昨日ネットの掲示板に興味深い事が書いてあったので貼り付けておこうと思います。
刀の下緒の色について↓
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/knife/1589221354/
733名前なカッター(ノ∀`)2021/07/19(月) 12:29:06.95ID:p20O2zRI
下げ緒の色指定はネットの個人ブログから広がったデマだよ
室町時代には掟があったらしいけど、
江戸時代には紫などの貴色、主君と同じ色柄は避ける程度で
厳密な決まり事は無くなる。
738名前なカッター(ノ∀`)2021/07/20(火) 15:54:39.43ID:yCG6dIyR>>746
紐の色は藩の記録にも残っているでしょ
会津藩
紫色:別格 家老(千石高) 若年寄(八百石高)
御納戸色:家老 若年寄 三奉行(三百石高) 城代(五百石高) 大目付(三百石高) 軍事奉行(三百石高) 学校奉行(三百石高)等 <高士>
黒色:一般の武士(上士)<一の寄合以上>
紺色:猪苗代城在勤の猪苗代十騎
花色(縹色) 厩別当 勘定頭 納戸 御側医師 駒奉行 武芸指南役<二ノ寄合>
茶色:(中士)<三ノ寄合>
萌黄色:(中士)<年割>
浅黄色:(中士)<月割>
746名前なカッター(ノ∀`)2021/07/20(火) 20:10:42.20ID:hJBt2oL9>>747
>>738
それねえ、幕末の元治二年になってから始まった「羽織の紐」の話なんだわ。
この制度が始まったのは、藩財政が悪化して倹約のために
上から下までみんな着物を綿に変えて供回りの数も減らしたせいで、
パッと見で身分が分からなくなったため、場当たり的に始めたもので、これと下緒は関係ない。
なぜこれがwikipediaに紛れ込んでいるかというと
ヤフーブログがまだあった頃、会津藩の紐制を持ち出して「江戸時代には下げ緒の色は決まっていたはず!」
と主張している人がいたんだよ。今は当然リンク切れだけど。
http://blogs.yahoo.co.jp/sikisima_sakura/12182314.html
で、これを斜め読みした渓流詩人というブログ主が
「江戸時代の会津藩では下げ緒の色が決まっていた!」と早とちりでブログに書いて
それを見た人がそのままwikipediaに転載したのよ。ほとんど丸コピペでね。だから出典もついてないわけ。
紐制自体は『志ぐれ草紙』や『ある明治人の記録』に記載がある実在の制度だけど
wikipediaの「下緒の色もこれに準じる」という記述はそれらには無いよ。
ソース元のブログ主の早とちりがそのまんま修正されないで残ってるの。
748名前なカッター(ノ∀`)2021/07/20(火) 20:56:08.26ID:hJBt2oL9
まあ人の駄目出しばっかだとあれだし
江戸時代の幕臣で武家故実・礼法の専門家、
伊勢貞丈の著作『刀剣問答』から下緒についての部分を抜粋したよ。
一、下緒の色は何を本式と致し候哉。
『答』 酌辯記に云下緒の色は定まる法なし云云。
諸大名御成記に云。常に下緒の色、紅、浅葱、紺など苦不
此の内紫をば用捨之方も有之。
皆茶之事は公方様御用多分故可令斟酌候。
但五分まだらの時は茶も不苦云云。
蜷川記に云、下緒之事いつれも用候。
但主人の不断被用候色をば斟酌候ても可然候か。
又紅の事は其扱にも不及候不苦候。
次に寸法之事刀に合候て能程に仕候か。
さのみ長き下緒も不可然候成。
一、下緒の寸法如何
『答』 蜷川記に云下緒の寸法同色之事。
之も寸法などは無之候。何の色も不苦由候。
紫などは如何候半など申方も候。
(私に云人の手にて一ひろにてよし)
伊勢貞丈『刀剣問答』より
・・・・・
刀の下緒の色に身分による規制などがあったのかどうか。
この伊勢貞丈『刀剣問答』には下緒の色に決まり事などはないけど主人と被らないように配慮しましょう、というような事が書かれています。無知なので私には現代語訳が出来ないですが・・・
しかし決まりがないから自由だったのかというと、そうでもないような気もします。
藩によっては暗黙の了解のようなルールがあったかもしれませんし、日本人特有の同調圧力から空気読んで地味な物しかつけなかった人が結構多いのではないかと勘繰ってしまいます。
現在の居合では流派によって色の規定があるみたいですね。変に空気読んで自分で選ばないといけないよりは、ちゃんと決まっている方が良いようにも思います。