夢に向かって進め!
号泣する小学生や、思う存分がんばってほしいと願う大人たちに見送られて、自らの夢に向かって羽ばたいていきます。
いってらっしゃーい!
写真はこのあいだのadidasのサッカーイベント#BETHEDIFFERENCEでのものです。
20歳の時、私も大阪から東京へ、夢を叶えるために旅立ちました。
自信があったわけじゃないけど、自分自分の夢を信じていました。
今と違って、私の少女時代には自分の子供が俳優になりたいといって、賛成する親はほとんどいなかった様に思います。
もちろん、うちの両親も賛成するわけはありません。
大反対でした。
家出でもしたのかって?
高校二年生の時に学校からの帰り道、交通事故にあったのですが、情報が錯そうして、事故の詳細が両親にはしばらく分からなかったのです。
救急で病院に運ばれて来ても助けられなかった命を想い、医師である父は娘の死を覚悟したのです。
実際は全治2週間くらいの軽傷ですんだのですが、楽しみにしていた修学旅行には行けなかったし、跳ね飛ばされた時に、一歩間違えて対向車線に落ちていたらと思うと、死の恐怖を感じてブルブル震えましたが、良い事が二つ。
一つは、命はいつ尽きるかわからないから、やりたいことをやらなくちゃと私自身が強く感じたこと。
もう一つは両親が私の夢に対して寛大になったこと。
私が死んでいるかもしれないと、父が考えた時に、もっと好きなことをさせてやれば良かったと後悔したんだそうです。
それからというもの、ちょっと自由になり、ミュージカルを観るために泊まりで東京に出掛けられたり、テレビにも出演することができるようになったのです。
短大卒業後、2年で芽が出なかったらあきらめるという約束で東京に出て、1年目にポンキッキのおねえさんとしてデビューして、今にいたるのです。
49歳でこの世を去った私の相方の本多知恵子さんがどうだったかというと…。
知恵子の親戚はみんな学校の先生や銀行員など、カタイ職業の方々ばかり。
母一人子一人で育った知恵子に、親戚のみなさんは銀行員などしっかりとした職について、お母さんを支えていってくれることを切望していました。
周りの意見に従い、一度は俳優になる夢をあきらめ、銀行の職を受け入れた知恵子でしたが、それからというもの、毎日が辛くて辛くて耐え難いものになってしまいました。
彼女はこう言っていました。
夢が叶わないのはかまわない、でも夢がなければ生きていけない。
そして、一度はのんだ銀行員の職には就かず、東京の養成所に入ったのです。
それからはみなさんも知っているとおり、数々のアニメのキャラクターに命を吹き込んでいったのです。
2011年秋、知恵子はガンを宣告されました。
初期ではありません。
わかりますか?
せまりくる死を覚悟しなくてはならない人の気持ち。
生きたい、仕事もいっぱいしたい、と。
2013年2月
最後まで頑張りました。
ナレーションの収録に付き添った時、仕事中は病気のことなど微塵も感じさせませんでした。
知恵子からの最後のメールも、付き添うはずだった仕事についてでした。
みだれた文面から、どれだけの想いでこの短い文章を書いたのか、涙が止まりませんでした。
生きたかったと思う。
もっといろんな役をやりたかったはず。
家族やまわりはみんな、その人が考える幸せの基準で良かれと想い、愛情を持って意見を言うでしょう。
こうした方がいい、こうするべきだと。
でも何が幸せなのか、何がしたいか、何が夢なのか、それはその人にしかわかりません。
自分の人生、誰かのせいにしたり、誰かにどうにかしてもらうものではないのです。
他の誰かのためではなく、自分自身のために、自分自身を幸せにしてあげましょう。