紀生磐(きのおういわ)は、最後の半島倭王であった?

倭五王後の半島倭国は筑紫国に移った


478倭王武の上表後、中国史料から倭国の名がぱったり消え失せる→600年まで

三国史記からも新羅を頻繁に攻撃していた倭軍の記事が西暦500年から一切消えうせる。

倭王武と半島倭国に何が起きたのか?

山形明郷氏は、百済は今の韓国方面ではなく、南満一帯から北朝鮮の大同江流域にかけて存在したこと。そして百済が倭と結託し、高句麗に当たったという史実も、今の韓国方面に倭と称された国が存在していたがゆえに、両者は簡単に結びつくことが可能であったろうと納得できるのである

と述べている。



また山形氏は、この後新羅が発展し南下を開始した6世紀以後、「倭は日本列島内に移住を開始して」、百済が660年に滅亡するに当たり、その豪族たちも亦、日本列島に入植するに至る

と述べている。

田中俊明氏は、

全羅道や済州島まで百済の支配が及ぶのは、実際には都を広州から熊津(公州)へと大きく南遷して百済が復興した後、5世紀末から6世紀初にかけての時期と見られるとする。


その考古学的裏づけとして全羅南道の西部の羅州郡潘南面の古墳群を中心とする栄山江流域は、甕棺墓の墓制を特徴としていて、百済の墓制を異なり、この地域では百済文化圏とは異なる文化圏が形成されていたことが示される。先に述べた前方後円墳と共に、興味深い指摘といえよう

と述べている。

宝賀氏「神功皇后と天日矛の伝承」に、

上下のタリを含む任那4県は、全羅南道にあったと見られる紀生磐が三韓に王たらんとして築いたのが帯山城とされ、これが全羅北道南部の井邑郡泰仁に比定される

とある。


紀生磐の企てが失敗したとあっても、全羅南道あたりに倭が寄るべき地域があったものか。6世紀中葉には大将軍紀男麻呂宿禰がタリから新羅討伐に出撃したと見える(欽明237月条)・・・

広く南鮮地域を見れば、倭が直轄地に近いような支配力を及ぼした地域が、伽耶の本来的な地域の洛東江流域を離れた全羅南道あたりにあった可能性もある

と述べている。

仮説→紀生磐(きのおういわ)は、最後の半島倭王であった

半島の倭王の都は「貴国」であった


書紀にある大将軍紀(貴)の小弓(生磐の父)は倭王であった→倭王興(安康)にあたる→陣中で病没


倭王興(紀小弓)の弟が倭王武(雄略)


倭王武を継いだのが紀生磐で、小弓の子

倭王済(父)------倭王興(兄)-----倭王武(弟)------倭王生磐(武の子)

允恭天皇     安康天皇     雄略天皇     顕宗天皇(別途記述)

                  =紀小弓     =紀生磐  

紀→貴に通ず

紀生磐(大磐)→筑紫国の磐井と似通う→半島の倭王が筑紫に渡って、磐の名を継がせた?

日本書紀487

紀生磐宿禰が任那を根拠地として高句麗に行き通い、三韓に王たらんとして、官府を整え、みずから神聖(かむつひじり)と称した。

任那の佐魯 那奇他甲背らがはかりごとを用い、百済の適莫爾解を爾林城(爾林は高句麗の地なり)に殺した。帯山城を築いて東道を守った。食料を運ぶ港を押さえて百済軍を飢え苦しませた。


百済王(牟大)は大いに怒り、領軍 古爾解・内頭 莫古解らを遣わし、兵を率いて帯山を攻めさせた。

生磐宿禰は軍を進め、迎え撃った。勢い盛んで向かうところ敵なしであった。一を以って百に当る勢いであったがしばらくしてその勢いも尽きた。失敗を悟り、任那から帰った(筑紫に移った?)。これによって百済国は任那(倭国)の佐魯那奇他甲背ら300余人を殺した

とある。

487年紀生磐は、高句麗との戦いに疲弊して、高句麗と和親し、任那を根拠地に百済・新羅を攻撃して、三韓の王たらんと目論んだが、やがてその力も尽き、列島に移住せざるを得なくなった。

このころから、半島の倭王とその一族、民は筑紫に移住を開始し始めたのではないか?

以上を踏まえて、仮説というより、フィクションとしての歴史を楽しんでみたい。