さて、世界の常識として各国の國體(オーナー)である王室は、英国のMI6のような独自の情報機関を持っており、日本皇室も例外ではありません。ただ日本皇室の場合、長い歴史の中で培った知恵として、リスクを分散するため統一した情報工作機関は持たず、例えば上原勇作の個人特務であった吉薗周藏のように各特務員、特務機関が個別に活動しているのが実態です。

 

これら國體支援勢力を巷では"八咫烏(やたがらす)"と呼称していますが、八咫烏の由来は、記紀に記された神武東征の際、大和への道案内をした山岳民(やまんご)サンカ(山窩)にあり、サンカの実態が今日「タカス」であることからすると遠からず近からずの憾みはありますが、統一された組織ではありません。

 

具体的には、京都皇統・國體裏天皇を支える國體勢力には「丹波大江山系霊媒衆(皇道大本)」、「京都寺社衆(本願寺、大徳寺、聖護院、勧修寺)」、「大和金峯山修験衆(金峯山寺)」、「薩摩ワンワールド勢力(玄洋社、真方衆、タカス族を中心とした薩摩下士連合)」などがあり、これらが連携して裏から日本を動かしてきました。

 

例えば、このうち大和金峯山修験衆である修験本宗金峯山寺は、「役行者(役小角)」を始祖とする修験者(山伏)の拠点で、役行者(えんのぎょうじゃ)は太古、地球が寒冷化していた時期に山岳地帯で生き延びた「ウバイド系サエキ族(修験サエキ)」に淵源を持ちます。サエキ族は日本皇統の“天孫族”にも連なる氏族で、その証に役行者は「君」の姓(かばね)を与えられています。

 

サエキ族はユーラシア大陸の東西に分布し、西に展開したのがケルト人(Y染色体ハプロR1b)、フェニキア人ですが、東にスキタイ人騎馬隊の棟梁として展開した一派は支那では呂氏(秦氏)や陳氏などとなります。

 

一方、満洲、朝鮮半島方面では扶余(ふよ)族、すなわち、狛(はく)族は高句麗王族、濊(わい)族は百済王族となり、後の「イニエ(崇神天皇)」「ホムダワケ(応神天皇」」の“奉迎工作”で縄文海人族の安曇族の王孫と合族し「天孫族」となります。

 

なお、日本では紀元前6千年の三内丸山遺跡やそれ以前の上野原遺跡が発見されていますが、朝鮮半島には紀元前5千年以前に人が住んでいた痕跡がなく、それ以降もスキタイ人傭兵の駐留キャンプ跡が散見されるだけでした。

 

また、その後現れた半島民の多くは、シベリア・バイカル湖方面から来たオロチョン族とヤクート族が混淆した狩猟民族ツングース人(エヴェンキ族)と、華中方面から来た倭人の混住、混血に過ぎません。

他方、日本では佐伯氏のほかに大伴氏、阿刀(阿東)氏、緒方氏、真田氏などがおり、ペルシャ湾からインド洋、東シナ海などの海路を経て豊後国国東半島近辺など、北部九州にやってきた一派は佐伯氏を名乗り、先住縄文海人アマ(海部、海士)族の領袖・安曇族(Y染色体ハプロD1b)の長(磐余彦こと後の神武天皇)となります。

 

アマ族が北部九州一体の先住縄文海人であったことは、神功皇后による三韓征伐の拠点となった山口県下関市彦島に「海士郷(あまのごう)」という地名があり、壇ノ浦の合戦の際、平家水軍の拠点となり多くの水夫(海賊)を出したことで明らかです。

 

ちなみに、支那の歴史書「旧唐書(くとうじょ)」には「倭国と日乃本國は別種なり」との記述があり、神武東征以前に縄文海人族の「日乃本国」があったことを示唆しています。

 

これは、九州北部にあった倭国以外に、大和地方にあった邪馬台国のほか出雲国、吉備国、東日本の日高見国などの地方国家の連合体、すなわち、「鵜芽葺不合(うがやふきあえず)朝」のことを指していると考えられ、「日乃本国」にちなんだ氏族には日下(くさか)、日下部、日置などがあり、日置村は山口県、和歌山県、鹿児島県にあります。

 

一方、大分県と福岡県の東側は豊前、豊後と言われましたが、対岸の山口県(長門国)西部は豊田、豊浦など“豊”に因む地名が多く、この一帯を古では「トヨの国」といったという伝承があり、実際、豪族・豊田氏が支配していました。

 

また、島根県(出雲国)と接する山口県(長門国)の北半分は古くは「阿武(あぶ)郡」とされ、そこに「阿東(あとう)村」という土地があり、平知盛の知行地となるまでは豪族・阿東氏が支配していました。阿東は周辺に行くにつれて「厚東(あとう、ことう)」「厚母(あつも)」「厚狭(あさ)」などにもなっています。

 

国東半島近辺に定着したサエキ族の一部は、こののち紀伊半島南部へ向かって橘(立花、春日、小野、小野田、和邇、和田、楠木)氏、一部は出雲、北陸へ向かって息長氏を名乗りますが、これら海人サエキも同じウバイド人です。豊後地方から紀伊半島南部に来たことは、和歌山県で神社家に生まれた小野田寛郎氏も証言しています。

 

ちなみに、真田氏は、武田軍法にもなった諏訪軍法と忍者を使って「大坂の陣」で活躍し、その間隙をぬって大坂城に秘匿されていた“國體黄金(皇室資産)”を密かに運び出し陸奥国恐山近辺に秘匿、槇玄範(上田吉松の子)が監視していたと仄聞しています。そして真田忍者の末裔が北朝鮮を建国した“金策(キムチャク)”こと「畑中理(はたなかおさむ)」です。

 

 

次に、京都皇統某舎人氏の「真贋大江山系霊媒衆」によると、丹波大江山系霊媒衆(皇道大本)には戦前、中央アジア偵察を敢行した日野強(陸軍大佐)や、満蒙で馬賊として活躍した王文泰こと出口清吉、大本教の開祖・出口ナオの養子となった出口王仁三郎(上田鬼三郎)らがおり、支那大陸で「満鮮経略」を推進するために活躍しました。 

 

 

なお、“天照の転生”を自称するオカルト系陰謀論者である中丸薫氏の両親で“女将軍”といわれた中島成子と、馬賊の長・韓景堂、中島成子の父・中島比多吉が活躍し、堀川辰吉郎に多大な貢献をしたのもこのころです。

 

 

大本教(皇道大本)は、出口王仁三郎が政治結社・玄洋社の頭山満や、その分派・黒龍会の内田良平らと活動し、信者には秋山真之(海軍)、矢野佑太郎(海軍)、石原莞爾(陸軍)、板垣征四郎(陸軍)らもいて、戦前の軍事政権(陸軍統制派)のコントロールが効かない勢力として危険視され、二度にわたり弾圧を受けます。  

 

この出口王仁三郎と、津軽地方で和薬「一粒金丹(アヘン製薬)」を使って癩者の治療を行っていた医師の槇玄範(まきげんぱん)、大日本皇道立教会(後の創価学会)を創った牧口(上田)常三郎は事実上の異母兄弟となり、岩倉具視・三条実美とともに後に”維新の三卿”といわれた権大納言・中山忠能(ただやす)の二男・中山忠光を会長にして、朝鮮半島南部を監視するために創設した統一教会・幹事長の笹川良一は槇玄範の子で、戦前戦後の宗教界が國體支援のため密接に関係している事実を示しています。

 

例えば、牧口常三郎、戸田城聖が南朝皇統を正統とし、その皇道に沿った教育を行うために一九一一年に創立した「大日本皇道立教会(後の創価学会)」も、久邇宮朝彦親王が総裁、光格天皇の皇子だった(養子)中山忠伊(ただこれ)の子・中山忠英が会長、政治結社玄洋社の頭山満が幹事長となっていた「國體支援勢力」です。

 

 

戦後、創価学会はその役割を終えたとして解散しようとしたが、マッカーサーより反共組織としての存続を要請され、会長を戸田城聖から池田大作に代えて存続された。牧口常三郎が戦時中、拘束されたのはその身辺保護のためで、「獄死」として偽装死し、その後も生きていました。

 

一方、両親とも南朝皇統の係累にある、新代表になった池田大作氏は、國體護持勢力として昭和天皇から絶大な信頼を得ており、その証拠に國體資産の管理に関わっているとともに、護良親王の王子・王孫が創めた欧州國體ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)の執事で戦後、EC設立を実現したリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵とも会見している。また、現在は國體参謀・内閣総理大臣安倍晋三を支える有力勢力でもあります。

 

さらに、「京都寺社衆」のうち修験宗の総本山・聖護院、真言宗系の勧修寺も修験者(山伏)の拠点であり、浄土真宗本願寺派の総本山・西本願寺の門主「大谷光瑞」は、来るべき日露決戦に備えるべく日野強らと同じく中央アジア偵察を行ったほか、引退を偽装し支那大陸に渡って「國體アヘン事業」に関わりました。

 

 

なお、大徳寺の「立花大亀」も國體参謀でしたが、國體天皇堀川辰吉郎亡き後、國體黄金の管理権が自分にあると勘違いし、ロスチャイルドら国際金融勢力と関わって皇室内に深刻な対立を招いたことは「今上天皇譲位決断の背景」のところで詳述しました。 

 

 

最後に、ウバイド勢力の西極たる「在欧ワンワールド」と、東極の「大和ワンワールド」を繋ぐ「薩摩ワンワールド勢力」を統括していたのが、裏天皇・堀川辰吉郎の“影武者”でもあった玄洋社社主・杉山茂丸でした。

 

杉山は工作資金を捻出するため筑豊炭田に目を付けて、元老院議官・安場保和に福岡県令就任を請い実現、また総理大臣伊藤博文から炭坑経営に不可欠な九州民営鉄道敷設の許可も得て活動資金を確保し、さらに「在英ワンワールド」の代理人・英商シーワンと謀り日清戦争、日英同盟、日露戦争と、日本の国是である“満鮮経略”を推進しました。