今回は慰霊碑ではなく、被爆遺構をご紹介致します。
長崎大学前の国道を少し北上した右側にその遺構はあります。
ネットや長崎市の資料には載っておらず、他の慰霊碑を探しに歩いていた際に見つけました。
こちらは個人所有であり、市や公的機関の物ではない被爆遺構としては希少な存在です。
ただし、案内板は市で設置しております。
それでは案内板の内容をご紹介致します。
高さ1.2メートル、厚さ25センチのレンガ塀、塀の内側に住んでいた杉本巌さんは、原爆が落ちたとき、爆心地から約3.6キロ離れている梅ケ崎町(今の新地町)の長崎郵便局で勤務中だった。
夕方自宅にたどり着くと木造二階の家屋は焼け落ちていた。
爆心地から北に約1.5キロ、120坪余りを囲んでいたレンガ塀は、被爆後の人探しや、被災家屋の確認等の目印になったといわれる。
今はこの標柱を残すのみであるが、「1945年8月9日、戦争で長崎に原爆が投下され、たくさんの人たちが亡くなり、その後もたくさんの人たちが病気で苦しんだ。原爆を決して忘れることがないよう、子供たちに語り伝えていきたい。」という思いを込めて残されている。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
2010年(平成22年)3月 長崎市(原爆資料館)
長崎原爆遺構と慰霊碑等を巡って行くなかで感じる違和感・・・広島も何度も訪れているので、余計そう感じる部分があるかも知れませんが、どうも長崎市は被爆遺構の保存に消極的だし、被爆都市というポジションに対して明確なビジョン、意思統一ができていないんじゃないか・・・という違和感が徐々に膨れてきまして、ちょっと調べてみました。
前長崎市長の故伊藤氏在任期間中(1995年5月2日 - 2007年4月18日)に取り壊した被爆遺構(僕が知る範囲内)をご紹介致します。
○市民団体が被爆遺構として保存を求めていた旧新興善小学校校舎の保存問題では、被爆者が抗議の座り込みをする目前で取り壊しを強行。2004年(平成16年)解体
○磨屋国民学校(諏訪町)1997(平成9年)年解体
○勝山国民学校(勝山町)2000(平成12)年解体
○伊良林小学校旧校舎2002(平成14)年頃解体
また、現:田上市長にかわった2011/10/31 市長記者会見(定例)では、平和公園エスカレーター工事現場の防空壕の保存についての質疑応答の際、記者と市長の以下のやり取りがありました。
記者(NBC)
やっぱり被爆遺構の保存については、長崎市はこれまで非常に消極的でしたよね、前の市長さんたちのとき、被爆校舎、ほとんど壊しましたよね、ほとんどというか、城山の被爆校舎だけですよね、残しているのは。やっぱり今回のことも非常に重要だと思うのは、行政が、行政の敷地にあるものを残さないと、民間に対して、保存してくださいということを言えないんですよね。そういう意味では、やはり行政としての工夫というか、それが非常に求められるのではないかという気がしています。やはり世界に向かって核兵器廃絶を訴えることも必要ですけど、50年後、100年後に、長崎から何が発信できるかというときに、被爆者は高齢化して、50年もすれば亡くなっちゃうわけですよ。そのときに何をもって伝えるかといったら、物しかないんですよね。そういう物をきちんと残していってほしいというふうに思いますので、田上市長さんのご英断を。
田上市長
ご意見として承っておきます。
・・・やっぱり・・・。
伊藤市長時代、相当、被爆遺構を壊したという認識は地元でもあるんだな~。
この質疑応答での記者さんの意見、的を得ています。
被爆地としての役割と共に、被爆遺構の保存について市の課題の指摘も的確ですね。
さて、この話題に関連する新聞記事を見つけました。
前伊藤市長時代の2004年、長崎新聞にとても興味深い連載記事がありますので、ご紹介致します。
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2004年7月22日長崎新聞掲載
消えた証人 長崎の被爆遺構
せめぎ合い~民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。
長崎市が被爆建造物の保存対策に本腰を入れたのは、被爆五十周年を控えた九四年ごろから。原爆に遭った建物や橋、植物などの現況調査を開始し、九六年三月、報告書「被爆建造物等の記録」にまとめた。
市の調査開始から十年が経過。その間、調査対象となった十一カ所の建造物や樹木が姿を消した。稲佐製氷工場跡など六カ所は民間の所有だった。
日本冷蔵稲佐製氷工場跡
取り壊し前の日本冷蔵稲佐製氷工場跡=1995年2月、長崎市光町
老朽化や都市開発に伴う建て替え、売却、遺産相続による所有者の移転―。民間の被爆建造物の保存には、さまざまな事情に伴う高いハードルが立ちはだかる。
学識経験者や被爆者団体の代表らでつくる「市原子爆弾被災資料協議会」は被爆の痕跡などを物差しに、九八年三月までに百三十七カ所の被爆遺構をA―Dのランクに格付けした。
A、Bランクの五十四カ所は、九八年四月から始まった被爆建造物の保存、補修に関する補助金制度の対象となったが、CとDランクには、拘束力も財政支援もないのが現実だ。
長崎原爆資料館の森田隆館長は「C、Dランクは、被爆の痕跡が薄いなどの点から一定の線引きを行っている。だから、できるだけ残してほしい、とお願いするしかない。人や地域にはそれぞれの暮らしがあり、建造物や樹木があった場所に説明板すら設置できずにいる」と話す。
遺構保存をめぐるさまざまなせめぎ合いの中で、惨禍を記憶する“証人”たちが消えてゆく。
1995年以降姿を消した被爆建造物(樹木)
▽Bランク=新興善国民学校(興善町)▽Cランク=勝山国民学校(勝山町)磨屋国民学校(諏訪町)伊良林国民学校(伊良林1丁目)▽Dランク=長崎木装本社(大浦町)海江田病院(出島町)水神神社の鳥居(本河内1丁目)▽ランク付け前=日本冷蔵稲佐製氷工場跡(光町)目覚橋(宝町―銭座町)被爆カキの木(川平町、岩屋町)
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・・・そう、質疑応答での記者の発言「行政が、行政の敷地にあるものを残さないと、民間に対して、保存してくださいということを言えないんです」、市長を始めとして行政はどう感じているのだろうか・・・?
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2004年8月5日長崎新聞掲載の記事
消えた証人 長崎の被爆遺構
被爆五十九周年の夏を前に、長崎市は市中心部の大型被爆遺構、旧新興善小校舎(興善町)を解体した。昨年春にいったん示された一部保存方針が秋に撤回された。原爆投下直後、臨時救護所として被爆者の生と死を見届けた校舎は、迷走の末、更地に戻った。
「伊藤市長は、とうとう最後まで私たちと会おうとしなかった」
校舎の保存を求め、署名運動や座り込みなどの活動を続けた市民グループ「旧新興善救護所を保存する市民連絡会」の中心的存在だった被爆者の竹下芙美(62)=同市滑石六丁目=は、今もやりきれない思いが募る。
今年三月、定例市議会開会中のある日。連絡会のメンバー数人が、議会棟と市役所の庁舎を結ぶ渡り廊下に集まり、昼休みで自室に戻るはずの伊藤を待ち伏せたことがあった。
「一度でいいから話を聞いてほしい」―。再三の面会要請に応じようとしない市側の姿勢に業を煮やした“直訴”だった。しかし、竹下らの動きを知った伊藤は本会議の休憩後、議会事務局に立ち寄り、午後の議事再開まで姿を見せなかった。「なぜ、ここまで嫌われなければいけないのか」。メンバーは落胆した。
旧新興善小校舎
解体される旧新興善小校舎=5月11日、長崎市興善町
被爆者たちと伊藤の衝突は、初めてではない。
伊藤の市長就任から一年近くが過ぎた一九九六年春、爆心地公園(同市松山町)の原爆落下中心碑撤去・建て替え計画が浮上した。「無宗教の墓標」の役割を果たしてきた三角柱の中心碑の代わりに「母子像」を設置する―。市の方針に被爆者らは一斉に反発した。九七年二月、市が方針を撤回し、中心碑の現在地存続を表明するまで、混乱は十カ月にわたり続いた。
「あの時の市長は、最終的に皆の主張を理解してくれた」。竹下は振り返る。だが旧新興善小校舎の保存問題で、その教訓は生かされなかった。
「私たちも、市長も、同じように被爆体験の風化を懸念しているはず。なのに、なぜ衝突が繰り返されてしまうのか。一緒にやっていこうよ、という気持ちを見せてもらえないのが悔しい」(竹下)。
伊藤は四月末、核拡散防止条約(NPT)再検討準備委員会に出席するため、ニューヨークに出発した。校舎の解体は、伊藤の留守を見計らうようにして、大型連休のさなかに始まった。
「世界に向けて訴えた言葉や、流した涙がうそだとまでは言わない。だけど、世界に向かって何かを言うたびに少しずつでいいから、市長自身も変わってほしい」。竹下の怒りは消えない。(文中敬称略)
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2004年7月23日長崎新聞掲載
消えた証人 長崎の被爆遺構
都市計画の波~場当たり的な保存行政
長崎市出島町。十九世紀初めの「出島」を再現する国史跡「出島和蘭商館跡」の復元整備事業は、第二期事業に差し掛かっている。第一期で建築された建物五棟は完成、南側の石垣の復元などが着々と進む。
洋館風の赤い三角屋根が印象的だった被爆建造物の海江田病院は、市の一大プロジェクトにのみ込まれて姿を消した。
同病院は昭和初期、出島の中央部に建てられた。爆心地から南に三・六キロ、爆風で窓ガラスがほとんど割れたが、市の被爆建造物等取扱基準では被爆の痕跡が薄いDランクとされた。
市は一九九六年、出島復元整備計画を策定、用地の公有化を推し進めた。用地内の同病院は九七年十月、市に買収され、建物は九八年三月に取り壊された。跡地には「十五番蔵」が復元される。
元所有者は「趣のある建物で、できれば残したかった。長崎らしさを町の中に残す視点がほしい」と思いを明かす。
近現代史が専門の長崎総合科学大の木永勝也助教授は「市の都市計画の中に、被爆遺構や文化的遺産をどう残し、生かすか、という視点が欠けている」と指摘する。
復元整備事業が進む出島
復元整備事業が進む出島。市の被爆建造物取扱基準のDランクだった海江田病院はその中央にあった=長崎市出島町
ドイツの戦争遺跡は最低限補強し、そのままの形で使いながら残すケースが多いという。「戦争や原爆を知らない子どもたちのために平和を考える材料を町の中に残すという発想を、行政や市民が持つ時期に差し掛かっている」。木永助教授はこう提起している。
市中心部にあった磨屋(諏訪町)、勝山(勝山町)、新興善(興善町)の三小学校は、ドーナツ化現象や少子化による児童数の減少で統廃合された。前身の国民学校時代は、被爆直後の救護所として使われた被爆建造物だったが、磨屋、勝山は新しい学校に生まれ変わった。新興善は今年六月末までに解体され、市の図書館が建設される予定だ。
今年六月の市議会厚生委員会。原爆投下の第一報を打電したといわれる立山一丁目の立山防空壕(ごう)を保存するという市側の方針を聞き、委員の一人が手を挙げた。
「市の政策判断だけで、簡単に壊されたり、残されたりするのは市民感情として理解し難い」
立山防空壕は、市の取扱基準では、新興善と同じ「保存対象」のBランク。「解体」「保存」の正反対に分かれた市の対応に疑問を示すものだった。
市側は「市原子爆弾被災資料協議会に諮り、その時々の状況に応じて検討する」と釈明したが、場当たり的な保存対策を浮き彫りにした。 「十年、二十年先の長崎の町が見えない」。委員は何度も首をかしげた。
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2004年7月24日長崎新聞掲載
消えた証人 長崎の被爆遺構
禍根~防空壕の説得力台無し
「わぁ、シェルターみたい」「防空壕(ごう)の中に電気がついていたの?」
爆心地から北に約七百メートル、うっそうと茂った巨木の下にある山里国民学校防空壕跡(長崎市橋口町)。市の被爆建造物の取扱基準では、被爆の痕跡を色濃く残すAランクに格付けされている。
遺構を訪ねる修学旅行生の案内役を務める被爆者の羽田麗子さん(68)=同市西山四丁目=は、この場所で子どもたちの歓声を聞くたび、やりきれない思いに駆られる。
「コンクリートできれいに固められているんだから、子どもがそう思っても仕方がない。保存整備の後、とにかく当時の状況が話しづらくなりました」
戦時中、山里国民学校には二十を超える防空壕があり、現存する三つの壕は原爆落下当時、教職員が掘削作業の最中だった。熱線や爆風で生徒や教師の多くが負傷、爆死したが、壕の中に飛び込んだ三人は無事だった。
土手をくり抜いた横穴が残されていた防空壕跡は、原爆の悲惨さを無言で示す説得力があったが、市が行った安全対策が「遺構を台無しにした」(羽田さん)。
現在の山里国民学校防空壕跡
安全対策としてコンクリートで覆われた現在の山里国民学校防空壕跡=長崎市橋口町
保存整備工事前の防空壕跡
市は二〇〇一年、学校敷地内にある防空壕の安全性を高めるため、保存整備工事を実施した。壕の入り口にコンクリート枠を設け、内部の壁を樹脂で固めた。壕の前にはブロックの足場が築かれ、中には照明が付けられた。
「戦争を知らない子どもたちが誤解する。歴史の事実を伝える遺構を造り替えてしまっては実相を伝えることができない」。市の対応に反発した羽田さんらは、元の形に近い修復を求めた。
しかし、市は「壕の内部は木の根が張り出し、土の緩みや地下水の浸入もあり危険。遺構の保存と学校の安全確保を検討した結果」とし、修復の考えはない。
姿を変えた防空壕を、案内コースから外す被爆者も増えた。しかし羽田さんは、子どもたちを連れ、足を運ぶ。「ここに防空壕があり、何が起こったか、伝え続けたいから」
自然史の研究者の一人は「周辺のがけや穴の入り口を十分な強度のモルタルやコンクリートなどで覆い、その上に、被爆当時の形状を模造することは可能」と、文化財修復の手法に沿った形での修復案を提起する。
「長崎の被爆遺構を案内する市民有志の会」の森口正彦会長(65)も防空壕跡の行方を案じる。「被爆者の苦しみや悲しみから懸け離れた場所で平和行政が行われている。あの防空壕はその象徴のように見える」。森口会長らは近く、市の意向をもう一度確かめるつもりだ。
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2004年7月25日長崎新聞掲載
消えた証人 長崎の被爆遺構
想像力~告発する力に希望託す
日本の反核運動をリードしてきた被団協代表委員の山口仙二さん(73)は、二十年来務めた長崎市原子爆弾被災資料協議会の委員を辞めた。同協議会は、原爆関連資料保存の“目付け役”的存在でもある。
委員として最後に出席した五月末の同協議会で、山口さんは市が提案した立山防空壕(ごう)=立山一丁目=の保存方針に“異議”を唱えた。
この防空壕には終戦前、県や警察の幹部が詰め、避難指示を出していた。「あの日、空襲警報が解除されなかったら、私は原爆にやられなかった。多くの人が助かった。あの中にいた参謀長は何をしていたのか。防空壕は残さなくてもいい」
山口さんは、原爆投下の第一報を打電したといわれる防空壕の歴史的な功罪が十分に検証されないまま、保存、公開の準備が進む状況への怒りをぶちまけた。委員辞任も、場当たり的な行政への抗議が込められていた。
現在の立山防空壕(撮影:2015年)
「八月九日を原点に、原爆がどんなものだったか告発するのが被爆遺構。その点、被爆直後の救護所だった新興善小は十分、告発する力を持っていた」。山口さんは、市立図書館建設に伴い、六月末までに解体された旧新興善小校舎(興善町)をこう見詰めていた。
旧新興善小の正門
半年余の保存運動を見詰めてきた旧新興善小の正門。この門だけは残される=長崎市興善町
現在は「救護所メモリアル」として市立図書館内の一角に展示スペースがある。(撮影:2015年)
七月十八日午前、真夏の太陽が照りつける爆心地公園(松山町)。長崎で被爆した山川剛さん(67)は、労働団体の青年部が主催する被爆遺構めぐりの案内役を務めていた。
公園内の「被爆地層」。人の骨、衣服、茶わんのかけら、瓦―。ガラスの向こうに、原爆で瞬時に破壊された“生活”がはっきりと見える。
山川さんは、焼け野原と化した爆心地近くの写真を広げながら、こう語り掛けた。「皆さんが今、立つ場所は人の骨の上です。原爆で家ごと押しつぶされました。そう思い起こしながら、歩いてください」。若い組合員たちは、コンクリートの地面をじっと見詰めた。
「本物の被爆遺構がかき立てる想像力」。新興善小保存運動では、この声が多くの市民にも行政にも議会にも届かなかった。それでも、街角に残る“八月九日の記憶”をたどり、語り続ける被爆者たちがいる。もし、再び“証人”が消えようとしたら、声を上げるだろう。
「被爆者が一人もいなくなったとき、私たちの案内で遺構をたどり歩いた人たちが、私たちのことをふと思い出し、子どもや孫に語ってくれたらいい」
いつかやってくるその日、被爆遺構が果たすはずの役割に、山川さんは希望を託している。
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・・・あ~やっぱり・・・。
今回は前伊藤市長時代のダメダメさが目立ってましたが、他の市長さん時代はどうだったのでしょうか?
市長だけの責任とは言いませんが、市議会、県知事、県議会らはいかがだったのか、そこも気になりますが。
とにかく、原爆犠牲者達を悲しませるような事はしていけませんよ~。
せめて広島を見習って欲しいものです。
今度、長崎行く時、地元民にいろいろ聞いてやろうと強く思いました。
まだまだ慰霊碑巡りは続きます。
訪問時期
2016年GW