首都圏の新聞では小さな記事で取り上げられた ”ある事件” は、9月6日福岡市東区で起きた。

 

 

 

『 9月6日、「福岡市東区の九州大学・箱崎キャンパスで火災と爆発が発生している」というニュースが流れた。焼け跡からは、1人の性別不明の遺体が発見された・・・・・』

 

 

 

( 福岡市西区への移転が終わり、無人となった九州大学法学部の研究室でその事件は起きた。現場にはブルーシートが掛けられていた。)

 

 

 

私は事件現場の写真を見て、その事件が起きたのは、私が学んだ九州大学・文系キャンパスの建物であることはすぐわかった。

 

 

 

それから少しずつ事件の内容が、断片的に伝えられるようになった。

 

 

 

 

私は9月21日朝、その福岡市の定宿にしている小さなホテルにいた。

 

 

 

朝起きて、スマホでニュースや新しい記事を見ていたら、あるレポートに目が留まった。

 

 

 

それは9月21日付けで掲載されていた、「みわよしこ」さんというフリーのライターが書いた、今回の事件に関するレポートだった。

 

 

(注)レポートのタイトルは、『貧困に殺された九大オーバードクターは なぜ生活保護に頼らなかったか?』

    https://diamond.jp/articles/-/180232

 

 

(前掲の文章も含め、『 』 内の青文字の文章は、「みわよしこ」さんの上記レポートからの引用です。)

 

みわよしこさんの紹介) フリーランス・ライター。1963年、福岡市長浜生まれ。1990年、東京理科大学大学院修士課程(物理学専攻)修了後、電機メーカで半導体デバイスの研究・開発に10年間従事。在職中より執筆活動を開始、2000年より著述業に専念。主な守備範囲はコンピュータ全般。2004年、運動障害が発生(2007年に障害認定)したことから、社会保障・社会福祉に問題意識を向けはじめた。現在は電動車椅子を使用。(ネットより引用)

 

 

 

 

その記事を目にした21日は、高校時代の親友とのランチしか予定を入れていなかったので、朝食を済ませると私の足は自然と懐かしいキャンパスに向かった。何故かその事件のことが気になっていたのだ。

 

 

 

本当は、懐かしいキャンパスとは2年前に”別れ”を告げたはずだった。

 

 

50年前になるが、激しい大学紛争さなかの昭和40年代前半、専門課程の2年間を過ごした大学キャンパスだ。丸ごと福岡市西区の新しいキャンパスに移転するということで、2年前の5月、惜別の思いでまだ残されていた建物の中に入って、”別れ”を告げてきたはずで、今回の九州帰省では行く予定はしていなかった。

 

 

 

ホテルの最寄り駅から10分ほど乗ると、地下鉄「箱崎九大前」駅に着く。

 

 

( 地下鉄駅構内の周辺地図。左下に法文系のキャンパスがある。今後、箱崎キャンパス跡地では先進的な街づくりが始まる。)

 

 

 

今度こそ思い出のキャンパスとの最後の別れと思い、少し遠回りして正門から入った。正門から入ると文系キャンパスまでは歩いて10分以上はかかる。

 

 

 

2年前に比べると、旧法文系の建物や工学部の建物がほとんど取り壊され、更地が多くなっていた。

 

 

 

正門を入ってすぐ目に入る、シンボル的な「大学本部第一庁舎」と「工学部本館」は、正門やその脇の守衛室とともに残されるという記事を見たことがある。もしそうなれば、卒業生としてそれだけでも嬉しい。

 

 

 

( 工学部本館  1930年・昭和5年竣工。 下の2枚はその玄関付近。 )

 

 

 

 

 

( 工学部周辺のキャンパスでは古木の間で、彼岸花が秋の訪れを告げていた。)

 

 

 

( キャンパスの空き地には萩の花も咲いていた。引っ越し車両の後方に見えるのは工学部航空工学教室。1939年・昭和14年竣工。)

 

 

 

 

撤去工事の車や、引っ越し車両が行き来する工学部、理学部のエリアを抜けて、文系キャンパスの入り口まで来た。

 

 

 

 

「この門は10月1日より通行できませんと書いた看板があった。見納めということだ。この風景は私たちが学んだ50年前とほとんど変わらない。

 

 

 

 

( 学生は新キャンパスに移り、引っ越し作業がほとんど終わった文系キャンパスのガランとした建物。掲示板にはもう貼り紙も無い。)

 

 

 

 

 

さて、9月6日に起きた事件の一報を読んだ時、一瞬私の頭をかすめたのは、犯人は「学生運動の元活動家ではないか」だった。

 

 

 

『・・・・・私の周辺の最初の反応は「化学系の研究室の事故では?」というものだった。しかし、それはあり得ない。九大理学部・工学部は、かつて箱崎キャンパスに存在したが、数年前、福岡市西区の伊都キャンパスに移転していた・・・・・』

 

 

 

『・・・・・続く反応は「活動家?」だった。伝統ある大学では、かつて大学に在籍していた学生運動家が数十年後も大学に出入りしていることは、珍しいことではない。賛否両論あるところではあるし、私自身、大学に居座っている元学生運動家は最も苦手な人種の一類型だ。とはいえ、大学の自治や学問の自由を尊重するのなら、一定の「緩さ」とそこからもたらされるリスクはつきものだろう・・・・・』

 

 

 

 

 

 

上の写真の青いシートの中の研究室で見つかった遺体について、レポートには、『数日後、遺体は法学部のオーバードクターだったという事実が判明した・・・・・』とあった。

 

 

 

その部分の文章をレポートから転記する。

 

 

『数日後、遺体は法学部のオーバードクターだったという事実が判明した。男性で、46歳だった。以下、本記事では男性を「Aさん」とする。

 まずは報道と独自調査から、現在のところ判明しているAさんの経歴をたどってみたい。九大大学院進学までの足取りは、次のとおりだ。

・1972年生まれと推測される。「出身地は関西」という情報もある。

・1988年、中学を卒業し、横須賀市の陸上自衛隊少年工科学校(当時)に進学。同時に自衛隊に入隊。少年工科学校では高校卒業資格が得られないため、湘南高校通信制課程にも入学。

・1991年、少年工科学校・湘南高校通信制課程の高校相当課程を修了し、自衛隊を退官。

・九大法学部に入学し(年次不明)、憲法を専攻。』

 

 

( 50年前からあった大講義室。Aさんもこの階段教室で学んだはずだ。)

 

 

 

「オーバードクター」

 

 

 

私にとっては耳にしたことのない言葉だった。

 

 

 

それは、私自身や子どもたちは大学院に進んでいない上に、今まで身近にそうした学生がいなかったこともあるだろう。

 

 

 

ただ、私の子どもたちは、このAさんの少し下の世代で、大学を卒業した時期は、いわゆる就職氷河期が始まった頃だったので、希望する就職が叶わなかった学生が、就職を諦め大学院に進むといった話は聞いたことがあった。

 

 

 

あらためて、「オーバードクター」という言葉を調べてみた。

 

 

”オーバードクター”

●大学院博士課程を修了したが就職できないでいる状態。また、その人。

●博士の学位を取得しながら定職に就いていない者、または、博士課程3年の期限を超えて学位を取れない学生を指す。

 

 

 

調べていくと今回の事件に関連して、私にとっては耳新しい多くの言葉が目に入った。

 

 

 

”ポスドク(ポストドクター)”

●博士課程を終了し、常勤研究職になる前の研究者で、全国におよそ1万人以上がいるといわれている。若手の研究者の多くは大学などの「ポスドク」(非常勤職員)として雇用され、我が国の研究活動を支えている。

 

 

 

ただ、最近よく「パワハラ」や「セクハラ」という言葉が取り上げられるので、大学内で、権力や地位を利用して教員や学生にいやがらせをする ”アカハラ(アカデミックハラスメント)” は知っていた。

 

 

 

 

( 地下鉄の駅から正門に行く途中にある、九州大生協の建物。何か50年間、時が止まっているような錯覚を覚えた。)

 



( 私が昼食、書籍購入等で一番お世話になった、文系キャンパスの生協の入り口には、感謝を込めた閉店の挨拶が貼り出してあった。)

 

 

 

 

ところで、Aさんはなぜ「自死」という選択をせざるを得なかったのだろうか。

 

 

 

レポートを書いた、みわよしこさんは元々は理系の人だが、自身の運動障害発生に伴い、社会保障や社会福祉に関する発信を多くしているライターだ。彼女はレポートの中で、Aさんは経済的に厳しい状況で、苦しい生活状態だったのではと推測している。

 

 

 

Aさんは上記の通り、大変な苦労をして九州大学法学部に入学している。26歳で大学院に入っているが、アルバイトと奨学金で生活しながら研究に励んだのだろう。その後、博士課程に進学するが博士論文は提出せず、2010年、38歳で退学している。在籍可能期間満了だったのだろう。

 

 

 

しかし退学してから8年間、研究室は使い続けている。住まいを失ってからは研究室に寝泊まりしていたらしい。在籍していない元研究生に何年も研究室を使用することを、結果として許してきた大学当局の態度には疑問が残るが・・・・・

 

 

 

研究は続けたいけど、生活費も稼がないと生きていけない。Aさんは昼間は働き、仕事のない日や夜間に研究を続けてきたのだろうか。非常勤の講師などもしていたようだが、その地位は不安定なものだ。奨学金返済の重圧もあったのだろう。

 

 

 

「九州大時代の友人や教員たちとは良好な関係を維持していたようだ」とレポートは伝える。またレポートや他の記事を読んでも、Aさんの人柄や能力などについて否定的な情報は無い。

 

 

 

 

そういえば、今回いろいろ調べているうちに、”学歴難民”という言葉にも出会った。

 

 

 

修士や博士といった学位があっても、安定した定職に就けず、臨時の研究職、大学非常勤講師、予備校や塾の講師といった一時的なポジションで生活費を稼ぎ、自分の希望する研究ができて、安定した収入を見込める職場を心待ちしている方が多くいるということだ。

 

 

 

 

当然、「研究職への希望を捨てて、一般企業へ就職すればいいじゃないか」という意見はあるだろう。

 

 

 

しかし、ある特定の分野で研究に打ち込んできながら、他分野で求職する30歳を過ぎた者に、今の時代が優しい就職環境でないのは、想像に難くない。

 

 

 

30歳、40歳になって民間企業に職を求めるには、「年齢」・「プライド」・「学歴」、そして親など「家族からの期待」・・・・・自身の内外に多くの障害になりうる要因があることは十分予想される。

 

 

 

関連情報を検索して読む中に、「今回の事件は、自分だったかもしれない」という気持ちになった方が多いという記事があった。心苦しくなる現実だ。

 

 

 

そういえば前日の20日に開いた高校時代のクラス会に、3人の大学教職経験者が参加していた。「自分は△△さんの紹介で、〇〇大学に移ってよかった」とか、「◇◇大学の紹介で、運良くポストを得た」という話が出た。現在とは時代背景は異なるが、人との繋がりが彼らの現在のポジションに繋がっているのだということを教えられた。

 

 

 

私は「博士」という学位の必要な教職や研究職等の分野の、人材需給関係がどうなっているのかは知らない。おそらく人材過剰なのだろう。

 

 

 

 

 

 

地下鉄の「箱崎九大前」駅に掲示されていた、人材サービス会社の広告。

 

 

 

苦学をして九州大学に入学したAさんは、活躍の場を与えられることなく生涯を閉じたことになるのだろうか。

 

 

 

15歳で自衛隊に入り、通信制の高校で勉強しながら九州大学法学部に入学したAさん。彼が専攻した分野は「憲法」。彼の「憲法観」を論文で読んでみたかった。

 

 

 

 

実は、彼が亡くなった翌日が、大学側から研究室退去を迫られていた期限だった。



 

華やかな大学移転の陰で、学生の姿も消えた寂しいキャンパスの、古い建物の一室でこうした事件が3週間前にあった。

 

 

 

なにか重い沈んだ気持ちで私はまた駅まで歩き、友人と昼食を共にするために、待ち合わせ場所の天神に急いだ。