私のアメブロ生活最大の大事件“パントさん事件”。これはパントさんが真似事記事を公開していた頃の第1次と、勉強会をおこなっていた頃の第2次に分かれる。
その第2次の勉強会ブログ記事が最終回をむかえ、当人のパントさんと電話で話もし、ついに、ようやく、本当に今回の騒動に終止符が打たれたものと胸をなでおろして安堵したものだった。
が、パントさんとの電話での会話終了後、パントさんの発した言葉ひとつひとつをじっくり思い出して冷静に検証してみたところ、腑に落ちないひっかかる点が多く浮上してきたのである。
《最後の“パントさん事件”総括~これが本当のラストです~》にそれらをいくつか書いたのだが、その記事を公開後、再び改めてパントさんとの会話を思い出してみたのだ。するとパントさんの口から耳を疑いかねない、天地がひっくり返るほどの壮大な矛盾が含まれた言葉があったことに気づいたのだ。
パントさんとの会話中はパントさんの大声による持論マシンガンに適当に相槌を打ち続けていただけだったので特に気にはとめなかったのだが、あとあと冷静に考えると100%おかしい、100%とち狂った発言であることに気がついたのだ。
それでは、そのパントさんのとある発言をここに紹介しよう。
「知り合いに君のブログのことを教えられてねぇ。そして読んだんだよ、『北斗の拳』のやつ。爆笑した。あまりにすごすぎて。君のブログは本当にすごい!君の文章は本当にすごい!」
……この中に壮大な矛盾が含まれていることにお気づきだろうか?卓抜たるミステリーファンで、さらに私の記事《メシアVSパント 最終決着》にも紹介したパントさんの記事《残念ですが…》を読んだことがある人なら『あぁ!そのことか!』と強烈な衝撃に襲われながら気がつくはずである。
『《北斗の拳》のやつを読んだんだよ。君のブログは本当にすごい!君の文章は本当にすごい!』━━パントさんのこの言葉に対して『そうですか。それはありがとうございます』と、いいたいところなのだが、今紹介したパントさんの発言によってパントさんの勉強会の意図が、大ファンの私にいろいろな人たちのいろいろなメッセージを聞いてもらいたいがためなどではなく、やはり自分を完膚なきまで論破して恥をかかせた私への当てつけ中傷だったことがわかった。私はパントさんのことを外道の中の外道だの、ドブネズミの中のドブネズミだのと罵倒したことに反省を感じ出していたのだが、反省など微塵もする必要がないことにようやく気づくことができた。
ハァ、あやうく話を自分のペースに持ち込んでいく天才パントさんの魔術にだまされるところだった……。
では、説明をしよう。パントさんは真似事記事のラスト記事《残念ですが…》の冒頭にこのようなことを書いているのだ。
「以前同様ウダウダと長く的を得ない内容になってしまいました」
━━パントさん?正気か?あなたは知り合いに私のブログを教えられて《『北斗の拳』を笑いのネタにする連中について》を読んでこう思ったのだろう?『爆笑した。すごすぎて。君のブログは本当にすごい!君の文章は本当にすごい!』と。それだというのに、『以前同様ウダウダと長く的を得ない内容になってしまいました』とはいったいどういうことなのだ?
もしも『メシアくんには珍しく、今回に限ってはウダウダと長く的を得ない内容になってしまいました』といういい方ならばまだわかる。しかし知り合いに私のブログを教えられて最初に読んだらしい記事《『北斗の拳』を笑いのネタにする連中について》を大絶賛したにもかかわらず、そのあとに公開した記事を『以前同様ウダウダと長く的を得ない内容』とはどういうことなのか説明してもらいたい。完璧なる、完全なる矛盾である。
おそらくパントさんがはじめて読んだ私の記事はテーマ・論証の記事だったのだと思われる。そしてそれらの記事に対し『ウダウダと長く的を得ない内容の記事だなぁ』といった感想を抱いたのだろう。それからタイトル・論証と題した私の真似事記事を公開し、ラストの《残念ですが…》の中で『以前同様……』の文を書いたのである。つまり電話の話は真っ赤な嘘だったということなのだ。
パントさんの言葉が真っ赤な嘘であることを証明するもうひとつの証拠がある。パントさんは《残念ですが…》の中でこのようなことも書いているのだ。
「当初から人を小バカにし、皮肉った内容のあなたの記事に相当数の迷惑コメントがあったと思います」
━━私の1番目の記事《『北斗の拳』を笑いのネタにする連中について》は、『北斗の拳』を小バカにし、皮肉る人間たちに怒りと哀れみを抱いているという内容のものだ。
パントさんが本当に知り合いに私のブログを教えられて、本当に1番最初に《『北斗の拳』を笑いのネタにする連中について》を読んだのなら、『北斗の拳』を小バカにし、皮肉る人間たちに怒りを抱いている私に向って『当初から人を小バカにし、皮肉った内容のあなたの記事に……』などという言葉を吐くことはぜったいにありえないはずだ。つまり真似事記事を書いて公開していた頃も、《残念ですが…》を書いて公開していた頃も、パントさんは私の記事《『北斗の拳』を笑いのネタにする連中について》を1度も読んでなどいなかったというわけなのである。
『知り合いに君のブログのことを教えられてね。そして読んだんだよ、《北斗の拳》のやつ……』━━くり返すように、この言葉は真っ赤な嘘だったのだ。
そもそも再三くり返してきたように、《残念ですが…》の中で『メシアくんには関わることを控え、読者として見守っていくことにします』といったではないか。それだというのに、なぜ勉強会などという私にメチャクチャ関わるブログを公開し続けたのだ?スーパー嘘、スーパー矛盾もほどほどにしてほしい。
だいいち、あの勉強会の内容を見ただけで、100%私への当てつけ中傷であることは明白だ。あのどこが“メシアくんにいろいろな意見があることを教えるためのやむをえない方法”などと呼べるのだ?このうえなく苦しすぎる口実である。その代表的な記事が、パントさんが匿名希望を名乗って別人のふりをしてコメントした記事である。もうないみたいだが……。
これらを総合して考えるとやはりパントさんの勉強会は私への当てつけ、いやがらせであり、私への間接的なメッセージなどではまったくなかったのだ。
先日、電話で話をしたパントさん━━とても明るく、とても爽やかで、とても知的で、とても好印象の人だった。が、それらすべて私の機嫌をとるための芝居だったのだと思われる。人間とは恐ろしいものだ……。
━━今、“電話”というキーワードが再び出たが、私とパントさんが電話で会話をした時点ですべてとち狂っている。
私とパントさんが電話で話をする必要性などない。前々から何度も何度もいい続けていたように、私のブログコメント欄の中で話にけりをつければいい問題なのだから。それに今回の騒動にかかわってきたほかの人たちも、コメント欄の中での話し合いを期待していたはずである。そのほうがどのようにけりがついたのか詳しく通暁できるからだ。
それだというのに、なぜパントさんは電話という手段をとったのか?
理由その1━━会話内容をほかの人に知られずに済むから。
理由その2━━自分が一方的にしゃべり続けていれば、話を自分のペースに持ち込める上、論点をあやふやにすることができるから。
コメント欄での論争は、順番にコメントを入れあって進めるのが暗黙のルールである。自分だけ立て続けに10個も20個もコメントを入れるわけにはいかない。必ず相手━━自分━━相手━━自分という順番を厳守しなければならないのだ。よって自分がどれだけ論点をずらそうと躍起になっても、必ず私に軌道修正されて痛いところをつかれることがパントさんはわかっていたのである。そのためにコメント欄での話し合いを避け、電話という手段をとったというわけなのだ。
卑怯という名の底なし沼が目に浮かびそうだ……。
ところで、パントさんの友人のchaosさんは、私がパントさんの声に耳を傾けようとしていることにかすかな感動を抱いたらしいが、本当に残念ながらパントさんの声に傾ける耳は私にはない。もうこれで完全にお別れである。理由はこの記事の中に限りなく具体的に書いた。記した。述べた。それでも私になにか罵倒をぶちまけるなら、あなたのおつむもその程度のものだったというまでである。どうぞ再び勉強会を再開して私の記事を魚にした罵詈雑言大会を楽しんでくれ。
それから前回の記事で書いた宿題“私がメサイアくんのコメントを読まずに削除する理由最後の3つ目”の答えを発表しようと思う。
私は以前chaosさんにこのようなコメントを入れられたことがあるのだ。
「あなたのすべての記事に感動などありませんな。笑止な話です」
これがただの嫉妬であることは無論だが、chaosさんのこのコメント以来、たとえ自分の本当のブログのURLを公開している人のコメントだったとしても、最低5つ以上の記事を公開している人のコメントしか読まないときめたのだ。そうでなければchaosさんのようないちゃもんコメントを送りつけられた場合のお返しいちゃもんコメントを送りつけることができないからである。これが私がメサイアくんのコメントを読まずに削除する3つ目の理由だ。かなり難しかったかな?
ちなみに、たとえ5つ以上の記事を公開していたとしても、アメンバー限定記事ではダメである。全員公開記事でなければフェアではない。
そういえば『笑止な話です』といういちゃもんコメントを送りつけてきた当時のchaosの公開していた記事は、全部アメンバー限定だったように記憶している……。
さて、そろそろ今回の記事も終わらせようと思う。しかしその前に、今回の騒動ではっきりとわかったことがひとつあるので、それを書いてこの記事を終わらせてパントさんたちにお別れを告げようと思う。
私が今回の騒動でわかったこと━━それは“人は皆弱い生き物”ということである。
かなり古臭く、真新しさもなにもない言葉かもしれないが、今回の騒動によってそのことを改めて再確認した自分がいた。
まずはパントさんたちにブログをあざけられている私を、ひとりとして自発的に助けてくれなかった私の150人の読者たち。
なぜ彼らは私を助けてくれなかったのだろうか?私は彼らにプチメを送り、その中の何人かは肯定的な返事をしてくれて実際力を貸してくれたが、それ以外の100人以上の読者たちは全員知らん顔をきめこみ続けたのだ。もしも私が彼らの立場だったら迷うことなく『メシアさん、パントさんを黙らせるためになにか協力できることはありませんか?』とみずから声をかけていただろう……。
しかし、あなたたちを責めるような真似はしない。誰だって1番かわいいのは自分であり、なるべく危険なことには首をつっこみたくはないだろう。そうした心理が当然である。残念ではあったが、もう気にはしていない。この記事を最後にパントさんたちとのかかわりを断つのでこれからもよろしく。
“人は皆弱い生き物”━━パントさんの理解者として私に罵倒を浴びせ続けてきた人たち。彼らは私が理屈ではかなわない別格の力量の持ち主と判断するやいなや、小学生の子供のような、見ているこっちが恥ずかしくなるような愚劣な罵詈雑言をぶちまけ出した。敗北感や屈辱感を晴らすための負け惜しみ行為である。中傷の浴びせ合いを勃発させたのはすべてそちら側だというのに、自分のことを棚のてっぺんに堂々と上げてなぜそんなアホなことを……と、絶望のため息をつき続けるだけだった。
自分の負けを認めたくない。敗北感や屈辱感を味わいたくない。そのために自分を負かした相手にメチャクチャな罵倒をぶちまける━━人間の弱さを痛感させられる例のひとつである。
そして、最後にあげるのは、今回の騒動の主役であるパントさんである。私はある意味名脇役といったところだったと思う。パントさんこそが今回の騒動を最も盛り上げてくれた功労者と断言していいだろう。私のこの意見には誰も異論はないはずだ。
そんなパントさんは《メシアvsパント 最終決着》のコメント欄でのタイマン論争で私に世紀の大恥をかかされ、その腹いせとして仲間たちと私のブログをあざける勉強会をスタートさせた。本当に人間とは悲しいほど弱い生き物である。
そんなパントさんは勉強会の中で私のことを『メシアはいいわけの天才だ!』と批判している。自分としてはいいわけではなく究極の結論だと自負しているのだが、ある面から見ればいいわけがましく映る部分もあることなのだろう。しかし、いいわけというものがときとして、人を絶望から救い出すこともあるのだということをパントさんに教えてあげよう。
20世紀最大の天才科学者アインシュタイン。彼は1917年に“宇宙は不変”という考えを通すためにとある方程式を勝手に作り変えたことがあるのだ。しかしそれから数年後、フリードマンという学者がアインシュタインの説を否定する説を発表し、立腹したアインシュタインは『フリードマンは計算をまちがえている』とののしったのだ。そして計算が合っていることが判明すると『数学的には合っているが物理的にはありえない』とつっぱねたのである。
さらに数年後、ルメトールという人物が別説を唱えると『君には物理のセンスがない』ときめつけた。しかしハッブルの法則の登場によってようやくアインシュタインも自分のまちがいを認め、『生涯最大の不覚だった』と語ったのだ。
この話がなにを意味するかわかるだろうか?人類史上屈指の超天才アインシュタインですらまちがいを犯し、幾度にもわたって苦しいいいわけ、子供じみたいいわけを連発したことがあるのである。
私に論破されて大恥をかくことになったパントさん、パントさんのお友達のみなさん。みじめな負け惜しみのいいわけを爆発させたのはあなたたちだけではないのだ。あなたたちの仲間には、かのアインシュタイン大先生も含まれているのである。
『アインシュタインでさえそんなことがあったのか……ならば自分の大恥などとるにたらないものかもな……』と考えれば羞恥心で混沌とした頭もぐんと楽になるはずだ。また、『大恥?この程度のこと別にいいではないか。あのアインシュタインでさえこうこうこうした経験があるのだから』と、悪く卑怯なこととされてきたいいわけを用いて屈辱感を打ち消せばいいだろう。
私の文体をあーだこーだという連中は誰をとってみても『メシアはいいわけの達人だ!』という言葉を口にするのだが、そのいいわけというものが使いようによっては人々を絶望の淵から救出するアイテムになることもあるのである。
私がこの記事でいいたいことはこれくらいだ。これを最後にパントさんたちとは完全に関係を断ち、まったく新しい気分でアメブロ生活を送っていこうと思う。
そもそも今回の騒動を私は今まで大げさに書き続けてきたが、今回の騒動を知っている人は400万人以上いるアメブロガーのうちの氷山の一角の、さらに一角の、さらに一角の、さらに一角の人たちにすぎないだろう。アメブロ生活の中で起こったちょっとした珍事件として思い出の棚の隅っこに置いておこうと思う。そんな私のブログを魚にした勉強会をまたやりたいならどうぞ自由にやってくれ。私はもう2度とあなたたちのブログに訪れることはないから。
ちなみに、私は今回の一連の騒動をつづったパントさん関連の記事を消すことはしない。理由は前の記事でふたつ書いたが、もうひとつあるのである。その理由を読んだ人たちはきっと『やっぱり最後もメシア得意のいいわけで終わるのかよ!』という声をあげることだろう(笑)
では、パントさん関連の記事を消さない3つ目の理由。パントさんのほうは勉強会記事をすべて消したみたいだが、パントさんの勉強会記事と私のパントさん関連記事は、書くことに費やす労力が桁違いなものだからである。
パントさんの勉強会記事の目玉はコメント欄でくり広げられる罵詈雑言だ。記事のほうは適当に短めに終わらせるだけでOKなのである。一方、私のパントさん関連記事は、書くことに費やす時間もエネルギーもパントさんとは比較にならないことは一読すればわかるはずだ。そんなたいへんな思いをして今までこつこつ書いてきた大切な記事を消すことはできない。それにパントさん関連記事は我ながらおもしろいものばかりなので(笑) したがって私はパントさん関連記事を消すことはしない。
そんな私に対抗して勉強会を再びスタートさせたいならご自由にどうぞ。私が見なければそれで済むことなのだから。
それではパントさん、そしてパントさんの周りに群がる方々、さようなら。よいアメブロライフを。
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