3年前、千葉県成田市から母と娘の三人親子が山梨のキャンプ場に遊びに来ていた。7歳の次女が午後になって行方不明になり母親から捜索願いが出され深夜まで警察が付近を捜索したが行方は判らなかった。

場所は相模湖に近い道志村キャンプ場、女の子の名前は小倉美咲ちゃん。その日以来、女の子は事件に巻き込まれたのか、それとも事故か-----と注目の場所になった。

 

私もこの時、実はボランティアで捜索に参加していた。-----私の住む潮来からそのキャンプ場まで高速道路を使って車で4時間近くかかったのを覚えている。

ちなみに私はその家族と面識がある訳ではなく知り合いでも何でもなかった。ただ、テレビで消防団や警察の捜索風景を見ていると効率の悪い捜し方をしているなと、もどかしくて仕方なかったのだ。-----十数人の捜索隊が山道を一列に進み次の人、その次の人も皆が同じ草むらに棒を突っこみ掻き分けていた。横に広がり捜索するなら効率はいいが縦一列なら2、3人で充分だ。テレビ画面に映る十数人の列は無駄で効率の悪い捜し方だと、歯がゆくて見ていられなかった。任せておけない、それが捜索に参加した理由だった。

 

中央道「藤野」インターで高速を降りてからというもの、現地に到着するまで山の中のクネクネした道が30分ほど延々と続いた。後になって知ったが、ここはオートバイライダーにとって格好のワインディングコースで有名な地帯だった。しかし、その時は知る由もなく

「よくもこんな遠いところをキャンプ場に選んだなぁ」

と、着いた時に思ったものだった。

 

行方不明になった子供の家族は成田市から来ていた。私の住む潮来市は成田から高速で更に30分かかる場所だ、運転しながら何故こんなにも遠く離れた山梨にキャンプに来るんだろう?もっと近いキャンプ場は幾らでもあるのに、と不思議でならなかった。-----私が出発したのは9月26日の午前、女の子の行方不明になったのは9月21日午後、既に5日が経っていた。

 

----女の子の体力限界が近づいている。7歳でも3日間なら何とか命は永らえるだろう、しかしそれを越えると衰弱し助けも呼べなくなる。時間が無い。テントと寝袋を車に積み、キャンプ場に到着したのは昼過ぎだった。

 

キャンプ場は正式には「椿荘オートキャンプ場」と言った。

周辺にはいくつもキャンプ場があり事前に調べないと違うキャンプ場に入りそうだった。山と川沿いにいくつもキャンプ場が点在している自然豊かな地帯で、道志川は清く澄み、横浜市水道の水源にもなっている渓流だった。

 

カーナビをあらかじめセットし、迷うことなく国道から脇道に入った。数分走ると捜索している何人かのボランティアとすれ違った。彼らは周囲の景色を楽しむのではなく、道路脇にいるかもしれない女の子の姿を捜しそれと区別がついた。未舗装道路になり道幅も狭くなるとところどころ点在している空き地には警察や消防、報道陣の車が駐車していて、ああ、ここがそのキャンプ場だと判った。

 

車を停めリュックを背負い数分歩くと右側の小さな空き地にカメラと三脚、数十人のマスコミの撮影拠点になっていた。カメラ放列はオートキャンプ場に向けられ中にはボランティア捜索の本部テントが設置されていた。女の子はここで行方不明になったのだ。一家の所有する車とテントがエリア一番奥にありカメラ群は全てそこを狙っている異様な光景だった。

 

ボランティア登録センターで受付を済ませ説明を受けたが説明する人もまたボランティアで参加している人だった。

「まず、周辺の地理を説明しますが-----その前に、このボランティア登録センターも明日で閉鎖になるかもしれません。もし明日も参加されるならご了承ください」と言われた。

 

-----ボランティアの人の中には他人の敷地内に無断で入り込み、傍若無人な捜索をする人もいて顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。また、日に何度も何組も捜索ボランティアが玄関チャイムを鳴らし同じことを訊くので「うちが誘拐したっていうのか、いい加減にしろ」と怒る家もあったという。

「-----ですから、個人宅をたずねるのは止めて頂きたい」

というのが本部のお願いだった。

 

ボランティアとは「このまま放っちゃおけない」「見捨てちゃいられない」と止むにやまれず始まるものだ。

しかし「ボランティアで来てやっているんだぞ」という意識がはたらくと傍迷惑になった。驕(おご)りや高ぶり、思い上がりのボランティアは返す刀となってボランティア窓口の閉鎖を招こうとしていた。

 

テーブルには用紙を何枚も継ぎ足した地形図が広げられ「捜索済み区域」「今日、警察で捜査している区域」「今日から自衛隊が捜し始めた区域」が色分けされていた。

「----それと、山の斜面は注意してください、滑り落ちてけがした人がいますから」

と、最後に注意を受けた。

 

それまでの情報によると女の子が最後に目撃されたのはオートキャンプ場を出て一人で左に向かっていく後ろ姿だった。捜索は女の子が向かった方向から始まり、更に奥のエリア、日が経つにつれ別のエリアに移っている時だった。私は目撃談通りオートキャンプ場を出ると左を捜し歩くことにした-----。

 

ボランティアで参加する人に数分ごとすれ違った。ほとんどが無言のままだった。数人で藪を探す人、一人で渓流に向かう人、みながそれぞれ黙々と歩いていた。

私は周囲に誰もいなくなると

「美咲ちゃーん」

大きな声で呼びかけた。-----5日も経っているのだ、飲まず食わずなら体力がかなり落ちている。生きているなら横になっているのがせいぜいだろう。----しかし耳だけはきっと大丈夫だ。呼べば返事してくれるかもしれない。そう思い木立に向かい、茂みに向かい呼び掛け耳を傾けた。森の音を聞いた。

山道にはトンネル代わりのヒューム管が埋められていた。山からの雨水排水トンネルで、通るたび管の中に降りて覗き込み、ひょっとして横たわっているのではと捜索した。

------2Km位歩いただろうか、山の上に向かう分岐路があり急な山道が伸びていた。山の管理者が登る獣道だった。その上の方で数羽のカラスの啼き声が聞こえ、斜面を登った。

カラスは何でも食べる悪食動物だ。腐ったものでも、動物の死骸でも真っ先に見つける特性を持つ。尾根方向で啼き声が聞こえるのは何か見つけたからかもしれない。-----立ち木につかまり獣道の斜面をよじ登った。てっぺんにたどり着くと向こう側は急勾配斜面になっていた。崖に近い傾斜だ。 



私の足音を聞くとカラスは二羽とも飛び立った。カラスの啼いていた木の下には何もなかった。何も見つけられず残念なような、半面ほッとした気持ちだった。-----そのまま尾根道をたどって元の方向へ戻ったが午後4時を過ぎると山には一足早く夕闇が近づきつつあった。

山道を降りると「クマ出没注意」の立て看板があった。道志村はツキノワグマの出没地帯でもあった。

                                

本部テントに戻ると周囲は徐々に明るさを失っていた。遠方から捜索協力にやってきたのだろうか、たった今到着し登録を済ませ登山ヘルメットにザイルを背負った姿でこれから向かう人がいた。クマが出なければいいが、とその後ろ姿を見送った。

-----夜のラジオニュースでこの日、一人のボランティアが滑り落ち救助隊に救出され病院に運ばれたと流れた。ああっ、あのヘルメットの男かもしれないと胸騒ぎのようなものがあった。おそらく私がその日登った尾根と似たような急勾配から滑り落ちたのだろう。暗くなって足元を見失い落ちたのかもしれない。ボランティアと言っても夜の捜索は危険だ。

 

車に戻ると何処か風呂で汗を流そうと思った。数キロ離れた先に「道志の湯」があった。久しぶりの山歩きで脚も疲れていた。風呂に入ってからどこかテントを張って休み、朝からまた探そうと車を走らせた。

 

温泉は渓流沿いにある日帰り入浴施設で休憩室を兼ねた食堂もあった。

汗を流し広間で早めの夕食にした。身体は汁物を欲がっていた。疲れているのであまり食欲もなく山菜そばを選んだ。

出来上がりを待つ間、食事運びのおばさんが「何処から来たの」と問いかけて来て、女の子の捜索に茨城県から、と答えると彼女の旦那さんなのだろうか調理場の男の人に知らせるとしばらくして調理人自らそばを運んで来ると脇に座ってニコニコしながら話しかけてきた。入浴客も途切れ、暇な時間帯のようだ。

「女の子、捜しに来てるんだって?」

調理人が話しかけてきた。この人自身も女の子が行方不明になってから、朝の散歩コースを遠まわりの散歩コースに変え毎日捜しているのだという。

「今朝も歩いたけど、でも、見つからないよね。-----きっと山には居ない」と言った。

-----山にはいない、の言葉に私も同じことを感じていた。

これだけ多くの捜索隊が連日山の中を探し回り見つけられないのだ。人が歩けそうなところ、登りそうな場所は何組もの人が重複し捜索している。近くに流れる渓流も、数キロ先のダムも捜索隊が潜ってすべて捜索済みだ。ひょっとして、という場所はしらみつぶしに捜索された。目撃者も、女の子を見かけた人は誰も出てこない。まるで神隠しのようだ。これはきっと「見つけられない」のではない、この山には「いない」のだ。

 

険しく淋しい山に一人で7歳の女の子が登っていくだろうか。

 

-----道志村キャンプ場に行く前、私はその女の子の情報をインターネットでできる限り集めようとしたが情報は流れてこなかった。

女の子を見つけようとしても顔も服装も判らなくてはどうしようもない、と出発をためらっていた。行方不明者がいるという情報だけで写真は未公開。----しかし5日目になってやっと顔写真が公表され私は道志村に捜索に向かったのだった。

              

                                  (写真公表は遅かった)

             

 

私がもっとも関心を抱いたのは美咲ちゃんという女の子が普通の小学校に通っている子なのかそれとも特殊な学校に通っているのか、だった。

-----子供の中には先天的障害で大人の常識では考えられない行動をとる子もいる。障害の程度によっては捜索の対応も違ってくる。しかし氏名と学年や身長体重、直近の写真以外の情報はなかった。-----じっと写真を見ると美咲ちゃんはごく普通の女の子に見えた。多分、知的障害はないのだろう。それが情報のすべてだった。

 

調理人の好意で沖縄のお菓子がサービスで運ばれた。奥さんが沖縄の人でボランティア参加者へのサービスだという

「ところで、今夜はどこか泊まる予定なの?」と調理人が尋ねた。私は

「この辺はキャンプ場がたくさんあるようなので適当なキャンプ場をさがします。テントも車にあるんで」と答えると

「ああ、それならこのすぐ近くにキャンプ場があるからそこでどうかな。----持ち主は私の知り合いだから頼んであげるよ」と話すのだった。私は今からキャンプ場を探すのも面倒で渡りに船だった。

「----ここのオーナーがそのキャンプ場もやっているんだ、聞いてあげる」

と、その場で電話を掛け事情を話してくれた。

「-----15分したらキャンプ場入り口で待っているって」という話になり場所を教えてもらった  。

                                    

 

キャンプ場は温泉からすぐ近くの場所にあった。道路を戻り一つ目の渓流にかかる橋を渡るとそこがキャンプ場だった。キャンプ場からはさっきの温泉が渓流越しに見える近さだ。

キャンプ場入り口で待っていると暗闇の中を軽自動車が近づき、女の人が

「すいませんね、お待たせして」と降りて来た。入り口を閉じていたチェーンを外すと

「さっ、今日はお宅一人だけだから好きなとこ車を停めてください」と場内の簡単な説明があった。

管理人の手で電源が入り、真っ暗だった敷地内は一気に明るくなった。ライトに照らされた女の人は私と同年代のおかみさんだった。

キャンプ場は車が20台ほど入る広場で中央に水洗トイレと簡易シャワー、洗面所を兼ねた調理場が1か所だけのこじんまりとしたキャンプ場だった。入口に料金表があり乗用車は1500円と書いてあった。

「朝早く出てしまうので、キャンプ料金、今のうち払っておきます」というとおかみさんは

「いやいや、結構です」と首を横に振り

「----行方不明の子、ボランティアで捜しに来たんでしょ?そんな人からお金なんか受け取れないよ」と固辞するのだった。

優しさに胸を打たれ、私は好意に甘えることにした。

「明日もここに車を置いて、この周辺を歩くつもりですが構いませんか?」というとニコニコして了解してくれた。

 

私は車の脇にシートを広げテントを張ると寝袋の中に体を横たえた。渓流の水の音だけが周囲を包んでいた。3か所の街灯がキャンプ場内を照らしていた。

時折、調理場付近から「ドン」という音が響いて来た。何の音かびっくりして確かめに行くと周囲の大きな木からの枯れ枝だった。調理場の波板屋根にぶつかりひと際大きく響くのだ。

枝の落ちる音に何度か熟睡を妨げられた。音が止むと、今度は渓流の音が耳にこだまするようになった。じっと目を閉じていると渓流の水音と自分とが一体になってくる。流れていく、流されていく自分になる。----美咲ちゃんはこの流れにどこか行ったのだろうか。明日は、渓流沿いに一通り歩こう。何度も短い眠りを繰り返し夜は過ぎて行った。

 

朝、目が覚めるとテントは朝露で濡れていた。テントから出ると渓流の流れは勢いを増しているように感じられた。

買っておいたパンと牛乳で朝食を済ませると荷物をトランクに片付け車に鍵をかけて出発した。

足元は登山靴、手にはステッキとサングラス、背中には飲み物とお菓子の入ったリュックサックと身軽だ。山に向かって歩き出すとすぐに坂が続き始める。時計は7時を過ぎたばかりで林道を走る車は数十分に一台通るかどうかの閑散とした林道で野鳥の声と自分の足音以外何もしない。

 

歩き始めて20分ほどすると林道の角からヘルメットをかぶった集団が突然にあらわれた。物音を出さない静かな20人ほどの集団で曲がり角から姿を現すまで人の気配が無くその突然のあらわれ方に驚いた。----それは迷彩服を着た自衛隊の捜索隊だった。こんな遠くを捜しているのは自分ぐらいと思っていたが彼らも可能な限り捜索範囲を広げていると知ってびっくりした。

そこは失踪地点から4Km以上離れている林道で、彼らは長い棒で草むらを掻き分け遺留品を求め歩いていた。集団が手にしているのは家庭菜園に使われている1,5メートルほどの緑色の支柱棒だ。我が家にあるのと同じ棒でそうと分かった。隊列の先頭には地図を手に方向を確認するリーダーが、最後尾には無線を背負った隊員、彼らの統率された動きにさすが自衛隊だと感心した。

おそらく地区の木材集積所と作業広場なのだろうが彼らは山深い地に臨時駐屯地を設営していたのだ。大型トラックが数台停められる広さでテントも数棟が設営されていた。こんなところにこんなにも広い空き地があるのか、さすが自衛隊は事前調査が早いと驚いたものだった。

                             

延々と林道を歩いた。ある場所を通ると、そこは建て売り別荘地帯なのだろうが夏の間だけ過ごす小屋のような小さな住宅が集まっていた。営業を停止し廃墟になった娯楽リゾート施設もあった。林に囲まれ何もない地帯がほとんどだった。道志村は山と渓谷の地帯だった。

しばらく歩いているとさっきすれ違った自衛隊が別の方向からやって来た。隈なく様々な方向から林道を調べているのが判った。緩やかないろは坂のような斜面に来ると一列だった隊列は数メートルの間隔をあけ一斉に斜面を降り始めた。「列」から「面」での捜査に変わったのだ。

 

                           

そうだ、こうでなくっちゃ大人数が活きないもの、と感心した。

 

ところが、隊員が斜面を半分も下りない時点でリーダーは「はいっ、そこで終了。戻れ」と声を掛け全員戻らせるのだった。

一応斜面を全員で捜したという事らしい。自衛隊も与えられた捜査地域をスピーディに効率よくこなす事が要求されているのか何とも早い捜索終了だった。

「一応、どの地区も捜査はした」という事なのだろう。リーダーらしき隊員はその場で地形図に色を染めるとチェックを入れていた。

 

昼になり本部テントに着いた。昨日進んだ方向から反対に歩いてきたことになる。

困ったのは食料を1食分しか持ってこなかったことだった。朝のパンがその一食だった。

本部テントには捜索協力者への差し入れ用おにぎり、お菓子が置かれていた。しかし、こんなものはボランティアで参加している人が食べるべきものだ、私なんかが、と断ろうと思ったが私もそのボランティアの一人だと我に返った。食べなければエネルギーがなくなる。近くに店はない。心苦しかったが2個のおにぎりを頂いてその場で胃に送り込んだ。肉体へのガソリンだ。

この日は金曜日だった。金曜から土曜、日曜とボランティアの人たちが多数駆けつけるのだろう、本部は昨日より混雑する気配だった。

やはり本部に女の子発見のニュースはなかった。唯一の届いていた真新しいニュースは、その朝、近くでクマの目撃情報があったことで、どの辺でクマが出たのか聞いてみると、何と、私がテントを張っていたすぐ近くだったらしい。知らぬが仏とはこのことだ、危ない地区を歩いて来たものだ。

 

休憩の時間はおにぎりを食べている数分間だけで、渓流の流れる場所に降りてみた。

道志川は川底の見える澄んだ清流だった。膝ほどの水深が川幅全体を覆い無数の大きな石が飛び石のようにあちこち頭を出し、仮に流されても確実に石に引っかかり流されにくい渓流だ。水難事故の可能性もなくはないが、万が一にしても確実に発見される渓流だった。

                       

その万が一を確かめるため戻りは渓流沿いをキャンプ場まで歩くことにした。数キロ、川面を見ながら歩いたが川底迄澄んで見える流れがゆったり流れているだけだった。日差しの中を5時間ぶりにキャンプ場に戻ると昨夜ここに来た時のように入り口にチェーンを掛け開いたままになっていた鍵を閉めると自宅まで車を走らせた。

徒労だった。結果は出なかった。いったい何処に行ったんだろう、美咲ちゃんは。

 

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あれから2年以上が経過していた。

今年の4月、ゴールデンウィークの始まりの頃、道志村キャンプ場で人の骨らしき破片が発見されたというニュースが伝わった。2年8か月が経っていた。

捜索が再開され、日を追うごとに骨は子供のものらしいとか、その時に美咲ちゃんが履いていた靴も見つかった、と発見が相次いだ。5月中頃になり美咲ちゃんの骨であると鑑定結果が出た。発見場所は最初の情報と違った方向だった。

 

---なんであっちに行ったんだろう。最後の目撃情報と違う方向じゃないか。最初の情報がもっと詳しかったら、あの日見つけられたかもしれない。-----何が美咲ちゃんにあったのかは謎のままだ。

 

これが私の道志村キャンプ場の思い出となった。

事故なのか、事件なのか、誘拐なのか。いつの日か真実が判る日が来ればと願っているのだが-----。

             (写真の一部はインターネット中のものを転用しました)