これを観て「ああー富野さんもそう思っていたかぁー」と納得し、更にそれに対する岡田さんの解説(反論?)にはつくづく溜息が出た。
アニメもとうとうここまで来たか、と。
キャラはただのアイコンであり、「看板」でいいのだ。
ファンはその人間性を勝手に想像するのが楽しいのであり、それをわざわざ描写するのはただのノイズである。
これはまさにアニメの「ポストモダン」を象徴する、一番の特徴だと言っていい。
実は僕の高校~大学時代、「やおい」というジャンルが流行った。
「山なし、オチなし、意味なし」の略だ。
もうこの言葉も廃れた。なぜなら今のアニメは「やおい」が当たり前となったからだ。
当時、主にそれは腐女子向けのジャンルで流行った。
僕は腐女子の先輩に訊いてみた。
「この作品、どう観てもつまらないでしょ?先輩は面白いんですか?」
先輩は、
「つまらないのは解ってる。でも私たちの想像を膨らませるきっかけさえあればいいの!」
そう力説した。
世も末だ、と思ったものだ。
今はまさに「世も末」となった。
地獄とさえ思える。
やはり、僕が「アニメ」だと信じたものは、もうこの世界にはないのだろう。
でも、信じるしかない。
時計の針は戻らないが、進めることはできる。
僕は富野さんの疑問、いや怒りを岡田さんのように相対化することなく、アニメのポストモダン化に立ち向かう。
アニメのポストモダンは絶対に危険だからだ。「自分の想像力がすべて」という手前勝手な感覚が、オタクから常識や理性、知性を奪ってしまい、ここまで狂暴化させたからだ。
アニメのポストモダンの終焉。
僕の残りの人生は、それに賭ける。