【前書き】
前回は、豊璋(ほうしょう)と翹岐(ぎょうき)が、軍事の実権を主に担っていた蘇我入鹿を惨殺し、「乙巳の変」という軍事クーデターを起すことで、大和政権の実権を握ったところまでお話ししました。これからその続きをお話ししていきたいと思います。

645年、乙巳の変の後に、第36代孝徳天皇が即位します。それ以降、以下のような出来事が起こります。
①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(655年)
②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)
③斉明天皇の死(661年)
④「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)
⑤近江へ遷都し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)
⑥中臣鎌足(翹岐:ぎょうき)の死(669年)と天智天皇(豊璋)の死(671年)
⑦壬申の乱(672年)後、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)
⑧天武天皇が国史編纂を命じる(681年)
⑨天武天皇の死と、天武天皇の皇后が持統天皇として即位(686年)
⑩持統天皇が藤原不比等(32歳)を異例の抜擢、不比等が正史に初登場(689年)
⑪古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)

以上の一連の出来事を順を追ってご説明し、その中で、日本書記に記されている中大兄皇子と中臣鎌足が、実際は朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであったと、私が推定した根拠を挙げていきたいと思います。

ただ、上記一連の出来事をご説明をする前に、中大兄皇子と中臣鎌足が朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであると、私が推定した最も重要と思われる幾つかの点からご説明させて頂きます。
以下、天武天皇に焦点を当てて、お話しを進めます。
天武天皇は、縄文時代から続く日本人の血筋を引いた、正統な天皇家の天皇であったと、私は考えています。

【中大兄皇子・中臣鎌足と百済王族の入れ替わり説の根拠】
下図、「天武天皇の家系図」をご覧ください。
図の中央付近が天武天皇です。男性は青枠、女性は赤枠となっており、天武天皇と天武天皇の親兄弟は太枠で囲ってあります。

天武天皇は、兄2人、姉1人の4人兄弟の末子とされています。
兄弟は、異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、同母兄の中大兄皇子こと天智天皇、同母姉の間人皇女(はしひとのひめみこ)です。

 


天武天皇の家族構成を調べた時に、私が最初に不審に感じた事として、天武天皇の兄である中大兄皇子こと天智天皇の皇女4人が、天武天皇に嫁いでいるということでした。家系図の黄色い点線で囲まれた4人の皇女です。
天智天皇には4人の皇子と10人の皇女がいました。そのうちの4人の皇女が天武天皇に嫁いでいます。
しかも、天武天皇に嫁いだ天智天皇の皇女が産んだ、天智天皇の孫に当たる大津皇子と草壁皇子の2人に、さらに天智天皇の皇女の2人が嫁いでいます。青い点線内の2人の皇女参照。
実弟に、4人もの自分の実の娘を嫁がせるというのは尋常とは思えません。しかも、自分の孫に自分の娘を嫁がせるというのも、何らかの意図があってしたことではないかと勘ぐりたくなってきます。
また、このような婚姻関係を結ぶには、兄弟に相当な年齢差がないと実現不可能な事だとも思います。

上記以外の天武天皇の姻戚関係を見ていきます。
中臣鎌足も2人の娘を天武天皇に嫁がせています。緑の点線に囲まれた2人です。
2人のうちの妹の五百重娘(いおえのいらつめ)は、天武天皇の妻でありながら、藤原不比等と密通します。藤原不比等と五百重娘(いおえのいらつめ)は異母兄弟にあたります。この時代と言えども、少々おかしな関係では無いかと思われます。
ただ、こういった行為は、朝鮮人(百済王族)系の者たちが、自分たちの血筋を保とうとする行動の一環であると、私は考えています。
この密通によって生まれた子が、新田部親王(にいたべしんのう)だったようです。
 
藤原不比等は、壬申の乱(672年)の時15歳で、どちら側にも組みしなかったので、賞罰なしとされ、放免されていました。
藤原不比等は壬申の乱の後、天武天皇の周辺に姿を現していましたが、密通事件(681年頃)が発覚すると、姿を消します。
ところが持統天皇は、天武天皇が686年に亡くなった3年後の689年に、当時32歳の藤原不比等を、異例の抜擢により、華々しく政界にデビューさせます。

私は、これは出来すぎた、おかしな話だと思っています。多分、持統天皇と藤原不比等は、ずっと連絡を取り合っていたのではないでしょうか。
持統天皇は天智天皇(豊璋)の娘であり、藤原不比等は中臣鎌足(翹岐:ぎょうき)の息子ですので、従兄弟同士の親を持つ親戚であり、同じ朝鮮人(百済王族)ということで、強い繋がりがあったと考えられます
また、藤原不比等は実は天智天皇(豊璋)のご落胤という話もありますので、そうだとしたら、持統天皇とは異母兄弟ということになり、益々強固な繋がりがあったことになります。

一方 、密通の結果生まれたと思われる新田部親王は天武天皇の皇子として育てられます。天武天皇は不義密通のことは承知していたようです。この当時、天武天皇は五百重娘と夫婦の交わりをしていなかったようなので、不義密通は明かで、宮中は騒然としていたようです。

そして、赤い点線で囲まれた天武天皇4人の妻は、地方豪族から嫁いできた女性達です。この中で知っておいていただきたいのが、九州の豪族の娘である尼子娘(あまこのいつらめ)の子である高市皇子と、その子の長屋王(ながやおう)です。
高市皇子は壬申の乱において、天武天皇の皇子の中で、唯一戦いに参加した皇子です。天武天皇の皇子では最年長になります。
ただ、壬申の乱に参戦した当時の高市皇子の年齢には諸説在り、不明となっていますが、実際は年端も行かぬ若者であったようです。

また、高市皇子の子である長屋王は、天武天皇の亡き後、天武天皇の血筋を正統的に受け継ぐ皇族でした。724年に当時の官位としては最高位である左大臣にまで登り詰めます。
ところが、藤原不比等の子である四兄弟の陰謀事件、「長屋王の変」(729年)により、長屋王は妻子と供に自害することとなります。実際は自害を強要されたか、殺された可能性もあるかと思います。
「長屋王の変」は「長屋王が国を傾けようと企んでいる」という密告に基づいて作られた「えん罪」であると、一般的に解釈されています。

この事変以降、天武天皇系の血筋の家系は衰退し、天智天皇系と藤原氏系の血筋の家系が隆盛し、天皇家の血筋として残っていきます。
天武天皇の家系は、多くが臣下としての身分に降家し、次第に姿を消して行きます。長屋王の親である高市皇子の家系は、後に高階(たかしな)氏として武家の家系で存続し、家系として現代まで継続しているという事です。
何を言いたいのかといいますと、現在の日本には、古代から続く正統的な天皇の家系は、高階氏の子孫くらいしか残っていないのでは無いかという事です。
飛鳥時代から奈良時代にかけての天皇家の血筋と婚姻関係を見る限り、天皇家は朝鮮人(百済王族)に完全に乗っ取られてしまっていると、私は考えています。

壬申の乱で、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位したのが673年で、「長屋王の変」は729年に起こりました。この間、56年の年月が経っています。
しかし、天武天皇、天智天皇、藤原氏の素性を知っている者は、当時、未だに多かったのでは無いかと思います。
それだけに、長屋王に対しては、多くの人々の熱い期待がかかっていたと思います。それを、藤原四兄弟は、あからさまに、見え透いた陰謀で長屋王とその家族を死に追いやりました。
1300年も前となる「長屋王の変」の様な、あからさまな陰謀事件が、近・現代の社会でも同じ様に、今なお起きていると感じるのは、私だけでしょうか。


以上、天武天皇の家系をざっと、不審な点、気にかかる点を何点か指摘してきました。ところで、天武天皇の親、兄弟、妻、子などのほとんどの年齢が不詳であることに気付かれましたか?また、そのことを不思議に感じられませんでしたでしょうか?
実際、日本書紀に年齢が明確に記されているのは、「天武天皇の家系図」のなかで、中大兄皇子と中臣鎌足のみです。
また、天智天皇の皇女であった持統天皇と元明天皇のみが、日本書記以外の複数の歴史書での年齢の判定に一致が見られ、ほぼ正確と思われる年齢が確定しています。
結局、中大兄皇子と中臣鎌足、持統天皇、元明天皇以外は、天武天皇の家系に関係する全ての人々の年齢がよく解っていません。天武天皇に直接関係する父親である第34代舒明天皇以降、日本書紀では生誕年などが記述されておらず、没年時に何歳であったかの記述も在りません。
また、他の歴史書での年齢記述も、天武天皇の家系に関係するほとんどの人々の場合、あまり一致しておらず、正確な年齢が解っていません。

日本書紀における天皇(や大王)の年齢の記述は、もともと第15代応神天皇以前の古代の天皇(大王)には、全てに記述がありました。
第16代仁徳天皇以降は、日本書紀に年齢の記述があったり無かったりしていますが、それでも、他の複数の歴史資料に記載があり、情報が一致しているため、ほとんどの場合、天皇(や大王)の年齢は確定しています。
結局、今回掲載した天武天皇の家系図の人々のみ、ほとんどが年齢が不詳となっていると言う事になります。

 

もともと日本書紀の編纂は、天武天皇が681年に国史編纂を命じたことで始まりました。
 天武天皇が亡くなったのが686年、古事記の編纂が完成したのが712年、日本書紀の編纂が完成したのが720年です。
古事記には、第33代推古天皇までしか記述されていませんが、日本書紀は、第41代持統天皇まで記述されています。
天武天皇の事績は、編纂を指示した当事者でもあり、直近の出来事でもあったわけですから、本来であれば豊富で正確な記述がなされて当然のはずです。
それが、なぜこのように、年齢に関して、曖昧な記述となってしまったのでしょうか?

このことに疑問を感じる歴史研究家や愛好家は、やはり多いらしく、この疑問に対するコメントを良く見かけます。
そのほとんどのコメントが、天武天皇には秘密があり、謎の人物であるというものです。つまり、天武天皇は、日本書紀の編纂を命じた本人であり、何か出生上の秘密等があったため、それを隠すために年齢を伏せさせている、というものです。
私は、こういったコメントを見る度に、思い出す事があります。以前、テレビを見ていた頃(今は見ていません)、よくお笑い芸人が、誰でも知っているような簡単な質問を、クイズ形式で問われ、受け狙いで、わざと「トンチンカン」な答えをする場面がありました。つい、そういった場面を思い出してしまうのです。

上記の天武天皇に関するコメントが的外れである事は、すこし考えてみれば、直ぐに解ることではないかと思います。
編纂する国史の内容に、注文をつけることができる立場の側からすれば、自分の情報で伏せておきたいものがあった場合、自分の情報を変に誤魔化したり、曖昧にしたりすることは、あり得ないと思います。
もし、不都合な事実を隠したいのであれば、変に怪しまれないように堂々と情報をねつ造するのが普通です。そして、関連する周囲の情報と辻褄が合わない場合、周囲の情報も、ねつ造します。それができない場合は、自分の情報では無く、周囲の情報を曖昧にしたり、誤魔化したりするものだと思います。

その様に考えていくと、日本書記の天武天皇の年齢の記述が曖昧なのは、情報操作している側では無く、情報操作されている側だからではないかと考える事が出来るようになると思います。
日本書記編纂の経緯を振り返ってみますと、天武天皇が国史編纂を命じたのが681年頃で、天武天皇が亡くなったのが686年、日本書紀の編纂が完成したのが720年です。
編纂の指示が出てから40年近くも経って、ようやく完成しています。天武天皇が編纂に関与出来たのも、せいぜい最初の4~5年間ほどです。残りの34年間は、別の権力者の影響下で編纂されています。特に、藤原不比等の関与していた度合いは相当に大きかったことが解っています。

天武天皇の家系図の中で、年齢が明確だった人を思い起こしてください。日本書紀に年齢が明確に記されているのは、中大兄皇子と中臣鎌足のみでした。
それに付随して、天智天皇の皇女であった持統天皇と元明天皇のみが、日本書記以外の複数の歴史書での年齢の判定に一致が見られ、ほぼ正確と思われる年齢が確定しています。

結論を申し上げます。
天武天皇の家系図に掲載した48名中、日本書紀に年齢が明記してある中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の2人の年齢は、堂々とねつ造した情報です。
また、天武天皇の家系図に掲載した48名中、日本書記以外の複数の歴史書での年齢の判定に一致が見られた持統天皇と元明天皇の2人の年齢は、権力者の側が、年齢に関して正確な情報を広めても、おかまい無しとした情報だったということです。
つまり、以上の4名以外は、正確な年齢が明らかになってしまうと、不都合が生じるため、日本書紀に年齢を明記しなかったと供に、その他の歴史書に正確な年齢が記載されないように干渉したのです。

天武天皇が国史編纂を命じてから、天武天皇が亡くなるまでの5年間で、国史はかなり編纂が進んでいたのでは無いかと思います。特に、天武天皇に近い時代は、詳細な内容が書き上げられていたと考えられます。
日本書紀の記述を見ると、そのような推測がつきます。やはり、天武天皇の父である第34代舒明天皇以降から、記述の分量が多く、詳細なものになっています。特に天武天皇に関する記述は当然のことながら、最も分量も多く詳細です。

天武天皇が亡くなる頃までに出来上がっていた国史には、多分、以下のような内容の記述が明記されていたのではないでしょうか。
・豊璋と翹岐が乙巳の変で蘇我入鹿を惨殺した事
・豊璋が天皇家の皇位継承者を次々に殺害した事
・白村江の戦いの後に、豊璋が本物の中大兄皇子を殺害した事
・近江に遷都後、豊璋が中大兄皇子を僭称して天智天皇として即位した事

このような内容をそのまま公表されては、天智天皇の血を引く者が、天皇となることなど出来なくなったでしょうし、藤原氏の血を引く者は、政の場から追放されていたのでは無いでしょうか。

多分、国史の改ざんについては、かねてから、持統天皇と不比等で話し合っていたのだと思います。
不比等と思われる、日本書記の内容の修正を指示する走り書きなどが見つかっているようです。「他に倣(なら)え」のような簡素な走り書きで、誰のものとは、明確には解りませんが…。
不比等は、豊璋を中大兄皇子と重ね合わせ、豊璋の行った事を様々に脚色させます。同様に翹岐を中臣鎌足に重ねます。中臣鎌足も実在の人物として存在しましたが、本物の中臣鎌足はさほど注目を集めるような人物では無かったため、特に問題は無かったのかも知れません。

不比等は若い頃に、中臣家に養ってもらうなど、何らかの関係があったようですが、藤原を名乗り、中臣家と不比等の系譜を明確に分けたのは、不比等が始めたことだったのかも知れません。
不比等という名前も、自称だったようです。「比べる者のない唯一無二の至高の存在」みたいな意味でしょうか。不比等の尊大な性格を、よく表していると思います。

話を国史の改ざんに戻します。
前述のように、豊璋を中大兄皇子に重ねたことにより、中大兄皇子の親や兄弟との年齢の設定に無理が生じてしまいました。
というのも、乙巳の変の時、本物の中大兄皇子は多分、8歳程度、もう少し年かさとしても、せいぜい10歳程度だったと思われます。しかし、中大兄皇子が、蘇我入鹿を殺害したことにするために、中大兄皇子の年齢を、乙巳の変時点で20歳に設定しています。
ところが、豊璋は天武天皇に4人の娘を嫁がせたため、天武天皇をはじめとする兄弟や親との年齢の関係が、多分、どうやっても辻褄が会わなかったのでしょう。結局、家族を始めとする周辺の人々の年齢を、ほとんど全て不詳としてしまいました。

以上のように見てきますと、日本書記が誰によって、どの様な意図をもって改ざんされたのかが、明確になってきたと思います。
大和政権に入り込んだ朝鮮人(百済王族)が、持統天皇時代にとうとう政権の中枢を握ってしまい、周到に日本の歴史を改ざんし、権力をほしいままにして、それ以後永きに渡り日本人を支配し、富を貪り続けました。その基を作ったのが不比等だったと、私は判断しています。

【後書き】
少々長くなってしまいました。今回は此処までとさせていただきます。又々、中途半端になってしまい、申し訳ありません。

次回は、前書きの部分で挙げました、乙巳の変の後に起きた一連の出来事を、順を追ってご説明し、中大兄皇子と中臣鎌足が、朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであったと推定する根拠を、今回に引き続きお話ししていきたいと思います。

今回は、お話が少し細かいところに入りすぎたかなと思っていますが、いかがでしたでしょうか?
なお、今回の天武天皇編を書き上げるにあたり、天武天皇の年齢の推定や、登場人物の細かな情報等を、神谷政行さんという方の「天武天皇の年齢研究」と言うサイトより、多くを参照させていただきました。以下のサイトです。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htm

非常に緻密に、天武天皇や天智天皇と、その周囲の方たちの事をお調べになっています。細かい点も調べてみたいという方は、ご覧になると良いと思います。
ただし、天智天皇と中臣鎌足が朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであるとは、毛ほどにも思っておられませんので😅
あくまでも正統の歴史研究家の方です。徹頭徹尾、学者肌の方だと思います。


最後にこのブログを書いている、私の思いを述べさせてください。
今回の天武天皇編のお話しをするにあたり、私は、天武天皇はまれに見る優れた戦略家であり、統治者だったのでは無いかと言う思いがありました。例えて言うなら、徳川家康のような方だったのでは無いだろうかと思っています。
ただ、志半ばで倒れ、こともあろうに、妻の裏切り(私が勝手に思っています😄)により、日本を朝鮮人(百済王族)の支配から救う事が出来ませんでした。
私は、天皇家は第40代の天武天皇で終わったと思っています。日本人は、もはや現在の天皇家に幻想を抱く事無く、幻想は捨て去り、前を向いて歩むべきだと、最近では常々思っております。

今までは、お金が全てを支配する時代でした。しかしこれからは、個が大切になる時代が近い将来に必ずやってくると信じています。
その時に、縄文人の精神が、日本人には必要になると思います。縄文時代に戻る事は出来ませんが、今よりももっと高い精神性と霊性を持つためには、縄文人の精神を思い起こすのが近道なのでは無いかな、と思っています。
そんな事を思いながら、このブログを書いています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
筆が遅く申し訳在りませんが、今後とも、よろしくお付き合いくださいますようお願い申し上げます🙏