何週間か前、≪新世界教育法~大人が手本を見せる~≫ という記事にひとつのコメントが送られてきた。
そのコメントの送り主はURLを公開しており、自分の正体も公明にしており、さらに記事も多く公開していた。わたくしメシアにコメントを読んでもらえる条件をそこそこ満たしていたので、そのコメントを開いて読んでみることにした。ちなみにそのコメントの送り主は高校生の少年である。そしてそのコメント内容とは次のようなものだった。
「走れないのを先生のせいにしてるだけじゃん」
……まだ子供とはいえ、論外の低次元コメントにあきれ返ってしまった。
体育の授業で先生に走らされた距離がわずか100メートルだけならばわかる。『100メートルも走ることができないで不平不満をいうなんて、そんなの先生のせいにしているだけだ!』と。
しかし、私たちが走らされた距離は100メートルではない。その10倍の1000メートルである。ちょっと体操をしただけで『さあ、走れ!』といわれたところで大人でも走ることなど無理だろう。この説明は記事の中でもおこなったものだ。それだというのに━━『走れないのを先生のせいにしてるだけじゃん』━━とは非論理的、支離滅裂もいいところである。
さらに頭にくるのがそのいい方。なぜ目上の人間にため口なのだろうか?━━こうした理由から失礼で不快なコメントと判断し、私はこの高校生の少年から送られたコメントを削除することにした。
それからも同じ少年から不愉快な内容のコメントが送られ続け、私はすべて読まずに削除することにした。
ところで、なぜ私が今回このような記事を書くことにしたのか?私は常日頃からこういっている。
「URLを公開していて、自分の正体を公明にしていて、記事を最低5つ以上公開している人のコメントなら読んであげよう」
高校生の少年はこれらの条件を満たしている。にもかかわらず自分のコメントが削除され続けた。そのことで━━『メシアさんはあんなことをいっていながら僕のコメントを削除し続けた嘘つきだ!』といったいちゃもんを発する可能性があると判断し、その前にコメントを削除した理由を記事にして説明したというわけなのである。
それに高校生の少年は、厳密には私にコメントを読んでもらえる条件を満たしているわけではない。以前にもいったことだが、私にコメントを読んでもらう、または私と論争をするには━━
“基本的にメシアさんが正しくて自分がまちがっている”という観念を前提にして議論を進めること
━━この条件も満たしていないとダメなのである。
高校生の少年はこの条件をまったく満たしていない。ゆえに私は高校生の少年のコメントをすべて削除したというわけなのである。これで今回の論証は終わり。