(クマタ貿易創業者、熊田晴一氏による「アート・オブ・ブラス」第1巻の序文を日本語に訳したものです。詳細は1つ手前の章をご覧下さい)
 
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序文
日本の鉄道模型業界におけるわが人生
 
30年ほど前のある日、私は丸の内ビルのショッピングモールをぶらついていました。ここは、東京駅に近い、日本で最も古い商業施設の1つです。大学を出て、私は大手商社の雑貨部門で、玩具担当の社員として働いていました。その後は繊維卸である父と働いていますが、前職のときは、玩具店をのぞいて歩く習慣が身についていました。たびたびそうしていたのですが、まさにその日、この習慣が私の人生を変えることになるとは、夢想だにしませんでした。
 
はいばら玩具店のショーウインドウに、模型の汽車がありました。薄手の木製ケースに、黒で塗られたスティームのタンクロコが1台、何台かのカラフルなアメリカ型の貨車、カブース、そして、つなぐとサークルになる木床の2線式線路が入っていました。アメリカからの輸入品に見えたのですが、驚いたことに、それは日本製だったのです。店員さんが親切に教えてくれたのですが、作ったのは、ニューワン模型製作所という会社でした。
 
そのトレインセットを買わねばならない、私は説明のつかない衝動に駆られました。しかしながら、その価格は、ひどく高いもので、とても当時の私が払える額ではありませんでした。それでも、人というものは、何かをすごく欲しいと思ったときには、必死の末に方法を見つけ出すものなのです。とにかく、そのトレインセットを手に入れるのだ。
 
とうとう私は、ある方法を思いつきました。私は父の会社を使って、小さな輸出ビジネスを始めていました。かの製造元に私の名刺を見せて、セットをサンプルとして購入すれば、小売価格をまるまるは払わなくてもいいかもしれない。私は急いで電話帳をめくってその会社に電話をし、アポを取ったのです。
 
ニューワン模型製作所は名前ほどには立派な会社ではありませんでした。それは私の会社からほど遠くない、東京の下町の、両国駅の高架下にありました。訪問したとき、オーナーの伊熊新一氏は、小さな作業場の軒下に設けたワイヤーラックに模型を置いて、吹き付け塗装をしていました。
 
嬉しいことに、つくった名刺が功を奏して、私は、全てのパーツが揃ったその鉄道模型を、小売価格の半額で買うことができました。そして私は思ったのです。ひょっとすると、これらの鉄道模型を実際に輸出すれば、いいビジネスになるかもしれない。伊熊氏にきまった代理店はいませんでした。そこで私は、2セットを購入し、1セットを、サンフランシスコにある、日本輸出貿易センターの展示ホールに飾ってもらうために送ったのです。残念ながら、これは大きなビジネスにはなりませんでしたが、このことが、私が鉄道模型業界でキャリアをスタートさせる起点となったのです。
 
すべての男性は、少年時代に1度は汽車の模型で遊ぶものです。私も例外ではなく、模型の汽車に夢中になりました。興味が非常に強くなって、電気機関車をスクラッチで作ろうとした私は、金属関係の仕事をしている親戚にお願いして、真鍮板を適当なサイズに切りだしてもらいました。ロコはOゲージにするつもりでした。志は立派だったのですが、真鍮板は分厚くて扱いにくく、そのプロジェクトはすぐに手に負えなくなってしまいました。
 
しかし、私の鉄道模型は増殖し始めました。例えば叔父は、デパートでみつけた電動式の模型をプレゼントしてくれました。ブリキ製の3線式線路を走るものです。まもなく私の部屋を線路が埋め尽くすようになりました。私の少年時代の鉄道模型は簡素なもの、と考える人もいるでしょうが、当時ですら、精密スケールモデルは存在しました。東京・神田の有名模型店であるアサヒヤのショーケースにあった展示を思い出します。それはまさに芸術作品でした。ブレーキシューが作動するOゲージの台車で、多くの点で、今日の鉄道模型を上回っていました。
 
少年時代の情熱はともかくも、鉄道模型が私の仕事になったのには、もう1つの理由、もっとずっとシリアスな理由がありました。私の父の商売は繊維卸でしたが、これは朝鮮戦争の一時期を除いて、恒常的な不況産業だったのです。利益率は極めて低く、売上げの継続的な増加によってのみ、キャッシュが得られます。たった1つの不払い手形で、1年の利益が吹き飛ぶことすらあるのです。
 
より良い、リスクの少ないビジネスを見つけねばなりません。理想を言えば、取引範囲が狭く、利益が高く、そしてさらに重要なことは、稼いだお金が確実に受けとれるようなビジネスです。加えて、競合が少なければ、成功の可能性はさらに高まります。鉄道模型の輸出は、これらの必要条件を満たしそうです。ついに、この輸出部門が、父の繊維業の取り組みに加えられました。運が良ければ、もろい木を助ける、健康な若枝になるかもしれません。
 
最初の輸出である程度の成功をおさめた私は、1958年の春、将来の繁栄がどのようなものかをみるために、米国を訪問することにしました。ジェット機はまだありません。不幸にも、私の乗ったプロペラ4基の飛行機は、嵐の中の小舟のごとく、大揺れに揺れて太平洋を越えました。ひどい乗り物酔いのせいで、私は死んだようになってサンフランシスコに着きました。
 
翌日になって、ようやくホテルのベッドを離れる元気が出て、私は顧客訪問を始めました。といっても、これには長くかかりません。顧客の数は、片手の指にも満たないものだったのです。セールスの旅は続きます。ニューヨークに行き、それからベネズエラに行きました。こうした新しい展望をみるのはエキサイティングでしたが、南米からロスアンジェルスの空港に到着したとき、私は一文無しでした。
 
私はむやみに散財した訳ではありません。お金がないのは当時の経済情勢のせいだったのです。日本にはまだ外貨制限があり、ビジネス出張で持ち出せるのは1日25ドルまででした。そのお金はとうの昔に使い果たしてしまい、ロスアンジェルスのアメリカ人顧客が、親切にも代金を前払いしてくれたことで、何とか私は旅を終えて帰国することができたのです。今日、かような厳しい制限はもはや存在しません。NMRA(全米鉄道模型協会)コンベンション出席のために機上の人となるとき、私はいつも、旅が何と快適になったことだろう、と思うのです。
 
鉄道模型の製造には、才能ある職人(訳者注:原文はcraftsmanとなっており、技術家、名匠、名工、といったニュアンスも含む言葉だと思いますが、以下「職人」という言葉を使います)のスキルが必要です。そしてこのビジネスを始めたころ、幸運なことに、私は1人の職人、偶然にも友人だったのですが、H.ヤマグチ氏を知っていました。彼のビジネスは婦人用のアクセサリーを製造・販売することでした。彼は自分のビジネスにフラストレーションを感じていました。ファッションは季節の移ろいと同じスピードで変わるので、彼は常に新しい装飾をつくり、デザインと色を更新せねばなりませんでした。彼はこのプロセスでへとへとになっていました。
 
私は彼に、鉄道模型の製造に仕事を変えることを勧めました。実にいいタイミングでした。彼は、アイディアの枯渇が心配で夜も眠れないと告白したのです。しばらく考えた末に、彼は言いました。「やろうじゃないの。少なくとも模型は、もっと手堅いだろうし」。これによって、彼のクリエイティビティは、変わらない製品、華やかな色彩や奇抜なデザインを必要としない製品に、捧げられるようになったのです。
 
われわれは鉄道模型の製造を始めました。成功に胸を張り、失敗を糧にする日々でした。当時のわれわれのモデルはセミ・ハンドメイドで、数量は2台か3台で、決して20台を超えることはありません。リベット打ちは、古いミシンを改造した機械で1度に1枚ずつ行ないました。車両の屋根は、日本の木靴である下駄メーカーから木を取り寄せました。カンナをかけることで正確な外形を出すことができ、なかなかの見かけになりました。
 
しかしながら、金属屋根の整形は別問題でした。散々頭を悩ませた末に、われわれは非常に原始的な方法をとりました。小さな箱にセメントを注いで雌型をつくり、薄い真鍮板を木製の雄型で押したのです。必要なパーツをつくるためにわれわれが採用したかくも原始的な手法を思い返すと、われわれが成功したのは、まさに奇跡だったと言えるでしょう。
 
日本において鉄道模型の人気が出たのは、第二次世界大戦直後にアメリカ進駐軍が紹介したためと言われています。GI達は軍の購買部で鉄道模型を自分自身の楽しみのため、あるいは子供達のために買っていました。戦前でもいくつかの玩具店で汽車は買えましたが、50年代半ばにこの分野に私が入ったとき、鉄道模型の需要は増えつつありました。
 
需要の伸びを見ていると、日本国内で、もっと大きな規模で鉄道模型の製造にトライしてもいいのではないかと思いました。この種の仕事は日本人の気質に合っています。鉄道模型作りにはスキルが必要であるのみならず、デリケートな作業を扱う忍耐力が必要だからです。模型製造を進めることにはリスクを冒すだけの価値があるように思えました。
 
そのため1959年、私は思い切って父の会社とは独立した、新しい会社を立ち上げました。父をリスクにさらしたくありませんでしたし、私は繊維事業よりも、鉄道模型の輸出に、より多くの時間を費やすようになっていたのです。そして同じ年、私の記憶が確かなら、パシフィック・ファースト・メールの故ビル・ライアン氏に、私は初めて会いました。あなたが鉄道模型ファンならば、彼のことは説明不要でしょう。ビルは私の新会社の話をきくと、「トロリー」ラインをやることを強く勧めてきました。というのも、多くのメーカーは、スティームロコに力をいれていたのです。
 
ビルは実際、東京のつぼみ堂模型店の店主である西川勝一氏を、私に紹介してくれました。のちに、私が西川氏を訪問して200台のパシフィック・エレクトリック・スタイルのインタアーバンを発注したとき、彼は驚きのあまり私を見て言いました。「いったいどうやってそんなたくさんの数をつくるんだい?」。けど、彼はやりました。そればかりか、それ以上を作りました。鉄道模型製造が盛んになると、1,0002,000といった注文が普通になりました。今日の大量注文の落ち込みは、時計の針を日本でモデルの製造が始まった頃に戻したように感じます。
 
輸出業者のビジネスはリスクの高いものです。結局は中間的な存在なのです。メーカーからみると、輸出業者は、お金をもたらし続けている限りは、価値があります。ただし、もし口のうまい輩が、メーカーに直接輸出するよう仕向けたら、あるいは逆に、インポーターがメーカーのところにいって、両者がタイアップすれば、輸出業者の必要性は全くなくなってしまいます。輸出業者は常に、消え去ってしまうリスクを抱えているのです。
 
この危険が常にあるため、私は、それが起こる日を待つのではなく、製造の世界に入ることを決めました。1963年、私は隣の千葉県の街である八千代に一画の土地の買い、最初の工場の建設を進めました。今はT.ヤマモト氏がこの工場をうまく切り盛りしていますが、最初の工場長はラジオの修理店を経営していたH.オオタケ氏でした。彼自身は、かつて自分で模型製造を行なおうとしたのですが、うまくいきませんでした。
 
われわれの最初の取り組みであるB&O S-1 2-10-2スティームロコの製作は、空しい練習に終わりました。シャーシを組み立てる段になってはじめて明らかになった悲劇で、フランジ同士が当たるのです。原因は単に、設計時にフランジ高さを考慮するのを忘れていたためです。成功への苦闘が、終わりのない坂道を登るように思われはじめました。
 
国鉄型のプロトタイプを作るのは難しくありませんでした。ここで本物のロコをみて、調べることができるのですから。ところが米国型プロトタイプとなると、距離が圧倒的不利益を生み出します。図面と写真にしか頼ることができないのです。実際のところ、われわれは経験不足でした。われわれには単に、十分な知識がなかったのです。これは、EMD F-3のフェーズIIディーゼルをつくったときに私の犯した失敗からも明らかっです。今でも脳裏から離れないのですが、私はAユニットとBユニットを、通常のディーゼルロコによくある、同じ窓配置にしてしまったのです。
 
工場の従業員はあいかわらずで、彼らを教える人もいませんでした。誰も以前に模型製造の経験がなかったのです。しかし、だからといって、彼らに才能がない訳ではありません。彼らは全ての必要とされるスキルを持っており、模型作りに魅せられて私のところに来たのです。しかしながら、われわれは海に浮かぶ舵のない船でした。結果として、最初の営業年度が終わったとき、会計係の帳簿は、誰がみてもわかる大赤字を示していました。
 
「試行錯誤」が、われわれが旅する道の名前であり、旅はどこまでも上り坂でした。それでも何とかして、われわれは進みました。そしてついに、1966年、われわれは宮城県の小牛田町に、2つめの工場を開設するまでになったのです。小牛田町を選んだのは、県の誘致があったからです。そこは広大な田舎で、彼らは新しい産業を誘致したかったのです。もともとは電気技師だったカネコ氏を工場長に据えて、工場は幸先のよいスタートを切りました。
私の帝国建設は続きます。1968年、今度は長野県の辰野町に第3の工場を建てました。ここでは、マツザワ氏を工場長にしました。彼はH.オータケ氏の下請け製造をしており、私はその仕事ぶりに注目していたのです。
 
(その2に続きます)