ここ最近私が投稿していた西野さんの記事に対して、党員でこのブログの読者の方からメッセージがきました。とても考えさせられる内容だったので、みなさんにもシェアしたいと思います。
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こんにちは^_^
ひぐちさんが、アップされているキンコン西野さんのブログ、興味深く読ませていただきました。
私なりに考えることを書かせていただきますが、気軽に読んでいただいて、参考にならないところは聞き流していただけたらと思います^_^
まず、ひぐちさんも勉強されていると思いますが、私たちの党は科学的社会主義の視点で情勢を分析し、活動しています。基本にあるのは、科学的に社会を見ることです。
そうなると、資本主義国家では、根幹には階級闘争が発生します。
労働者と雇用者がわかりやすいですが、環境問題しかり、教育問題しかり、支配層のしていることに対して私たちがしている活動すべてが、階級闘争です。
そして、国民が本来のあり方を見えなくするように必ず行われるのが弱者攻撃です。これは、人間もともとの心理的におこるものという側面もありますが、支配層によって社会構造として古くから使われてきた手法です。
江戸時代では、エタヒニンを作る。戦争中は障害者を国の役に立たないものとして徹底的に差別する、非国民をつくる。現在の日本でも、憲法25条に保障されているにも関わらずメディアを使って生活保護者をまるで不正受給者が大半を占めるかのように報道するなどです。
そういう社会の中で、希望、生ぬるい夢を語ることが求められるという表現がありましたが、私は、やはり私たちが語るべきことは、希望ではなく展望なのだと考えます。
自分が悪いから生活が苦しいと思っている方など、たくさん自己責任で解決していこうという面がありますが、私たちは憲法に基づいて権利をもっている。
自己責任ではなく、政治の力で変えていける展望だと思います。
憲法13条の幸福追求権についてはあまりとりあげられませんが、そこに基づいた、具体的な展望が求められているように感じています。
長々とすみませんでしたm(_ _)m
古典や科学的社会主義の学習は奥が深く、なかなかですが、学習を通して今の課題や打破する道筋を考えたいですね。
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そして私の返信↓
「○○さん、なんか泣けてきました。ありがとうございますm(__)m
これはちょっと直接お話を伺いたくてたまりませんが、要するに、
「憲法という枠組があるのに、それが生かされていないどころか歪められている。その歪められた枠組の中で自己責任を求めるのはおかしい。本来の憲法のあり方を取り戻そう」
という感じでしょうか?
そして希望というのは個人に焦点を当てた表現で、展望は社会全体を見据えた表現…。そういう意味で展望が大切ということでしょうか?」
そして読者の方から再返信↓
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突然のわかりにくい文章を読んでいただいてありがとうございます。
そうです。
現在の社会では、自己責任論が展開され、本来のあり方が見えなくされている。
努力されれば報われる。
努力しない者は報われなくても仕方ない。
こういった体制側の仕組みによって希望が語られることは危ぶまれる事態と感じています。
展望についつは、ひぐちさんのおっしゃる通りです。
私たちが語るべきは展望ではないかと思っています。
そのためには、科学的社会主義を身につけ、学校、職場、地域それぞれその立場立場でそれを展開していくことが大切かと。
資本論などは、大昔の書物ですが、資本主義の本質を理解するのには不可欠かと思います。
今の日本にも当てはまる部分はたくさんあるので。
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以上です。
後日、この方とお会いすることになりました。
「希望」とは何か?
「展望」とは何か?
そしてそれをどう伝えていくか?─
さらに深めていきたいと思います。
みなさんもぜひ感じることがありましたら、ぜひコメントをお寄せください。