「わかってくれない」と悩んでいる人へ | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

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人間関係において、つきものなのは、「自分の思いをわかってくれない」という悩みです。
職場、恋愛、趣味の関係。
至るところで「わかってくれない問題」が発生します。

私は創価学会の家に生まれ育ち、20代前半まで創価学会に毒されておりました。
創価学会ですから、布教(折伏)が熱心なわけです。
私もやりました。
今、思えば当然なのですが、相手はそれを拒否するわけです。
その時、私の中に生じる思いは「なぜ、こんなに正しい宗教なのに、わかってくれないのか?」です。
これをお読みの方の大半は、即答するでしょう。
「お前が間違ってるからだよ」と。

釈尊は、若き時、悟りを開いた後に、その悟りの内容(法)を人に語るべきか、語るまいか迷ったそうです。
「語った所で、世間の人は毒され過ぎている。法を説いたところで、徒労に終わるだけだ」と。
ここからは神話的になります。
梵天(バラモン教で言うところのブラフマンを象徴化した神)が釈迦に、ある光景を見せるのです。
それは様々な蓮華です。
泥の中にあって、つぼみのままの蓮華。
泥の中で、咲いてしまった蓮華。
しっかりと泥の上で咲いている蓮華。
これは、全ての人が愚かではない。
中には、しっかり咲いている蓮華のように、法を受け容れる余地のある人間も存在しているという事です。
これによって、釈尊は、布教する事に決めたという事が、古い経典(阿含)に書いてあります。

ある夫婦がいます。
夫婦には子供が二人、おります。
二人とも大学に進学させたいという願いは、両親共通の願いです。
ですが、夫には、そのために充分な給料がありません。
奥さんは、出産を機に退職し、それからずっと専業主婦です。
普通の事務員だったので、技術も資格も無く、また、まだ子供に手がかかりますので、週に三日、レジ打ちのパートに行くのがやっとです。
そこで、夫に言います。
「もっと残業してよ。もっと昇進して稼ぎを上げてよ」と。
夫としては、これ以上、残業したら死ぬくらい働いていますし、労働組合には入っていますが、組合が機能していません。
某大手企業の系列会社であり、その大手系列からの出向組だけが、副部長以上になる事が可能であり、その夫を含め、会社に直接雇用された者は課長止まりです。
夫は既に課長であり、それ以上の昇進も無く、賃金も、ごくわずかな定期昇給。賞与も、どんなに頑張っても、規定された分しか支給されません。
だから、夫は妻に、「これ以上、稼いで来るのは無理だ」と言います。
そして、夫婦は、お互いに「わかってくれない」と思っているのです。

最初の、私が創価学会員時代だった頃の「わかってくれない」は、自分が間違っているからわかってくれなくて当然なのです。
二番目の釈尊の「わかってくれない」は、自分が正しくても、周囲が毒され過ぎて、なかなか理解されないパターンです。
三番目の夫婦の場合は、お互いに一理あるが、お互いに無理解というパターンです。

つまり、「わかってくれない」には三通りあるという事です。
まずは、そこをしっかりと見つめ、自分に非があるのではないかと疑ってみる事です。
次に、釈尊のように、自分が正しいとしましょう。
自分は正しいが周囲が無理解であると。
この場合、私の結論を言いますと、「わかってくれなくて当然」と考えよう、という事です。
イエスの物語(私は聖書を史実と考えていないので、あえて物語と書きました)には、イエスが十字架にはりつけになる際、最後まで付いて来たのは、女性信者二人です。
あれだけ、たくさんの人に尊敬のまなざして見られたイエスなのに、最後まで付いて来てくれたのは女性二人。
残りの人間は保身です。
後に、イエスの弟子たちが布教をしますが、あくまでも死後の話です。

人間社会と言うのは、「出来た」人と「出来ていない」人では、断然、後者が多いのです。
全員、出来ていない人ならば、ラクです。
全員が堕落しているのですから。

しかし、人間社会には、突然変異のように、たまに「出来た」人が現れるのです。
大勢いる職場なら、一人くらい、出来た人がいると思います。
ですが、どの人が「出来た人」か見抜けるのは、出来た人です。
ですから、今、私は非常に難しい話をしています。

人というのは、自分が一番、出来た人のように思え、周りが皆、クズに見えるというのが標準仕様です。
自分が釈尊やキリストで、残りはカスです。
そういう見え方をしているというのが、人として当然なのです。
しかし、大半の人のこの見え方は、もちろん間違っています。
大半は、自分だってカスです。

ですが、マレな事ですが、完全に、自分が人格的に秀でているという事があります。
これは、自覚出来ます。
そういう人は、他人からも、そのような指摘を受ける事が多いですから。

釈尊を傲慢不遜と思うでしょうか?
人によって解釈は異なるでしょうが、私はやはり、釈尊の人格は秀でていたと思います。
そして、それを自覚していた。

こういう人物って、一定数、世の中に埋没していると思います。
色んな場所に。
そして苦しんでいるでしょう。
当然です。
周囲は「出来ていない」人ばかりなのですから。

明智光秀は、織田家臣の中では、出来た部類の人物だと思います。
だから、かなり葛藤したと思います。
まさに、織田は第六天魔王の如き策動をしていましたから。
その中で、悩みに悩んだ結果、本能寺の変になったわけです。

明智光秀の子孫の書いた本に、こうありました。
本能寺の変の後、盟友の細川でさえ明智光秀に援助してくれなかったのは、足利幕府再興などと言う、時代に逆行した事を言ったからである。
もし、「俺が天下を取る」と光秀が言ったならば、協力者も出たであろう、と。
そうかも知れません。
徳川家康も、本心では信長を嫌っておりましたから、光秀から「天下を獲りたいから力を貸してくれ」と言われれば、協力したかも知れません。
好人物なだけではリーダーとしてはダメで、リスクを背負って、喧嘩する勇気が必要なんです。

ともかく、人間的に秀でた人物ほど、人間関係に苦労します。
この場合、周囲をコントロールしようとすればするほど、もがけばもがくほど苦労するのです。
釈尊は凄かったです。
「無我」という信念が凄かった。
「無我」とは、「アートマンは無い」という意味ではありません。
「あなたの考えるようなアートマンでは無い」という意味です。
あえて「無」を頭につける事で、固定観念を打破しようとする印度人の知恵です。
例えば「白人の肌は白く無い」です。
実際、白人は真っ白ではないでしょう。
「白人=白」という概念を「無」を付して崩します。
この論理を理解して、般若心経を読むと、良く理解できます。
ちなみに、般若心経とは「真理は考えてもわからないよ。祈ってはじめてわかるんだよ」という内容です。

「無我」には、もう一つの意味があります。
「思い通りになる事なんて、何一つ無い」という事です。
自分の病気すら、思い通りに治せない。
自分の老化すら、止められない。
酒もやめられない。
タバコもやめられない。
ならば、どうして他人を思い通りに動かせると言うのか?
こうした考えが、釈尊にはあるのです。
最古の経典「スッタ・ニパータ」に頻発する語句があります。
「サイのツノの如く、ただ一人歩め」
サイが歩く時、全身は草原に隠れて見えませんが、鼻から生えた一本のツノだけが、ゆったり、ゆったり歩いているように見えます。
このように、群れる事を好まずに、一人でいる事を楽しめと、釈尊は言います。
もちろん、釈迦教団はありました。
ですが、それは「群れ」ではなく、あくまでも、一人一人が自立している事を前提とした上での共同生活です。

釈尊は多くの人に法を説きました。
ですが、わかってもらえるなんて、思っていません。
わかるように話す努力はしますが、わかってもらえなくても当然という前提での法話です。
ですから、ただ「語る」のみです。

職場で、自分は正論を言っているのに、周囲が協力してくれないと嘆いている人もいるでしょう。
そういう時は、それが当然だと思う事です。
しかし、そうであっても正論を語り続ける事です。
そうすれば、ロウソクに、一本、また一本と火が着いて行きます。
やがて、タイマツのような炎になるかも知れません。
ですが、それは期待しない事です。
最後に、イエスになるような事も覚悟して、正論を語る事です。
そうすれば、何も怖くないし、イライラもしません。

釈尊は言います。
感情的になるなと。
怒りや悲しみは無論。
喜びに関しても、爆発させない。
なぜならば、禍福はあざなえる縄の如しだからです。
いつでも平常心です。

私は創価学会員でした。
創価学会員であっても、法華経二十八品を通読する人は少ないです。
私は何度も読みました。
素晴らしい経典とは思えませんが、中には面白い事も書いているのです。
たとえば如来寿量品です。
釈尊はこう言います。
「私だけが仏陀なのではない。仏陀はどこにでも存在し法を説いている。過去においても、未来においても、人の存在する所に仏陀はいる」と。
かなり意訳しましたが、こんな感じです。
(学者でこの意訳を否定する人は居ないと思います)
これは法華経だけに説かれている事ではありません。
他の経典にもありますし、そもそも、釈尊以前から存在したバラモン教が、そういう教えです。

もし、この宇宙に「究極の真理」というものがあって、それにあなたが気づいてしまったとします。
人に説き聞かせたい。
でも、奇人変人と思われるだけで、誰も相手にしないでしょう。
お金をとってセミナーをやるなんて言い出したら、余計に、人は遠ざかるでしょう。
お金なんて欲しくない。
ただ、もし、人が、この真理を知り得なかったら、苦しみから解放される事は無い。
だから、「火事だー!」と大声で町中に知らせるように、この真理を知らせたい。

もし、そういう心情であるならば、ただ語るしかないんです。
日蓮が辻説法したように、人が聴こうが聴くまいが、語るしか無いんです。
政治家の街頭演説と同じです。
独りで、みかん箱の上に立って、語るんです。
全員に無視されても。
そして、こう思う事です。
「私と同じように、こうして真理を語っている者が、世界中にいる。過去もいたし、未来もいる」と。

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