私は今、夢想願立という武術を復元しています。
詳しい事はプロフィールをご覧ください。
今回はその剣術について書いてみたいと思います。
参考にしているものは、武術研究家の甲野善紀先生の著書にある願流の伝書と、柳生心眼流の島津兼治先生が寄稿された雑誌の記事の資料です。
これをもとに私のトレースの技術で技を復元する事を今年いっぱいくらいかな、してきました。
正直、僥倖してもこれだけ時間がかかるんだと自分の至らなさを実感していますが、今の段階で分かった事を簡潔に記したいと思います。
今までの理解の変遷を詳細に書くとめんどくさいからです。
夢想願立を開いたのは松林無雲先生という人で、今から400年くらい前の江戸初期の武術の達人です。
曰く神妙不思議な剣を使い、その動きは「飛跳の神速、排撃の変化けだし人力の良くするところにあらず」、と評された方です。
私のトレースによると、松林先生の技は噫戦眼というたった一つの技から派生しています。
「おくせんがん」と読むのか「あいせんがん」なのか、どちらでもないのか、読み方はわかりませんが。
全ての動きはこの噫戦眼から離れません。
伝書にはこれが愛宕神より夢中で相伝された向上極意であるとされています。
松林先生はこの噫戦眼から全ての技法を発展させたと思われます。
私は最初は伝書の順番通りに居合からトレースしていました。
私は動作ではなく中身を再現します。
中身の動きの再現度は動きの手順よりずっと正確に最初からわかります。
でももちろん体はその時の私の体なので、その時に可能な動きの限界しか出来ません。
だから体が変わってくると徐々に見た目に現れる動きも正確になっていきます。
正しくない動作は違和感があったり、バグったみたいに何度も同じ動作を繰り返したりするので間違ってると何となくわかるようになりました。
最初の方は稽古が終わって鏡を見たら目が真っ赤に充血していたなんて事もありましたし、体の変化の変遷はいちいち書いていられません。
それで行き詰ってくると居合をやめて剣術のトレースを始めたり、それが行き詰まると捕手(トリテと読み、柔術が生まれる以前の体術)のトレースをしたりしていました。
そうしてようやく噫戦眼に手をだし、これがこの流派の技術の核心で今までトレースしてきた動きは全部この動きなんだとはっきりわかりました。
夢想願立流にはいくつかの武術の影響が見られます。
例えば剣術の各技の導入部分の構えは全部違っています。
これは今の古武術には多分ない事だと思います。
剣を腰の後ろに構えたり、棒術の構えの影響が見られたりします。
不動印天という技からは、全て一旦片膝をついた姿勢をとり、剣術は全て前後に一回ずつ繰り返す構成になっています。
実際に宮本武蔵と戦った神道夢想流杖術の夢想権之助に師事したという記録もあります。
しかし今伝わっている神道夢想流杖術には似ていないのが不思議です。
どちらかというと各地に伝わっている古流の棒術の構えに似たものが多くあります。
あと、影響が見られるのは構えだけで、動きは噫戦眼を基礎にする独特なものだと言えると思います。
形の最初に必ず噫戦眼やってから各技に入っていきますし、各技も原理は噫戦眼から離れるものはありません。
そんな事が出来るなら昔の神道夢想流もトレースすればわかるだろと思う人もいるかもしれませんが、「そんな簡単に言ってくれるなよ。」としか言えません。
いわゆる相手をする敵手側の動きはまだ殆どトレース出来てないのでわかりません。
細かい所では鯉口を人差し指できったり、納刀は鞘を内側からもってひねって柄を回転させて反りを下にして納刀します。
柄の回転も特徴的ですが、以前書いたんですが、噫戦眼をトレース出来た後は突き技は減りました。
そういう技術の変遷があるので、どの段階で語るのか難しいんです。
抜刀の後は刀を立てて刃を自分側に向けます。
同じ様な動作がある鹿島新当流では確か自分の精神的な悪を切るとか、そういう話だったと思いますが、この流では密教の護身法的な意味合いがあります。
何故そう思うかというと、刀で密教の護身法的なものはないかとトレースしたら同じ動きが出たからです。
刀の握り方は意識しません。
刀の握り方というのはこの流派に関わらず本来「結果」であって「こうして握る」というものでは無いというのが色々僥倖して得た私の結論です。
体の内面の使い方によって持ち方や持つ位置が変わる、結果が見た目に現れているだけだからです。
流派によって持ち方が違うのは元々は体の使い方が違うからです。
体の大本を変えれば勝手に持ち方は変わります。
願流の柄を握った感覚は一言で言うと「自然」でただ普通に握っている感じです。
願流は手の人差し指、中指、親指が張りますが、ずっと張っているのではなく、張りが小指、薬指まで一周して最終的に手首から先は緩むので普通の感覚になるのです。
例えば陰流系統は小指、薬指が張るので、そのまま柄を握ると人差し指と親指が開いたように持っているように見えます。
人差し指と親指の間を虎口といいますが、陰流系統の握りを見て意識して虎口を開いて持ったら、見た目は似ててもそこで終わってしまうのです。
だから結果が見た目に現れていると捉えたほうが良いんです。
(2020/02/29追記、ただし手の内は意識する必要がある事が新たにわかりました。それによって動きの質が全く変わります。柄の持ち方に非常に特徴がある事がわかりました。これによって柄を回転させる動作が消えました。)
握る幅も指一二本開けてもったり、左手は柄尻にぎりぎりに行くこともあります。
まだはっきりとは言えませんが早い連撃を行う時に両手を額のあたり置いたまま何度も技を繰り出す運速剣という技があり、その時は左手の掌心が柄尻あたりにきます。
願立剣術物語という伝書に刀の持ち方を「器物に水を入れて敬って持つ心地なり」とありますが、私はずっと内面的な比喩表現だと思ってましたが、ひょっとするとそうじゃないかもしれません。
運速剣や他の技のトレースをもっとしないと、動きが変わる可能性もあるので結論はまだ出せませんが。
最大の特徴は手を振ったらそっちに体がすっ飛んでいく体になるという事です。
手だけを意識し、手だけを動かす事で体を移動させます。
特に向上極意の身間明剣や平天狗という技で最初の頃は部屋の対角線上を行ったり来たりして遊んでました。
止まる時にどうしても足が擦るので靴下や足袋がすぐにオシャカになるので、何かおかしいと思ってました。
それに垂直方向への跳躍力が一向に向上しないので何か間違ってるんだろうと思っていました。
それで噫戦眼を知り、全ての動作が噫戦眼だとはっきり理解出来たことで、少し跳ねるように移動する方が正しいと分かり、体力の消耗も減りました。
(また、これも非常に特徴的ですが、切っ先に力点がいかないように剣をふります。
なので最初のうちは剣を振っていて非常に頼りなく感じる場合もあるかもしれません .2020/01/21追記)
松林先生は「他所を覗く事なく」この流儀を愛宕神の夢中相伝によって作ったと伝書にあります。
これは間違いないと思います。
全ての動きが噫戦眼だからです。
だから他流を学んだ事が無いという意味ではなく、他流の技はもちろん見て学ばれた事はあると思いますが、それを全て噫戦眼の原理で一新されているので、そういう意味で「他所を覗く事なく」作ったとおっしゃられたのだと思います。
ここは松林先生は嘘つきではないぞとはっきり擁護しないといけない。
だからこの流派は見て盗むのは無理だと思います、全部噫戦眼だから真似したらそれは無想願立そのものになってしまうからです。
以上ざっとですが、
改めて文章にすると怖くなりますね。
自分が完全にイっちゃってるような気になってきました。
でも大したアクセス数も無いブログなので別に良いかと思って気軽に書いてみました。
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