屁の恨みで殺害された千葉邦胤 | 話のコレクション

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   戦国時代、壮絶な死を遂げた武将というと、織田信長を思い浮かべる人は多い。
 彼は、重臣明智光秀に背かれ、京都・本能寺で炎に包まれ一生を終えた。
 
 ところでこの時代、オナラの恨みで命を落とした大名もいた。
 
 
 戦国時代、下総(現在の千葉県)の大名に千葉邦胤がいた。
 彼は、兄の良胤が家臣に追放された後、千葉家を継いだのだ。
 
 千葉家は、平安時代から続く名門であった。
 平安時代末期は、源頼朝の鎌倉幕府創業に貢献した。
 「千葉氏は、実は朝鮮半島からの渡来人であったのでは?」
という説を唱える研究者もいる。
 
イメージ 1
 
千葉氏の居城だった本佐倉城址を上空から撮影
 
 
 さて、話は本題に入る。
 1585年(天正13年)の元日。千葉氏の居城・佐倉城(現在は本佐倉城と呼ばれる)へ家臣たちが、続々と集まった。
 
 毎年恒例の、新年の祝賀の儀式が行われる為だ。
 千葉邦胤は、上機嫌で家臣団を迎えた。
 
 祝賀の儀式の後、書院で家臣達を供応する事になった。
 この時、邦胤の近習・鍬田万五郎が配ぜん係を仰せつかった。
 
 ところが、この時、万五郎は事もあろうに、大きなオナラを2発かましたのである。
 
 邦胤は、
 「万五郎っっっ。新年の大事な祝賀の席で、おまえはなんたる事をしてくれたのだっ!」
と、烈火のごとく怒った。
 
 ところが、万五郎は、しれっとして、
 「出物腫物所構わず、と言うではありませんか」
と弁解した。
 
 この口答えに、邦胤はぷっつん切れた。
 「おのれえええっ。家臣の分際で、なんと小生意気なっ!」
 邦胤は、万五郎を激しく蹴っ飛ばすと、柄に手をかけた。
 
 短刀で万五郎を、いまにも成敗しそうである。
 
 「まぁまぁ。殿、おやめくだされ。殿から見れば、万五郎などしょせん小物じゃないですか。そんなにむきにならずとも」
と、家臣たちが、邦胤を止めに入った。
 
 結局、万五郎は成敗されず、千葉家家臣・椎木主水正へ預けられた。
 
 それから、しばらくして・・・。
 
 家臣たちは、口々に邦胤に対し、
 「あの万五郎の事でござるが、もう許してやったらいかがでしょうか。殿、大きな心をお見せください」
と言う。
 
 邦胤も折れて、万五郎を再び佐倉城へ出仕させる事とした。
 
 その年の5月1日の深夜の事である。
 あの事件の恨みを忘れていなかった万五郎は、邦胤の寝所へ忍び込んだ。
 そして、邦胤の体を刀で、二度刺し逃げ出した。
 
 「うわあああああっ。憎き小せがれにやられたああああ!万五郎めにやられたああああ。は、早く、あやつを討ち取るのじゃ」
と、邦胤は、虫の息ながら声を挙げた。
 
 家臣の一人が、駆けつけた時には、邦胤は見るも無残な姿で息絶えていた。
 享年28歳。
 
 千葉家の家臣達は、万五郎を成敗しようと、城内に散らばった。
 
 さて、その万五郎である。
 物陰に隠れ、家臣達の隙を見て、城から逃げ出す作戦を立てた。
 夜が明け、塀を乗り越え、菊の間がある台地まで逃げた。
 
 しかし、その先には、大勢の家臣達がいて、
 「万五郎が出てこないか」
と待っている状態であった。
 
 万五郎は観念し、林の中に入ると切腹して果てた。
 享年18歳。
 
 邦胤には、実子がいた。
 しかし、千葉家を支配下に置いていた北条氏は、
 「幼いから」
との理由で、実子に千葉家を継がす事を、承知しなかった。
 
 やがて、北条氏政の息子が送られてきて、千葉家を継いだ。
 千葉家は、邦胤がオナラが元で殺害された為に、北条氏に乗っ取られてしまったのである。
 
 そして、これから5年後、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、これとつきあうように、平安時代からの名門千葉家も滅亡した。
 
 この為、千葉家は「オナラが元で滅んだ家」と呼ばれるようになった。にひひにひひにひひ
 
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 でもって、この話には、どうも裏があるようだ。
 
 研究者には、こんな説を唱える人がいる。
 
 千葉邦胤というのは、どうも同性愛者だったと言うのである。
 いや、息子がいたから正確には、両刀つかいだったようだ。にひひにひひにひひ
 
 それで、万五郎をかってはとても可愛がっていたらしい。
 ところが、ある時を境に邦胤は浮気して、違う近習(少年)を可愛がるようになった。
 
 万五郎は、邦胤の浮気に激怒した。
 それで、嫌味に、祝賀の席でオナラを放ったというのである。
 「殿、浮気した仕返しですよ」
というわけだ。
 
 家臣達も、殿と万五郎の関係を知っていたからこそ、
 「万五郎が怒ったのは無理もない。許してやれば」
と、間に入ったというのである。
 
 家臣達は、殿と愛人の痴話げんかの仲裁をするような気持ちだったのかも。
 
 一旦、万五郎を謹慎させたのに、また城へ出仕させたのは、かっての愛人だったから、邦胤自身、甘くなってしまったのだろう、と見る向きもある。
 
 再び城へ登るようになった万五郎は、邦胤に再び抱いてもらえるかもと期待した。
 しかし、邦胤は、他の近習にうつつをぬかし、もはや自分の方は見向きもしない。
 
 「それでとうとう切れて、邦胤を殺めてしまったのでは?」
と、ある研究者は推論するのである。
 
 そんなわけでこの事件は、実は三角関係、愛憎劇が陰に潜んでいたと言うのだ。
 
 推論に過ぎないが、確かに、18歳といえば当時はもはや立派な大人なのに、万五郎があんな真似をあえてしたのが不可解である。
 
 しかしこれが男色のもつれ、と見るとあの言動が理解できる。
 
 それにあの時代は、信長と森蘭丸の関係が示すように、男色は珍しくなかった。
 
 この事件、今起こればワイドショー、女性週刊誌の格好のネタになるに違いない。