第二10番+前後 (漢文調)
を、連続で歌う
楽譜、伴奏などなく、手拍子で歌う。
歌い始めは「せーの」の掛け声。
第一の8番
「それサクセンの林中に 獨逸の國の力あり
・・・
ああ信山の健児等の
やがて咲くべき春や何時 (リピート)」
は足を踏み鳴らして早口で歌う
そのまま第二に入り、ゆっくりの
「ああ博浪(ばくろう)の槌(つい)とりて
打破せむ腐鼠(ふそ)の奴原が
彌生半ばのこの夢を」
が入って
1番の「おしてる難波の群葦の
世は昏々と華に眠り・・・」に続く
10番の
「山をも抜かむ意氣をもて
海をも呑まむ慨をもて
鉄槌三度(みたび)かざしては
吾等(あら)が手ぶりに靡(なび)けとや
雄叫べ友よ 茜さす」
の後、
「朱曦八荒(しゅぎはっこう)を照らすとき
芙蓉峰頭一點(ふようほうとういってん)の
理想の花の咲かむまで(リピート)」
最後はさらにリダルダンド。
地方会の先輩から歌詞のプリントを渡され
~今はネットで簡単に検索できますね~
入学前に(中学校の校庭に集まって)
校歌指導があり、伝承されていた。
※因みに歌詞が、訳がないと難解な部分も
あったりする。時代ものの校歌。
「煤煙続く 製糸場」などなど全体的に。
※地方会毎の伝承で引き継がれており、
楽譜があった訳ではないので、
細かいところに、時代時代で微妙な差が
あったりもし。
⚫木造の「ボロボロ校舎」(の時代)
※ボロボロ校舎は誹謗中傷ではなく
清陵祭で歌う歌の
歌詞にもなっていた、笑
(私の教育実習の時が最後で
新校舎になりました。
数学は旧校舎だったけれど
英語や社会は新校舎だったかな。)
⚫職員室なし、移動教室
学科毎の研究室はあり、
その近くにその学科の教室があって
教員が使う教室が決まっており、
時間毎に全教科とも生徒が移動する。
例えば私の担任は数学3番教室。
で、1限と2限の間のホームルームや
昼休みは数学3番教室に集まる。
※朝1番だと皆来ないから、間になっていた。
ホームルームは3年間変わらず、
2年、3年の授業はそれとは別の
講座制だから、3年間で顔見知りや
話したりする人が自然に増える。
他人に迷惑をかけなければ、すなわち、
静かにさえしていれば、
当たった時に答えられれば、すなわち
授業の進行を妨げなければ、
早弁も内職も、とがめられることも、
注意されることもない。
自己責任で勉強すればよいだけ。
全員進学する、地方では一番の学校
だったから、
生徒指導もなし、進路指導もほぼなかった。
教員は楽チンだったはず。
空き時間は中庭でテニスしていたり。
⚫行事の盛り上がり
青春だったなぁ、、。
・清陵祭
何といっても最後の夜の
ファイアーストームかな。
その周りを肩を組んで走り、
(放水してるから、泥だらけになり)
一休みして
校歌、清陵祭の歌、清陵賛歌などなどを
歌い
また走り。
の繰返し。
その前か合間に騎馬戦もしたかな。
3年の時、女子の騎馬戦は大将騎の上に
乗らせてもらった、笑。
・端艇大会
(諏訪湖でのボートのクラスマッチ)もあり、
これは、男子とは別の女子の艇もあり。
漕ぎましたね。
※校歌第一3番にある
「夏は湖水の夕波に 岸の青葉を映しつつ
オール執る手も勇ましく
漕ぐや天龍富士守屋
げに海國の日の本の
男の子(おのこ)の意氣ぞ頼もしき」
の天龍、富士、守屋とは艇の名前。
・諏訪湖一周マラソン
湖周の平らな道でなく、up downのある
旧道を走る。
女子は30分前に出る。
途中で梨か林檎のどちらかを貰える
早いもの勝ちで遅くなると林檎のみになる
ウシマサ坂(清陵名物の地学のウシマサ先生
の授業が入っていた最後の学年。ご病気で
ほとんど全て自習で授業があったのは
稀だったけれど…)の上りきったところで
応援してくれるウシマサ先生は見れな
かったな、確か、 記憶曖昧。
私が 初めてキリスト教式の葬儀に参列
したのは、ウシマサ先生のご葬儀でした…。
夏秋の体育は毎時間4kmか6kmのマラソン。
山というか丘というかを登って降りてくる。
諏訪双葉(女子校)の前を通るときだけ
ペースが上がる男子が多かった。
帰ってきた人からバレーとか、バスケとか
好きなことをしていたかな。
11kmを年2回は走ったかな。
そして、その後に湖周マラソンがあった。
体育と言えば、女子が少ないから
男女一緒で、
バレーはネットが高くてスパイクは
打てないし、後衛では狙い撃ちされるし。
バスケは守っても上からシュートを
打たれちゃうから、守らなくていいよ
の、速攻要員。
サッカーは怖くて入れず、遠巻きに
こぼれ球を蹴り。
校庭とかバレーコートに蛇が
出てくることもあった。
ーーー
文才がないから、
書くと陳腐になっちゃって、
上手く伝えられていないかも、ですが、
青春を謳歌した、
楽しい学校生活でした。
女子は少ないし、そもそも隣の女子校でなく
女子の少ない学校を選んで入学してくる
似たような女子の集まりだし、少ないしで
仲の良さの度合いに違いはあれど、
全員で仲良かったよ。
ありがちな女子の世界の面倒なことに
煩わされることのなかった、
ほんと、楽しい学校生活でした。
ー◆ー◆ー◆ー
以下は、とても悲しい出来事、
お亡くなりになった方の話なので、
お読みになりたくない方は
ここで終わりにして下さい。
余談: バイクのこと
私の再従兄弟は清陵に通っている時に、
バイク事故~砂利道で転倒したところを
トラックに跳ねられた、だったかな~
で亡くなりました。
私が小1だったかな、その頃。
直前にお宅に遊びに行った、
すぐ後の出来事で、
初めて身近な人の死に接したのが
その時でした。
その時の
おばちゃん~母親~が悲しみに暮れていた
(取り乱していた)のと、
再従兄弟のその時の姿が残像として
私の記憶に残っています。
私は泣いちゃいけないと思ったんだろうな
必死で涙をこらえていた、と親戚の人々の
後の話で聞いています。
その時の自分についての記憶までは、
あまりないけれど…。
余談2: 中学の時の、同級生の交通事故死
小学校の時の同級生で
実家が近く、
僻地だから通常は自転車で登る人は
滅多にいないのだけど、
中2だったか、中3だったかの時、
野球部の彼は、自転車で通学していたの
だったか、
対向車線を猛スピードで暴走してきた
県外車(大阪ナンバーだった)が、
カーブをコントロール出来ず
崖に激突し、跳ね返ったところに
ちょうど登ってきた彼の自転車が
いてしまい、
跳ねられて命を奪われました。
車は逆側のガードレールも超えて
崖下の川まで落ちていったのだけど、
車の運転手は、大した怪我もなく
自転車を跳ねたことも気付かず
ヘラヘラ照れくさそうに自力で
上がってきたとか。
人家もなく人通りの少ない山道で
目撃情報があったのは、
偶々、バス(1時間に1本程度しかない)
も登ってきていて、
バスに乗っていた人々(基本的に同じ
僻地の人々)が目撃したから、だったかな。
車が疎らにしか走っていない道、
ほんの一瞬ずれていれば、
車が崖に跳ね返される角度が
少し違えば、
跳ねられることもなかっただろうに。
自分自身も多感な中学の頃、
僻地で小中学校からバス通学、
バスに乗っているのは、その僻地の
人々くらいだから、
皆顔馴染み(ご家族も分かる)、
小学校は同級生、
何とも言えない理不尽な突然の出来事で
命、将来が奪われてしまった同級生の
命の儚さ、
私たちには
彼のことを、いつまでも覚えていること
しか出来なかった、出来ない。
青春時代と、その先の、もっともっと
たくさんの楽しみ、幸せ
を一瞬にして奪われた
彼らは
天の国で、安らかな、幸せを
得られていると
思いたい、信じたいです。
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