姉から、先日青森で、うちの連れ子の娘のことを聴かれた。どこにいるのか判らない。12年前に自然と消息不明になる。前妻の子が二人いたが、わたしにはなついていた。それが離婚ということになって、母親についたのではなく、もう二人とも大人だから、そういう選択はなかった。
いままで書けなかったことも年月で、いまだから明かす戦後秘話みたいな。
12年前の10月はいろいろと血圧の上がることばかりで、最高血圧が200近く最低血圧も120と自分でもふらついて、ストレスは最高潮のときだった。前妻とは別居状態ではあったが、それでも住むマンションを借りてやって、両親の世話もしないといけないし、古本屋の仕事もしながら、二つの住まいを行ったり来たりしていた。そんなときに、古本屋の三男が結婚式を挙げる。7月の暑いときだった。披露宴にはわたしの前妻のほうは全員欠席。わたしは片親で立ったら、出席した仲間たちから、奥さんはどうしたとあちこちで聴かれた。語るも泪の物語と、冗談まじりに笑わせたが、こんなめでたい席で離婚のことは言えない。その何か月か後に、今度は連れ子の娘の縁談が持ち上がり、埼玉の病院で看護師をしていたが、相手の男もそこの病院の看護師で、一度東京に行ったときに池袋で娘に紹介されて知ってはいた。三人の彼氏がいたが、今度は本物のようだ。三人の彼氏とも会食していた親父は、誰と結婚するのかと興味もあった。娘は血の繋がりのない親父でも求めて、なんでも相談していたので、母親の知らないこともあった。
相手は熊本の人で、仮面夫婦のわたしらは東京で両家の対面をした。娘は三男と年は近いが、娘は三男だけちゃんと結婚式をやってといじけた言い方をしたので、おまえも同じようにちゃんとやってやるからと、分け隔てしたことはなかったので、そう言ったが、式は東京のホテルで12月のクリスマス前となった。半年で二人の結婚式の支度は金がかかる。生保から金を借りて用意することになる。子供のためには借金もやむをえない。
東京の大塚のホテルでの披露宴は80人くらいが集まったが、若い人たちばかりで、青森とは違い、会員制ではない。かかる費用は判っていたが、足りなくなるのは目に見えていた。チャペルで結婚式を挙げたが、娘のバージンロードを歩いたのはわたしではなく、実の弟で四男だった。それを見た姉は怒って、わたしにおまえは金だけ出して立派だよと皮肉を言った。わたしも別居していたのできっと嫁は父親としては認めなかったのだろう。
披露宴が終わり、その夜に精算というときに、相手の新郎の親は支払いの段に逃げた。普通は折半するのに、わたしが差額を支払う。そんなこともあったが、これで親の務めは終わったと思った。小学二年からうちに来て、ずっと育て、看護学校にも入れた。女の子が欲しいと思っていたので、可愛がった。
その娘に男の子が生まれた。そのときも埼玉まで仮面夫婦は出かけて行って向こうの両親とお祝いをした。赤子の背中に米を背負わせて歩かせる。二番目の子が腹に入ったときに旦那の浮気で、娘は離婚すると青森に帰ってきた。式を挙げて二年目のことだ。ちょうどそのとき、四男も結婚したいという相手が出てきて、青森の人だが、両親と会食することになる。できちゃった結婚で、おなかに一人入っていた。子供はもう半年目に入っていて、結婚式は挙げられないので、形だけとなる。生まれたときは、わたしが産院に行って七人目の孫の誕生を祝った。と、そのすぐ後に、大震災が起こる。それは3.11の前年の秋のわが家の大震災だった。わたしの嫁の浮気は知っていたが、それがメールを覗いてバレて証拠を掴んだ。メールの設定はわたしがしてあげたので、パスワードは知っていた。相手はさる国立大学の教授で、大学の寮母さんをしていた嫁が研究所の世話をして知り合った。わたしが相手に慰謝料を請求したのが悪いと、嫁から逆切れされて、離婚届をつきつけられた。別にそれでもよかったが、わたしとしては未練もないが、別居状態だから、どうでもいいとも思った。離婚届は白紙であった。せめてサインだけでもして郵送してこいよと思ったが、メールをしたらそっちで書いてというので、ペンの仲間の市会議員になった女性がいたので、たまたま古本屋に顔を出したとき、代筆を頼んだらキャーと逃げ帰った。その後に短歌女史が来たので頼むと、いいわよと嫁の代わりに離婚届にサインした。こんなことが簡単にできるのだ。
その離婚のときに、今度は四男と娘と二人も離婚すると親と三人同時離婚騒動になる。熊本の両親とも電話でやりあう。おなかの子ももう四か月で堕ろせない。どうしてくれると。婿は病院を辞めて埼玉のアパートもそのままに、母子を残して実家の熊本に逃げ帰っていた。同時に、四男の嫁からわたしに電話があって、赤ん坊を抱えて息子から離婚だと言われたと。一時に災難がやってきたので、血圧はさらに上がる。みんないい加減にしろよと、発狂しそうになる。そんなごたごたのときに、市会議員選挙で頼まれて事務局長にさせたられて、選挙事務所に夜中まで詰めた。本当はそんなことをしている暇もない。翌年の2月に死んだ親父も認知がひどく、目が離せない。古本屋の仕事も忙しい。両親の飯の支度もしなくてはならない。
晩秋になると、事態は一気に雲散霧消する。嫁はどこかに行って消息不明。男を追いかけたか。娘はその後どうなったか、埼玉の病院は辞めて、部屋代も払えるのか。子供はどうするのか。おなかの子はどうするのか。四男もその後の行方は判らない。離婚したので、相手の両親から、わたしのところへは文句も来ない。選挙は当選して、わたしは後援会を辞めた。すべてが静かになる。
その娘はいまはいくつになったのか、孫は中学生だろう。おなかの子も生まれていたら、いまは中学生になろうとしている。みんなどこに行ったのか。生きているのか。思い出したくもないことを思い出してしまった。