なぜなんだろう。
お互いの主張があって、その主張にお互いが納得し合えるまで話し合って、方向性を決めていけばいいのに
一方が力付くで押さえ込んで言うことを聞かせる。
周りが、こちらの主張を聞かず、力でねじ伏せようとする。
それは、精神的暴力ではないか?
迫害ではないか?
なぜ、話し合って、お互いが納得できるまで、歩み寄り、協力し合い、より良い方向へ向かっていけるように
進んでいければよいのに。
そうでなければ、こちらの気持ちは離れていくばかり。
もっと優しく、包み込んでくれる、温かい存在を求めてしまう。
そうなってしまうのは、当然ではないか?
なぜ、気づかないのか。
改めようとしないのか?
分かってる、全部のからくりを。
仕組みを。
気づいてる。
でも、それでも知らないふりをして、毎日を送っていくんだ。
少しのチャンスに目を光らせ、そのチャンスを掴む。
掴んだら、そこから切り開いていく。
正しい心ってなんだろう?
誰でもある、邪悪さ、反対の誠実さ、優しさ、妬み、暴力的な狂気。
その渦巻いた自分の中の要素をコントロールするのは理性。
理性を失えば、人は暴走する。
理性を失わず、冷静に、正しく、一貫性を持った姿勢で、心で、歩んでいくこと。
それが、上に立つ者の資格じゃないだろうか?
ムカつく心、腹立つ心、怒り、、。
誰でもある。
くだらないことに付き合わなければいけない、そんな苛立ちもある。
全てがスムーズにいかない。
そんな、くだらないことに折り合いをつけて、くだらないと思いながら、皆生きている。
分かってる、自分が特別じゃないってこと。
みんなが生きてる現実の中でやっていかなきゃいけないってこと。
でも、変えられることもあるはず。
不条理な現実の中で生きながら、変えられることは訴えていく。
ちっぽけな存在、ただ一人の人間だってことは分かってる。
一つ言えるのは、押さえ込むのではなく、気持ちを理解してくれる方が嬉しいってこと。
どんな現実であっても、心に寄り添ってくれた人が一体何人いただろう?
誰が、心に寄り添ってくれただろう?
皆、目の前の利益、保身に走っていなかっただろうか?
誰が立ち向かって、私の味方をしてくれただろうか?
そう思うと、苦しくて一人でいいと思えてくる。
いつだってそうだった。
でも、完璧ではないけれど、人の優しさ、温かさに触れて、そんな不完全な現実でもいいかな、と思えるときもあった。
そうやって、揺れながら、生きていく。
自分はただ一人の人間なんだ。