『思い出は
いつまでも美しく語られる』
とかく総じて
このように言われ、
過去の話は、
懐かしむものだけ、のように
扱われてしまうことが多いですが、
決して、
その場に
いつまでも美しく佇んでいる、
ただそれだけの
ノスタルジーではないのです。
1968年10月24日。
1985年10月26日。
前者はメキシコ五輪、アステカにて、
日本代表が銅メダルを獲得した日。
後者はメキシコW杯、国立競技場にて、
日本が韓国に破れ、あと一歩でW杯初出場を逃した日。
共に『メキシコ』にまつわる
日本サッカー史上に残る名舞台に
志の会 理事長である森孝慈は、
選手として、監督として、
立っていました。
1968年の銅メダル獲得から、
12年近い時間が流れたものの
その後の日本は結果を出せないまま、
苦渋の時代を過ごします。
そんな中、
現役を終え、
指導者としての道を歩み始めた森さんは、
ケルン留学の後、
1981年3月19日、
日本代表監督に就任します。
当時の日本代表選手は、
日産、読売、といった、
プロではないけれど、
選手としての立場に理解があり、
日本代表に招集がかかっても
会社からは、
それなりの待遇や手当、環境があったチームと
三菱、古河、新日鉄等、
社員としての職務と選手とを兼務し、
日本代表に招集がかかった際に、
会社からの待遇や手当などが、
なかなか厳しい環境であったチームとがありました。
このような中、
『日本代表』に選ばれる、
という事に対する意識の差異が
選手間には大きくあり、
まず
代表監督就任1年目は、
選手が『日本代表である』という
自覚と誇りを持つことを
徹底して促し続け、
多くの時間を費やしたそうです。
また
森さん自身も、
選手達が
『日本代表としての自覚と誇り』
を持てる環境や待遇の整備を
積極的に推進していきます。
そして、森全日本になって5年目
1985年のメキシコW杯予選において、
森さんは、選手達に呼びかけます。
『今はまだ、
メキシコ五輪で銅メダルを取った選手達が
エポックとして、語られ続けている。
しかし、今度は、
我々が、ここから、
新しいエポックを創って行こう。』
1981年に監督就任以来、
なかなか、
結果が出せなかった森全日本でしたが、
5年の歳月をかけて、
ひとつになったチームは、
メキシコW杯予選大会において、
素晴らしい快進撃で勝ち進み、
試合を重ねる毎に、
観客数は増え、
ついに最終決戦、
1985年10月26日の日韓戦。
国立競技場は、
満員の観客で埋め尽くされます。
テレビの実況は、
1月11日の司会進行を御願いした山本浩氏、
解説は、メキシコ五輪銅メダリストで志の会理事の松本育夫さん。
「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、
メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」
山本さんの、
この試合におけるオープニングの名台詞。
メキシコ五輪以来の快挙を目前に、
多くの観客の一心の願いを代弁したような
ポエティックな表現は、
多くの方々の、ご記憶に残っている事と思います。
そして、
ゴールに吸い込まれる様に決まった
木村和司選手の
素晴らしいフリーキック。
ピッチ上の選手も
スタジアムの観客も
ひとつになって、
勝利を祈り信じましたが、
結果は、韓国の勝利となり
メキシコの青い空には
あと一歩、及びませんでした。
森さんは、
この最大の敗因は、
やはり「プロ化の有無である」と、
長沼さんに進言されたそうです。
当時1985年の日本においては、
プロ選手制度はなく(※1)
監督コーチ、スタッフも、
日本サッカー協会との専属契約ではなく、
企業からの出向でした。
しかし、
森さんの進言を受け入れる財政は、
まだ、当時の日本サッカー協会にはなく、
森さんは日本代表監督を降り、
三菱重工業に戻ります。
そして、
次の日本代表監督
石井義信氏が辞任した後、
横山謙三氏への代表監督就任依頼が
横山氏の所属先であった「三菱重工業」に届きます。
そのときの三菱重工窓口が
人事部課長の森さんでした。
そして、
三菱重工業に訪れた
技術委員長の平木さんを前に、
森さんは、
横山氏の年俸のいくらかを
協会が三菱重工業に支払う事を提案します。
その翌日、
協会から承諾の返事が届き、
横山監督誕生とともに、
まだ、完全ではなかったものの、
初めて、
協会が代表監督に対して年俸を出す、
言わば、セミプロのような
代表監督が誕生しました。
その後、
森全日本の選手達は、
現役を引退し、
指導者として、
協会の要職として、
日本サッカー界に功績を残して行きます。
加藤 久氏は、
日本サッカー協会強化委員会にて、
強化委員長として指導マニュアルを作成し、
1996年、アトランタにて
見事に28年ぶりのオリンピック出場を果たします。
山本昌邦氏は、
1996年のアトランタオリンピックには
日本代表コーチとして参画し、
『マイアミの奇跡』と呼ばれる
ブラジルを破る快挙を果たした他、
U-19の監督として
ワールドユースでベスト8の結果を残し、
1998年からは、
日本代表コーチとして、
シドニーオリンピック ベスト8、
アジア杯レバノン大会優勝、
2002年W杯ベスト16他、
好成績で日本サッカーの強化を推進しました。
岡田武史氏は、
1997年、日本代表監督として日本代表初のW杯出場を果たし、
2010年は、再び日本代表監督として
決勝トーナメントに出場、ベスト16を果たしました。
原博実氏は、
現在の日本サッカー協会技術委員長であり、
2010年W杯ベスト16
ザッケーローニ監督を招聘し、
10月のアルゼンチンとの親善試合での勝利、
1月のアジア杯での優勝と、
更なる日本代表の強化を牽引する
重責を担っています。
その他に、
横浜Fマリノスの監督である木村和司氏、
松木安太郎氏、
都並敏史氏、
金田喜稔氏、
水沼貴史氏、
柱谷幸一氏、
田中孝司氏、
前田秀樹氏、
他にも
たくさんの皆さんが、
指導者として、
解説者として、
様々な形で
日本サッカー界を支えています。
メキシコの青い空には届かなかったけれど、
国立競技場の観客は、
多くの感動を共有し、
その感動は
美しい思い出として
いつまでも語り続けられる、
しかし、
彼ら、森全日本のメンバーは、
そこで、終わった訳ではないのです。
彼らの目標は、
メキシコの青い空から、
更なる未来の夢、目標に向かって、
ちゃんと歩み続けているのです。
森さんの気持ちは、
メキシコ五輪から、
メキシコW杯予選まで、
そして、その先にも繋がっていて、
森全日本の選手の皆さんの気持ちも、
メキシコW杯予選から、
その先、今に至る迄、
ずっと、繋がっているのです。
思い出は、
いつまでも、
その場に佇んでいる訳ではなく、
多くの気持ちを載せて、
後世に
ちゃんと、繋がって
そして、受け継がれているのです。
私たち、志の会は、
このような
日本サッカー界の歴史の中で、
日本サッカーの向上と発展に寄与された
多くの皆さんの
様々な歴史と想いを
しっかりと後世に語り継ぎ、
それを
しっかりと
若い皆さんの心に留めてもらいたい、
そして、
自身に出来る事を
しっかりと受け止め、考えてほしい
このような想いもあって、
『長沼健さん回顧展』を
巡回事業をすることに致しました。
『長沼健さん回顧展』を通して、
長沼さんの姿、
人生を照らし見つめることは、
その素晴らしい機会となるはずです。
長沼さんは、
23歳のときに参加した
ドルトムントでの
国際学生スポーツ週間(現ユニバーシアード)によって、
世界のサッカーと環境を知り、
スポーツの大きさ、
サッカーの世界の広さを実感したそうです。
そのときの想いが繋がって、
東京五輪のベスト8、
メキシコ五輪の銅メダルを呼び、
長い苦境の時代を越えて
2002年のW杯招致を導きました。
回顧展を巡回しながら、
長沼さんのサッカー人生とともに、
長沼健さんの思い出を
美しく語るだけでなく、
多くの若い、
これからの日本サッカーを担う皆さんに
今迄の日本サッカー界を支えて来た
長沼健さんと、
長沼さんと共に歩まれた、
たくさんの方々のサッカーに対する真摯な想いを
伝えて行きたい、
そう考えております。
(※1)
1986年のシーズンから
「スペシャルライセンスプレイヤー制度」ができ、
「プロ」「プロフェッショナル」という文言はなくとも、
実質的なプロ選手が誕生しました。
しかしながら、
登録は、木村和司選手、奥寺康彦選手の2人に留まりました。