ここ数日だけでこんなに、♪とーれとれピーチピチ、夏休みですなぁ……獲れたてのアホがザックザク。
まぁ皮肉はそこまでにしておいて。
一旦散らばりかけていた僕の「表現の課題」が、今ひとつに収斂しつつあるように感じる。
「『怒り』とは何か」、である。
「怒り」が、今SNS中に、いや日本中に世界中に満ち満ち溢れている。
僕が言うのも説得力全然ないが、「怒り」という感情は、当然のことながら最も人類にとって恐ろしい行動原理だと思っている。
しかし、「喜怒哀楽」と言われる以上、この世から「怒り」という感覚がなくなるのは、まずないだろう。
アンガーマネジメントとかいろいろ言われているが、結局人間から「怒り」を消し去ることはできない。
それに関しては中野信子先生に代弁していただこう。
「怒り」を発露すれば快楽になるというのだから、人類が「怒り」を捨てることは決してない。
さて、ならばどうすればいいのか?
僕がこないだなべりんに言ったのは、まず「怒り」という感情はてめぇ自身のものであって、周りの他人には関係のないこと。
それを他人に関係付けたり、ましてや「怒り」の標的にする時は、「理由」と「目的」をはっきりすること。
そして更に、その「理由」や「目的」が、社会的な常識感覚や倫理観、引いては理性に符合しているか、それを確かめること。
この最後の行が難しい。
非常に頭を使うし、冷静さも要る。
ただ、これ抜きに他人に噛みつく奴は、単に自分の「怒り」という感情を鎮めたいだけのただの「八つ当たり」に過ぎない。それだけは言いたい。
蛇足になるかも知れないが、僕はそういった、己の「怒り」に任せて他人に当たる人々が、果たして毅然と、他人、特に凶悪犯罪者を罵ったり、バケモノ扱いできるのだろうか?と思う。
そんな自分が、宅間守や青葉真司と、自分たちとはまったく違う!別の生き物だ!と言い切れるのだろうか?
ややもすれば、ほんのちょっとしたきっかけで、タイミングで、「あっち側」に行っていた可能性も、否定し切れないのではないだろうか?
僕たちは、あくまで理論的に、だが、確かにそういう「怒り」という感情で、細いか太いか解らないが、そんな糸で皆結ばれているのだ。……と思う。
これに例外はないのだ。
既に何度も述べているが、宮台真司氏の「感情の劣化」理論、そして高畑勲監督の「ムカつく」批判は、まさにそういう、「怒ったモン勝ち」の現代に問いかけられているのだ。
これに関してはもっともっと言いたいことがあるが、それ以上にもっと考えたいので、ひとまずここで締めておく。
学ばなければ。考えなければ。