ケアマネジャーが医療知識をつけろについて、書きなぐる。
医学ってのは、『ヒトの体を治す』為にあるわけですから、その仕事の全体(宇宙)は、ヒトのカラダなわけです。まずは、それを理解しようってことで、基礎医学として、解剖学・生理学・生化学・病理学・微生物学なんかをやるわけです。
教育も体系化されているわけで、『まずは、基本的な宇宙を知りましょう。』ってところから、『次に専門分化しましょう』ってことになるわけですね。これは、コメディカル(専門職末端)である、臨床検査技師であったり、PT、OT、ST、看護師なども、ご多分に漏れず、これらを経て、ヒト(ちなみに、生物である人は、ヒトと表現します。人格のある人は『人』と表現しますね)を知ります。
ちなみに、コメディカルの並びは、より、生活に密着しそうな、湿度の強さです。科学的~哲学的の濃度を勝手に並べました。臨床検査技師はより、科学的、ミクロに専門を分化させます。僕が学んでいた当時を考えると、(いいも悪いもこれが専門性だから)心よりも材料を重視します。データ命。まあ、酷いことに、教授連中は医師で学者(特に科学者)だから、看護論文なんかを『非科学的』と一蹴します。よく言うでしょ。看護師談『これだから介護の人は~。』ってフレーズ。これは、看護師が医師から受けていたパワハラの転嫁みたいなものだと思います。いわゆる、『弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く~』ってやつですかね。
もちろん、現在はそんなことは無く(一般的かは確証がないですけど)、『ナラティブで論文も書いちゃうから、母数少なくても問題ないよね~。』なんて流れがあるそうです。NBMのような流れね。
医学が、『ヒト』から入るのはアタリマエで、非常に生物学的で科学的であり、そのアプローチは、冷たい、暖かいとは別の次元で、判断します。これは、効率。ミッションはアタリマエに『命(や病気)を紡いだヒトが人として幸せを継続すること』です。メディカルとコメディカルの違いは、命に対する切迫性の違いだと考えられます。医師が偉いのは、ある一定の教育が担保されていて、人たるヒトの生殺与奪権を握っているからです。そのくらい、たくさんのことを知っていない限り、ヒトを人にするということが出来ないと思います。
で、ヒトを人にするために、医師が生殺与奪権を持ち、それを周辺から協力に支援するのがコメディカルだと考えられます。すなわち、コメディカルの専門性は、『生殺与奪権の判断材料を提案する職』です。最終的な責任は、医師がとります。(もっとも、以前看護師が殺人罪に問われた事件から、コメディカルの権限の範囲が広がったことで、新たなコメディカルの役割というのが定義付けられたと考えられますが)
『福祉』の出発点である、困窮からの脱却を考えると、医療、介護(高齢者への日常生活=そもそも持っているライフワーク)、労働、教育などは、兄弟みたいなもので、それぞれに独立性を持って専門性を持って協働され得る社会のインフラであり、公的に資するものです。もちろん、それらは公的社会保険として担保されています。
高齢者へのアプローチは、(義務教育は終わっているので趣味程度にね)医療、介護、労働(若しくは貨幣による生活基盤)ってのが包括的に提供されるべきです。ですから、介護は医療と別のアプローチが必要で、連動していても、支配されるものではないはずです。(これは、中途半端に医療偏向型のケアマネジメントを助長しているクソな会議等への警鐘でもあります。)
ケアマネジメントは、生活支援なわけで、『医療』『介護』『労働若しくは貨幣』が包括的に配慮、活動されるべきであり、その専門家たちが本人の為に知恵を絞って本人と共に作って行く必要があるわけです。ケアマネジャーがその専門を持っていることは大事ですが、『専門偏向のケアプランやアセスメント』がなされていては、片手落ちです。むしろ、ケアマネジャーは空っぽでもよく、いかに専門職という社会インフラ(専門性という脳みその引き出し)を使って、本人の心身が効率的に向上していくかを第一に考えるべきだと思います。上手く人間関係が取れるなら、空っぽであればあるほど、『公正中立』であると考えられます。いわゆる専門バカ的な偏向アセスメントなどは、将来的にはケアマネジメントの枷でしかないとさえ思います。故に、『ケアマネジャーの医療知識の足りなさ』が問題なのではなく、『ケアマネジャーが持っている、ご本人に対する医療の情報、専門的見地が介護生活に反映される情報スピードの遅滞』が問題なのだと思います。
ケアマネジャーは、『器』。中身は、そのケアチーム。プランはチームワーキングの結晶。イニシアチブは本人。本来はもっと単純な話。
何が歪めるのか?利害でしょ?皆がイニシアチブ。偉くなりたい。
しかし、インフラ整備をしていくことがなかなか出来ていない、イライラが、厚生労働省並びに、クソッタレのなんちゃら分科会に、蔓延しています。『多くの人的インフラが高齢者の生活支援にダイレクトに反映されないならば、ケアマネジャーが医療的知識を付けることで、すばやく判断したほうが良いのではないか?』という安易な考えから、『ケアマネジャーは医療知識を付けろ』と言っている。そのほうが早いから。ですね。
んで、僕は、『ケアマネジャーが医療知識を付けないと!』という議論は、本来、医師会なんかが怒るべきだと思っています。『福祉系ケアマネジャーが医療知識を持っていないことで、トンデモナイことになっている』なんて論調だけど、そもそも、一年~一年半かけて、基礎医学なんかをやるわけで、薄っぺらい教育をして、高齢者の生活を支援させようって方が責任感ない。んで、『ああ、そうだ、看護師は基礎医学もやっているから、判断させていいんじゃないか。』なんてのは、安易に使われた看護師にも失礼な話なんじゃないかと思う。もっとも、頭のいい部類の看護師さんは、そんな話に乗らないだろう。けど、政治的にイケイケの看護師会なんかは、働き口を増やせる!と、乗ってしまうのだろうけど。
『ケアマネジャーの医療知識が足りない』って吼えている人たちは、何か、(業界団体的)政治的なものに踊らされていると思うんですね。古い業界団体ほど、『社会的な権限委譲で支配力を高めることで価値になる』と信じている古臭い体質を持っているわけですから。いわゆる高度成長期で全員お金を奪い合っていた時期の価値観っていうのかな。
こんな情報社会ですから、専門職は社会のためのインフラとして存在するべきで、ネット含め広く点在している専門的引き出しから、利用者に必要なものをいかにコーディネートするかが、ケアマネジャーだと考えないと、未来は無いよね。
じゃあ、介護(日常生活支援)の専門性はどこにあるの?ってのは、また。ですけど、『ヒトを人にする医療』が基礎医学を根底に成り立っている理屈ならば、『(高齢に関わらず)人が人たるを維持・継続・発展させる』ための基礎学問を定義することが大事だという基礎学問が定義されてそれに沿った体系的な教育が必要だと思うんだよね。それが定義されていないと、何十年も『寄り添う~』とかって、感覚的な言葉で語られ、通り過ぎちゃうと思うんだ。
教育も体系化されているわけで、『まずは、基本的な宇宙を知りましょう。』ってところから、『次に専門分化しましょう』ってことになるわけですね。これは、コメディカル(専門職末端)である、臨床検査技師であったり、PT、OT、ST、看護師なども、ご多分に漏れず、これらを経て、ヒト(ちなみに、生物である人は、ヒトと表現します。人格のある人は『人』と表現しますね)を知ります。
ちなみに、コメディカルの並びは、より、生活に密着しそうな、湿度の強さです。科学的~哲学的の濃度を勝手に並べました。臨床検査技師はより、科学的、ミクロに専門を分化させます。僕が学んでいた当時を考えると、(いいも悪いもこれが専門性だから)心よりも材料を重視します。データ命。まあ、酷いことに、教授連中は医師で学者(特に科学者)だから、看護論文なんかを『非科学的』と一蹴します。よく言うでしょ。看護師談『これだから介護の人は~。』ってフレーズ。これは、看護師が医師から受けていたパワハラの転嫁みたいなものだと思います。いわゆる、『弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く~』ってやつですかね。
もちろん、現在はそんなことは無く(一般的かは確証がないですけど)、『ナラティブで論文も書いちゃうから、母数少なくても問題ないよね~。』なんて流れがあるそうです。NBMのような流れね。
医学が、『ヒト』から入るのはアタリマエで、非常に生物学的で科学的であり、そのアプローチは、冷たい、暖かいとは別の次元で、判断します。これは、効率。ミッションはアタリマエに『命(や病気)を紡いだヒトが人として幸せを継続すること』です。メディカルとコメディカルの違いは、命に対する切迫性の違いだと考えられます。医師が偉いのは、ある一定の教育が担保されていて、人たるヒトの生殺与奪権を握っているからです。そのくらい、たくさんのことを知っていない限り、ヒトを人にするということが出来ないと思います。
で、ヒトを人にするために、医師が生殺与奪権を持ち、それを周辺から協力に支援するのがコメディカルだと考えられます。すなわち、コメディカルの専門性は、『生殺与奪権の判断材料を提案する職』です。最終的な責任は、医師がとります。(もっとも、以前看護師が殺人罪に問われた事件から、コメディカルの権限の範囲が広がったことで、新たなコメディカルの役割というのが定義付けられたと考えられますが)
『福祉』の出発点である、困窮からの脱却を考えると、医療、介護(高齢者への日常生活=そもそも持っているライフワーク)、労働、教育などは、兄弟みたいなもので、それぞれに独立性を持って専門性を持って協働され得る社会のインフラであり、公的に資するものです。もちろん、それらは公的社会保険として担保されています。
高齢者へのアプローチは、(義務教育は終わっているので趣味程度にね)医療、介護、労働(若しくは貨幣による生活基盤)ってのが包括的に提供されるべきです。ですから、介護は医療と別のアプローチが必要で、連動していても、支配されるものではないはずです。(これは、中途半端に医療偏向型のケアマネジメントを助長しているクソな会議等への警鐘でもあります。)
ケアマネジメントは、生活支援なわけで、『医療』『介護』『労働若しくは貨幣』が包括的に配慮、活動されるべきであり、その専門家たちが本人の為に知恵を絞って本人と共に作って行く必要があるわけです。ケアマネジャーがその専門を持っていることは大事ですが、『専門偏向のケアプランやアセスメント』がなされていては、片手落ちです。むしろ、ケアマネジャーは空っぽでもよく、いかに専門職という社会インフラ(専門性という脳みその引き出し)を使って、本人の心身が効率的に向上していくかを第一に考えるべきだと思います。上手く人間関係が取れるなら、空っぽであればあるほど、『公正中立』であると考えられます。いわゆる専門バカ的な偏向アセスメントなどは、将来的にはケアマネジメントの枷でしかないとさえ思います。故に、『ケアマネジャーの医療知識の足りなさ』が問題なのではなく、『ケアマネジャーが持っている、ご本人に対する医療の情報、専門的見地が介護生活に反映される情報スピードの遅滞』が問題なのだと思います。
ケアマネジャーは、『器』。中身は、そのケアチーム。プランはチームワーキングの結晶。イニシアチブは本人。本来はもっと単純な話。
何が歪めるのか?利害でしょ?皆がイニシアチブ。偉くなりたい。
しかし、インフラ整備をしていくことがなかなか出来ていない、イライラが、厚生労働省並びに、クソッタレのなんちゃら分科会に、蔓延しています。『多くの人的インフラが高齢者の生活支援にダイレクトに反映されないならば、ケアマネジャーが医療的知識を付けることで、すばやく判断したほうが良いのではないか?』という安易な考えから、『ケアマネジャーは医療知識を付けろ』と言っている。そのほうが早いから。ですね。
んで、僕は、『ケアマネジャーが医療知識を付けないと!』という議論は、本来、医師会なんかが怒るべきだと思っています。『福祉系ケアマネジャーが医療知識を持っていないことで、トンデモナイことになっている』なんて論調だけど、そもそも、一年~一年半かけて、基礎医学なんかをやるわけで、薄っぺらい教育をして、高齢者の生活を支援させようって方が責任感ない。んで、『ああ、そうだ、看護師は基礎医学もやっているから、判断させていいんじゃないか。』なんてのは、安易に使われた看護師にも失礼な話なんじゃないかと思う。もっとも、頭のいい部類の看護師さんは、そんな話に乗らないだろう。けど、政治的にイケイケの看護師会なんかは、働き口を増やせる!と、乗ってしまうのだろうけど。
『ケアマネジャーの医療知識が足りない』って吼えている人たちは、何か、(業界団体的)政治的なものに踊らされていると思うんですね。古い業界団体ほど、『社会的な権限委譲で支配力を高めることで価値になる』と信じている古臭い体質を持っているわけですから。いわゆる高度成長期で全員お金を奪い合っていた時期の価値観っていうのかな。
こんな情報社会ですから、専門職は社会のためのインフラとして存在するべきで、ネット含め広く点在している専門的引き出しから、利用者に必要なものをいかにコーディネートするかが、ケアマネジャーだと考えないと、未来は無いよね。
じゃあ、介護(日常生活支援)の専門性はどこにあるの?ってのは、また。ですけど、『ヒトを人にする医療』が基礎医学を根底に成り立っている理屈ならば、『(高齢に関わらず)人が人たるを維持・継続・発展させる』ための基礎学問を定義することが大事だという基礎学問が定義されてそれに沿った体系的な教育が必要だと思うんだよね。それが定義されていないと、何十年も『寄り添う~』とかって、感覚的な言葉で語られ、通り過ぎちゃうと思うんだ。