先週末の検察庁法改正案への大規模な抗議には珍しくまだこの国も捨てたもんじゃないのかもと思えたんだけど、その後の動きがいかにも悪い意味での”日本的”で、政治に関する議論を交わすこと自体を委縮させようとするものだったり、論点をずらすものだったりで辟易としたので、その問題点とこんなもんに委縮させられないでほしいという思いと、また仮に強行採決されたとしても無力感からまた目をそらすようになるのではなくて、もしそういう理不尽な仕打ちをされたのであればしぶとく覚えておいて次の選挙に活かそう、ということを書きました。

 

1 「政治的発言」云々が論点になること自体の問題性

検察庁法改正についての抗議への反発として、まず繰り出されたのが(「賛成します」ではなく)「興味ありません」という無責任でバカ丸出しのタグだったのが象徴しているように、日本には「政治的意見に興味がない=中立的、冷静、なんならスマート」というような完っ全に誤った思い込みが割と根深く刷り込まれているように思う。

それはその翌日に散見された「芸能人は政治的発言をするな」というようなこれまた低レベルな暴言が、“対立する意見の一方”で論点を形成するかのようになっている様を見ても明らかだったように思う。簡潔に言うと、芸能人だろうが誰だろうが日本で生活している以上日本の政治についての意見を言うのは当然許されるべき、というか政府を監視して次の選挙行動等に反映させるのは国民としての義務ですらあると思う。その義務を果たそうとしたら叩かれるんじゃたまったもんじゃないでしょ。

 

そもそもここでいう「政治的発言」という単語自体に大いに欺瞞があると思う。多くの人が指摘しているところだけど、こういう「芸能人が政治的発言をするな」という文脈で用いられる「政治的発言」は政権批判と同義で、政権を擁護するような発言がこういう暴言に曝された例は俺は見たことがない(例えば安倍首相と仲良くツーショット撮ってる芸能人って多いけど、“その政治的行動は~”と大げさに叩かれてるのを見たことがない。個人的にはどうしても間抜けにしか見えなくなって好きになれなくなる、という弊害はあるけど、その行動自体が大きく問題にされた例は見たことがない)。

 

少し関連することとしては、ここ最近、「(今の政府は)よくやってくださっている」という声を自分の好きな芸能人から聞いて、スッと心臓が冷えるような思いをしたことが何度かある。

よくやってくれている」というのは無難で穏やか、中立的な意見かのように(批判に比べたら圧倒的に)気安く口にされているけれども、これも現在政府がやっている政策を支持するという一つの“政治的意見”の表明であると思う。

表明すること自体は悪くない、というのは仮に自分の考えと反する意見であっても同じ。ただ、愚策のせいで自殺した人、今なお困窮に追いやられている人にとっては嫌な気持ちになるだろうし、少なくとも俺は大いにがっかりする(だって実際に事態は全く収束に向かっていないし、基準を守って死んだ人に「誤解されていたようで」などと責任転嫁して責任すら取ろうとせず、現在進行形で火事場泥棒に夢中でろくな対策もしていない、それを「よくやっている」と評価してしまうような感覚である、ということなので)。本当に現在の政府は“よくやっている”のか、これを“よくやっている”と認めていいのか、その辺りを熟考して発言しているといまいち思えない(要するに”政治的発言“をこの物言いで回避できていると思っているのではないかというフシがある)ところに問題があると思う。

もちろん政治的な意見がどうかと、その人がどういう人間かは別物として考えるべきだから(というかおそらく発言者の半分以上は”よくやってくれている“の物言いが一つの政治的意見の表明だということに気づいていなさそうだから)、がっかりしてさすがにその後の発言は聴く気になれずに番組を切ってしまったりはするけど、「今後一生ボイコットだ!」といった幼稚な反応はしないようにしている。

 

でも、「政治的発言」がどうこう言っている人は、「“政治的発言”をする人間に対しては、人格批判や仕事を干すなどの脅しをいくら加えてもいい、全人格を否定していい」と考えているとしか思えない。そうでなければ明らかに仕事を干されてほしい、というような形での圧力をかけることはしないはず。

こんな自分勝手で頭の悪い連中を相手に議論なんて成立しようがないのに、こっちが徹頭徹尾冷静かつ紳士的な口ぶりでないとなぜか「怒っていて嫌だ」「穏やかな人がいいよね」みたいに言われる始末…本当に日本って後進国だし民度が信じられない位低いと思う。

 

政治的な事柄を見ようともしない人がノンポリで中立的、というのは明らかな誤りだと思うけど(政治的なことから離れて現状がどうかを見ようともしない→問題があっても変えようとしない=意図はどうあれ結果としては現状を維持することに加担していることになる(=その時点での政権の擁護派)ので、中立でもなんでもない)、まるでそれが”スマートな大人のふるまい“であるかのように思い込んでいる人が多くてほとほと嫌になってる。

 

今回の「芸能人は政治的発言をするな」というような物言いは、要するに「一切批判をするな、議論をしかけてくるな」と言っているようなものなので明らかに暴論で反民主主義的なんだけど、それがまるで議論が分かれうる論点であるかのように扱われてしまえば、芸能人以外だって「詳しくない私も意見を言ったら叩かれそう、なんか怖い」と多くの人への萎縮的効果を生みかねない。あんまり正しいとか間違いだとかを大上段から言わないようにしているけど、こういう物言いに関してははっきりと民主主義に反していて、少なくとも日本が民主主義国家であるというならば誤った有害な物言いだと思う。

 

 

不正をしているかのような見た目が生じたのであれば、それはおかしいのではないかと質問することは主権者として当然行うべきことだし(←日本はこの疑問の声をあげた段階で袋叩きにあうところが大問題)、それに対して政府は本来であれば説明責任を果たすべき。

で、説明責任を果たしているかを検討して、国民はその政府に対して選挙の際の投票行動に反映すべき(←日本の最大の問題はここが機能していないことで、結果として“説明をしないどころか、不正をしても何の罰も与えられないからやりたい放題”の状態になっている)。

 

声を上げたこと自体は賞賛こそされてしかるべきで、仮に後で説明がされたらそれほど問題でもなかったとしても(※今回の件は問題でなかったとは到底思えないけど)、疑問や批判の声を上げたこと自体は非難されるべきではないし、恥ずべきことでもない。

 

https://note.com/onoholiday/n/n25def0b27dc7

↑たまたま見つけた記事だけど、上述したようなことが丁寧に書かれていて元気出た

 

 

2 検察庁法改正案への抗議に対する反応のパターン

さっきの「1」の最後の数行に書いたことと関係があるんだけど、検察庁法改正案への抗議に対する反応でなんとなく多いように見えたのは「無色透明な制度論の話にすり替えてしまって、そんなに騒ぐべき問題ではないかのように見せる」というものだった。

この問題がなんでここまで多くの人が抗議をするまでになったかというと、「このコロナウイルスで大変な状況下に、今やるメリットがどこにもない(今このタイミングでやらなければならないとしたらそれは安倍の延命のためにあるとしか思えない)改正を、このタイミングで強行しようとする政府の姿勢に不信感を覚えたから」だと思う。

制度論、「公務員の65歳定年に合わせようとしているんですよ」または「検察に対してコントロールを及ぼすようにできる方がいい」というような反論は、この「それはそれとして、なんでよりによって緊急事態宣言を自らしていうようなこのタイミングで、そんな定年を合わせるみたいないつでもいいようなことをやるのよ(他に意図があるのではないか)」という素朴だけれども真摯な疑問に全く答えていない。「いや、そういう問題じゃないから」といって、真の問題点から目をそらせようとしているようにしか見えない

 

ついでにいうと、制度論としても、検察は行政に属しているけれども準司法的作用がある存在なので、行政の長である内閣の下に位置してそれに原則従うものとして位置づけられるべきではなく、人事権を通じたコントロールが及ぶかのような外観が生じるのは避けるべきではないか、という点は議論になりうる点だから、少なくとも(まともな政府ならば)他に優先すべきことが山積みで手一杯になっている(はずの)この緊急事態下で強行採決するような事柄ではない。

 

なんだかこういう制度論の議論に誘導した上で自論を展開して、聞いた人を「なんかよくわからないまま反論していたのかな…」と不安にさせるような手法が(まあそういう効果を意図したのかどうかは不明で、“ここで流されずに別の観点から考える俺はクール”だと思ってるだけかもしれないけど)散見されたので、そんなことはないし、どうにも政府が疑わしい動きをしていると思ったら声を上げることは賞賛されることでこそあれ、仮に指摘が当たらず政府が説明責任を果たせたとしても、怪しい動きは今後慎むようになるだろうし、政府が説明責任を果たせなかったら(他の人がやいのやいの言おうが)大問題である、ということになる(←今ココ)。

 

長々と書いてきたけど、先週末に思いがけないほど盛り上がったのできっと反動が来るだろうと思っていたら案の定来ていたので、その反動としてかけられた圧力の問題と、その中で説明責任を果たさないまま強行採決をしようとしている政府をどうやって信じられるのか、ということについて、このまま何も言わずに強行採決されようもんなら悔いが残りそうなので書きました。

 

仮にここで止められなくても、「これだけ反対がある中で、説明責任も果たさずに強行採決した政府」ということは絶対に覚えていてほしいし、仮に方向転換したとしても「なんか説明すらできないことをしようとしていて、説明責任を突き付けられたから逃げた政府」ということになる、ということは頭に置いていていただきたい。説明責任を果たして説得的なことを言えばまあ別だけど、金曜日の様子ではおよそ無理でしょ(というか金曜日の時点でアレな時点でもはや何言っても説得力ない)。

 

重要なのは、こういう政府の不誠実なふるまいに対する報いを次の選挙で与えること。仮に今回無力感を覚えるようなことになったとしても、今に見てろよ、としぶとく覚えていることだと思う。声を上げることにはまだ抵抗があってできないとしても今の日本の状況では無理もないので、せめて誰にもその行動をやいのやいの言われない選挙のときだけはしっかりと権利行使をすること。

一人一人が「政治的な問題は‥‥」とすぐ目を背けるのではなくて、しっかりと考えるようになればきっと今の状況は変わるし、逆にそうならないと永久に変わらないと思う。当事者意識を持つことがなぜか政治に関しては避けるべきみたいになっているけどそんなことはないので、自分の未来を託せるのは誰か、ということを、過去の言動も十分に吟味して決めてほしいと思っています。