いじめをなくすには、ただ単に死刑制度を厳しくすればいいというのはわかってもらえたと思います。そしてそのための具体的な方法も記しました。実際に法律化されるには膨大な月日を要すると思われますが、いじめをなくすことなどあっけないほど簡単なことだということは理解できたと思います。
しかし、たとえ私の新世界観が実際に法律化されたとしても、すべての難題が一気に解決されるわけではありません。その①に書いたように、いじめをなくすことより遥かに難しい問題が存在するのです。
それこそ、いじめと粛正の境界線を見極めることです。
たとえばAくんがBくんに罵倒・暴力を浴びせたとします。それだけを見ればAくんが完全ないじめの加害者で、Bくんが完全ないじめの被害者のように感じるでしょう。しかし、罵倒・暴力を浴びせたAくんにもなんらかの理由があるはずなのです。
もしもAくんがBくんに罵倒・暴力を浴びせた理由が━━
顔が気にくわない。
服装が気にくわない。
しゃべり方が気にくわない。
とにかくむかつく。
━━こうした理不尽で、傲慢で、漠然としたものだったなら、Aくんの罵倒・暴力はいじめという悪の行為と判断していいです。そしてAくんを捕らえて処刑すればいいのです。
が、しかし、です……。Aくんに罵倒・暴力を浴びせられていたBくんが、明らかに非の塊だった場合は話がちがってきます。
たとえば私が小学生の頃のことです。クラスに6年生にもなって足し算はできない、ひらがなの簡単な文も朗読できない、ついには授業中に汚穢までもらすような女子生徒がいました。仮名はCとします。無論、その女子生徒Cはクラス中からの罵詈雑言の的になり続けることとなりました。
私が通っていた小学校の生徒たちは基本的に“いい子”ばかりだったので、暴力をふるったりとか、ノートや教科書を破いたりとか、机にいたずら書きをしたりとか、そうしたむごたらしいことはまったくなかったのですが、Cに対する罵倒と嘲笑がやむことはありませんでした。
ここで問題が発生します。Cに対してみんながおこなっていた罵倒という行為は、果たしていじめというものに分類できるのだろうか?というものです。クラスのみんなはCのことを顔がどうたらとか、服がどうたらとか、しゃべり方がどうたらとか、そうした漠然とした理不尽な理由で罵倒していたわけではないのです。
『6年生にもなって足し算も朗読もろくにできず、授業中に汚穢までもらしやがる。すごく不愉快で迷惑なやつだ。頭にくるぜ!』━━こうした理由から罵倒をおこなっていたのです。そしてこの理由は筋がとおっています。Cはみんなから罵倒されて当然であり、Cを罵倒したみんなの行為はいじめとは呼ぶことはできません。粛清、またはバッシングと呼ぶべきである。そしてCこそがみんなに迷惑をかけていた加害者であり、Cこそが頭を下げてみんなに謝罪すべきなのです。
私がこうした発言をするたびに必ず反対意見を唱える人が出てきます。アメばたでは━━
「たとえ勉強ができず汚穢をもらすような人でも、それを理由に粛清の名のもとにいじめてもいいのだろうか?」
「足し算ができなかろうと汚穢をもらそうと、そんな奴も含めてみんなで生きていくのが社会のありかただろうが!」
……まず、Cに対するみんなの罵倒行為は、くり返すようにいじめではなく粛清・バッシングです。加害者はCのほうなのです。
『罵倒とバッシングはちがうと思うが……』という声が聞こえてきそうだが、その点はまだ小学生の子供なのだからしかたがないでしょう。まだ分別がつかず、感情のコントロールもできない子供たちです。不愉快で迷惑な奴がいたなら、そいつに対して真っ先に罵詈雑言を浴びせてしまうのもいたしかたないはず。子供たちを責めるのは酷な話です。
会社内に単純な計算も簡単な朗読もできず、仕事中に汚穢をもらすような同僚がいた場合、ほかの社員たちはその同僚に対して罵倒を浴びせたりはせず、職場の責任者の人に『あの人、明らかに能力が平均を下回っていて、みんなの足をひっぱってたいへん迷惑なんです。なんとかなりませんか?』と相談を持ちかけることでしょう。
分別のつく大人なら冷静にそうした対処をとることができるでしょうが、子供たちにそれを要求するのは無理な注文です。罵倒、暴力、いやがらせは誉められたことではないですが、“ある程度しかたがない”としかいいようがないです。
ふたつ目の意見についてなのだが、私はCのような人間を仲間はずれにするとはいっていません。Cこそが加害者なのであり、Cが反省をしてほかのみんなに謝罪するような世の中を構築すべきだといっているだけです。
また、あまりにひどいようなら通常の学校をやめさせて、またちがった学校に通わせて新たな人生をおくらせれば一件落着でしょう。全国からCのような子供たちを集め、周りの人に迷惑をかけない人間に育てる教育を施すのです。それによってCのような子供たちも立派な大人に成長できるというわけなのです。
いじめをなくすことは極めて簡単。難しいのは発生した罵倒が、暴力が、いやがらせが、本当にいじめなのか、それともバッシングなのかを細かく見極めることなのです。
世界中の一見、いじめ被害者に見える子供たち。その中には実はCのような子供も多く含まれていると思います。その場合、その子供に罵倒・暴力・いやがらせをおこなった子供たちこそが被害者なのであり、その行為はいじめではなくバッシングというものになります。そして反省して謝罪すべきなのは、みんなから罵倒という名のバッシングを受けた子供のほうになるのです。これから世界中の教育関係者たちはいじめとバッシングを冷静に細かく識別する能力、真の被害者・加害者を判断する能力を獲得していく必要があるといえるでしょう。