私の記憶が確かならば……とか某「料理の鉄人」のごとく始めてみる。
僕は皆さんご承知の通り、根が陰キャなので、修学旅行の(いい)思い出なんてほとんどない。
小学生の時は広島に行き、友達がいないから離れ小島を自転車で一人駆け回っていたのを覚えている。
それ以上に強烈だったのが、高校生の時の修学旅行。北海道だった。
進学校には良くある話だろうが、僕の高校では2年生の秋修学旅行に行くことになっていた。
当時の僕はアニメ三昧、だったはずが、今では巨匠とまで言われる某K氏(部長)に吹奏楽部に引きずり込まれ、正指揮者の大役を仰せつかっていた。
そこまではまぁいい。
どんないきさつか、何のノリか、誰の提案かは忘れたが、体育祭の入場行進曲に『ふしぎの海のナディア』のキャラクターソング『レッツ・ゴー・ジャンくん』をやろう!という話になった。
今やアニオタすら知る人は少ないだろう。
しかし困ったのは、これ、吹奏楽のアレンジ誰やるの?ということになった。
多分言い出しっぺは僕だったのだろう、僕が編曲をやることになった。
ただその当時の僕は吹奏楽に飛び込んで2年目、楽譜の読み方もロクに知らなかった。
例えばクラリネットはB♭調の楽譜、つまり「ド」の音が「B♭」なのだ。
同様にアルトサックスはE♭譜、ホルンにいたってはF譜だ。解るかな?
まだ楽譜をひいふうみい……と数えてようやく読めるようになったばかりの僕には大困難な作業だった。
それも総譜(フルスコア)だけじゃなく、パート譜まで書いた記憶がある。
まぁ、この作業のお陰で僕はスコアをなんとか読めるようになるのだが……。
だがしかし、なんとまぁ、その体育祭が修学旅行の一か月ほど後に組まれていたのだ。
こりゃ大変。
僕は五線紙を持って修学旅行に向かうしかなかった。
合奏が間に合わない。そして誰も助けてくれない。覚悟を決めた。
だから修学旅行と言っても、夜通し楽譜をひいふうみい……と必死に書き、朝を迎えて昼間は観光バスの中で爆睡、そんな日々が続いた。
なんじゃこりゃ?俺何やってるの?
今思えば、この時から庵野さんへの呪いの萌芽が生まれていたのかも知れない(って、これは冗談)。
とにかく助けてくれる吹奏楽部の仲間は誰もいない。修学旅行は孤独な戦いと化した。
正直なーーーーーーーーんも楽しむところがなかった。
当時の吹奏楽部の連中はなんと無慈悲だったことか。唯一だったが、ホルンの同級生(女子)が僕を心配して、夜中お菓子の差し入れをしてくれただけだ。
途中一日ホームステイのイベントがあったのだが、3人一組の設定だったが僕はそれどころじゃない、誰とどう組むのかどうかも忘れていたため、最終的に余り馴染みのない修学旅行委員の班に突っ込まれた。
酪農体験を一日やらせてもらったのだが、僕にとってはそれどころじゃない、楽譜を完成させねば!
体育祭に穴が空く!
最終日の前の晩だった。見るに見かねたのだろう、ラグビー部の友人だったK君(さっきの大巨匠Kとは別人な!)が悪戦苦闘の僕に声をかけてくれた。
真っ暗なホテルのラウンジで、いろんな話をした。
やっぱり恋の話が主だった。
「俺はこの子に告ろうと思ってる。お前は?」
僕は、そこで当時好きだった同級生の名前を出した。
「そうか、がんばろうな!」
翌日は札幌で(また)班分けで自由行動だったのだが、K君の計らいで僕は彼のラグビー部班に合流できた。
やっと最終日、僕は北海道を満喫できた。
トウモロコシなどいろんな食を堪能し、集合時間30分前になって、そのK君が「いけるやろ!もう一軒行こう!」
確か駅に近い海鮮丼屋に飛び込んだのだ。
僕は、というかメンバーほとんどが、イクラ丼を頼んだ。
あの時の旨さは今も忘れない。人生最高のイクラ丼だった。
帰りは寝台列車だった。行きは飛行機だったので不思議だったが。
そこでまた半日近い時間ができる。僕は揺れる車内の中、また五線紙と格闘した。
俺いつ寝たんだろう?
結果としては修学旅行では完成しなかったが、体育祭には間に合った。
写譜ミスなどは多々あったろうが、なんとか曲になった。
で、体育祭の入場行進で、自らの指揮でこの曲を披露した。
終わってから後輩が、
「あの、テンポが速すぎて誰も行進できないって言ってました」
知るか!!!!!!
俺の修学旅行を返せ!!!!!!!!
僕にとって、結果としては濃厚に思い出に残った修学旅行の話である。
因みに『WUG』の時に日髙のり子さん(歌い手)に「『レッツ・ゴー・ジャンくん』、僕が編曲して体育祭にかけたんですよ!!」と言ってみたら、
「ああ……え??」
覚えてないんかい!!!!