'12お江戸の真相(21)130歳渡辺幸庵考 | 七面堂九齊のしちめんどくさい話★とんだりはねたり
2012-04-18 11:00:13

'12お江戸の真相(21)130歳渡辺幸庵考

テーマ:江戸時代史・風俗史
【渡辺幸庵】
天正10-宝永8(1582-1711)
元徳川忠長家臣。諱は茂、通称久三郎。自称柳生新蔭流を修めた剣の達人で、忠長改易に際し浪人、幸庵と名乗り諸国巡礼の旅に出る、後年前田綱紀の元に身を寄せ旅の経験を加賀藩士に「渡辺幸庵対話」という本にまとめさせた。
(Wikipedia出典)
実際はこういう人物はいないと確信している。

因みに加賀前田家には1000石渡辺与市郎政氏(藤懸土佐守永元次男・渡辺筑後守勝の養子)を家祖とする家を筆頭に15家の渡辺家がある。

寛政重修諸家譜・巻八「嵯峨源氏・渡辺」の項に幸庵の前半生とよく似た人物像を持つ実在の人物がいる。
【渡辺茂】
ワタナベ シゲ
天文20-寛永15年(1551-1638)
渡辺久左衛門信三男。
慶長10大番頭・従五位下山城守に叙す。
元和5駿府城代・二条城番を経てのち駿河大納言忠長に5000石で附属せしむ。寛永8年(忠長改易時は80歳)。同15年正月4日死去88歳。

茂の子(養子/娘婿)・監物忠(タダ)は長男久左衛門善(ヨシ)を旗本5000石渡辺家に残し、次男・重、三男・高、四男・明、五男・正、六男・恭光(ヤスミツ)を伴い忠長家臣になるも改易後は下野黒羽・大関土佐守高増にお預け。赦免後、明はそのまま大関家々臣に、正は松平下総守家臣、六男・恭光は父・忠の実家である三河岡崎・本多家々臣・戸田家に養子に入り戸田恭光となり致仕後、茂睡と号した、則ち歌人・戸田茂睡その人パーなのだ。

また旗本家に残した善の弟・久助均(ヒトシ)、久蔵保(タモツ)は共に1000石の分家して江戸時代連綿として続いた訳だが、この久蔵保の妻が柳生十兵衛三巌の娘。

よく見ればキーワードはあるよなニコニコ

渡辺幸庵130歳…正に伝説の人間ショック!因みに寛政譜に記載されている渡辺諸家の中には宝永八年死去の人物はいない。