仙骨に秘められた力、中真感覚で生きるとは
内海 康満
中真道講和から抜粋
仙骨に秘められた力を引き出すMRT
そもそも「仙骨」とは、仙人の骨と書きます。仙人というのは万能という意味で、何でもできる人のことです。ですから仙骨は なんでもできる骨であると言う意味で、その名称が付いているのです。
英語でセイクラム(sacrum)と言いますが、それはシークレットという語源から来ていて、「シークレット・ボーン」つまり「秘密の骨」ということです。明かしてはいけないもの、あるいは聖なる骨という名称をつけている訳です。このように洋の東西を問わず仙骨は大切な骨で、明かしてはならないものとされているのです。
また、チベットあたりでは、仙骨を非常に大事にする信仰が三〇〇〇年ほど前からあったのですが、絶対に明かしてはならないものとされているのです。
もし解明すると、人間が素晴らしいものに進化して、国民が皆、賢くなってしまいます。ところが、それは時の支配者にとっては都合が悪いことですから、「ここを解き明かしたら、死んでしまうぞ」といって怖がらせて秘密にしてきた訳です。
仙骨を封印するのと同時に、「人間に大事なのは頭脳だ」と言って、頭脳教育の系統を進めて来たものが現代の教育です。
ですから、学校で頭脳に詰め込む勉強をすればするほど、実はどんどん本来の機能が失われて、無理にさせられてしまうのです。でも、それを賢いと思わされる染脳を受けていますから、「俺は通知表がオール五で賢い」と自慢してしまうのです。
そして、そのような頭脳教育を受けた人が戦争をしている訳です。戦争を仕掛けているのは、皆、世界のトップレベルの頭脳教育を受けている人ばかりです。しかし、仙骨の教育は誰も受けていません。
MRTでは、その仙骨の力を理解し、少しずつ引き出していくことをしているのです。ただし永い間、眠っていた機能ですから、一挙に引き出そうとすると、今までの概念を急に全部変えなければなりません。
それでは大変なことになりますから、ゆっくり引き出していくほうが良いということで、MRTの治療をしているのです。
MRT治療を受けると、今までの考え方がどんどん変わってくることがありますが、それは当たり前のことです。過去に捨てなければならなかったものを、たくさん身にまとっている訳ですから、それが取り除かれていく訳です。
そして本来の仙骨の動きを取り戻すと、気持ちもスーッとして囚われるものがなくなり、お金や物資などどうでもよくなってくるのです。
普段から仙骨を意識して生活していると、日常の諸問題などは簡単に解決することができるようになります。逆にそれを邪魔しているのが現代教育なのです。
特に歳を取ると、段々と既成概念で凝り固まってしまいがちになりますから、なるべく自由な若い人と話したりして、交流をもって生活されたら良いですね。
中真感覚とは…?
皆さんは、ちゃんと日常に中真感覚を使っていますか?
私は動くとき、食事をするとき、座るとき、寝るとき、全て中真感覚で行っています。どこから中真感覚を使っていて、どこまでは使っていないかということがないのです。
よく勘違いされるのですが、中真感覚を使っていても、物を落とすことはあります。そうすると、「中真感覚でも、落とすのですか?」と思われるかも知れませんが、中真感覚と完璧は違うのです。物を落とすのは、物が落ちるという法則があるからで、逆に落ちなかったらおかしいのです。避けられるとか、落ちる途中でパッと取るという器用なことは、単に訓練してそうなるだけです。そんな曲芸まがいのことを中真感覚と言っている訳ではありません。中真感覚をわかって行動するのと、わからずに行動するのでは、同じことをしても結果と理解が全く違うのです。
例えば、ここで椅子に座り損ねて転びそうになっても「先生は中真感覚と言っているのに、何で椅子から落ちるの?」と思われるかも知れませんが、私は別に恥ずかしいとは思っていません。なぜならば、椅子の隅に座れば倒れるのが当たり前だからです。「これは中真感覚が働いているからこそ、倒れるのだ」と理解しますから、何も恥ずかしいことだとは思っていないのです。また私は腰が重いときは、弟子の前でも平気で寝ながら話をします。腰が重いのに無理して座るよりも、自分が楽な姿勢を取ります。
ですから、皆さん、まだまだ自分の勝手な概念で中真感覚を捉えているようで、何かロボットのようにキチンとする窮屈なものだと思っているから、なかなか実行できないのです。同じように椅子から転ぶということを体験しても、「中真を狂わされると倒れる。中真感覚が働いている法則があるからこそ、転ぶのだ」ということがわかっている人と、中真感覚を知らずに「椅子に座り損ねて恥をかいた」という捉え方では、全然違う訳です。
ですから、転んでも構わないし、ミスをしても良いのです。そのことが中真感覚に結び付いているかどうかが大切なのであって、中真感覚は完璧でミスをしないということではないのです。
自分の感覚に従う
これはある人の実話なのですが、500人以上の方が亡くなった1985年に起こった日航機墜落事故の便に乗る予定の人がいたのです。飛行機に乗ろうとして、受付のカウンターの列に並んでいると、急に激しい腹痛に襲われ、乗らないなら譲ってほしいという人に乗車券を譲り、トイレに行って、出た途端にあれほど激しく痛んだお腹が収まってしまい、それから数十分後に、あの墜落事故が起きたのです。その方は「私は腹痛のお陰で助かりました」と言っていたそうです。
ですから、そのまま頭脳を使った行動を続ければ、自分の生命がなくなってしまうというか、生か死かの分かれ目の場面でパッと中真感覚の回路が働くことがある訳です。
アメリカでの九一一のテロ事件で、高層ビルに飛行機が衝突したときも、明暗が分かれた人がいました。何か不安になって、そのままエレベーターで下に降り、外に出て後ろを振り向いた瞬間にビルが崩れ落ちたという人もいます。
これこそ中真感覚のなせる技で、そこで頭を使って「この仕事を何時までに仕上げなくては…」といって仕事をしていたら、その人の命も失われていたのです。
このように日常で頭脳ばかり使っていると、いざというときに中真感覚の回路が働かないか、もしくは働いてもそれを抑え込んでしまうようになります。
この会場で非常ベルが鳴ったら皆さんはどうしますか?他の人が逃げているから、一緒に自分も逃げようとして行動するのは、頭を使った行動だから駄目です。逃げるにしても、自分の中真感覚に従って逃げなくてはなりません。
抜粋者からの一言
もし、私が若いときに中心感覚を磨いていたら、学校で勉強しても続かず、就職しても続かず、きっとニートになっていたでしょうね。しかし、助産師で約40年間も仕事を続けられたのは、中真感覚がなかったからなのでしょうか?
昔の世界は今よりもまだ、中真感覚で働くことができたように思います。失敗しても周囲が許してくれて、寛容な心があったと思います。それが、今の世界では、失敗を許してくれない世の中になってしまって、中真感覚で働きにくくなってしまったと思われます。
いつからそうなったのでしょうか?ヒヤリ、ハッとの申告をするようになってからのように思います。自分の行動にミスを犯したら、記録、申告をしなければいけなくなって、働きにくくなって来ました。でも、それが果たして悪いことなのか?患者の取り違いや薬の量の間違い等、危険な事件が増えてきて、致しかなかったと思います。これも次のステップの壁なのかもしれません。でも、間違わないで行動しようと思えば、神経は擦り減るし、確認作業が増え、申し送りの時間も確認作業が増えてしまって、数人で確認したにも関わらず、間違いを何日も続けてしまうことも多くあり、上司は怒り撒くって、さらに臨時会議を開き、何時間もお説教を聞く羽目になり、もう、叱咤かメッチャで、ほとほと仕事が嫌になってしまいます。それでも、続けられたのは、仕事が好きだったからでしょうね。お金だけが目的であったなら、絶対に他の仕事をしていたと思います。
でも、今の世の中を壊しているのは、お金です。お金には厳しいルールがあるようです。借りたら返す。返せないお金もあります、それを借りてしまったものなら、一生奴隷の生活から抜け出せません。脱け出そうと思って逃げても、結局、殺されてしまいます。あしながおじさんは闇の権力者なのです。お金のルールが分かっている人だけが、真の自由意志で生活ができます。
今の壊れかかっている世の中は、お金が原因であります。お金の奴隷になって生きるか、お金から自由になって生きるか、どちらかを選択する時なのかもしれません。どちらにしても死ぬのは同じなのですが、来生も奴隷にならないため、今の生き方が大切であると思います。