前回の記事
‐中国こそ現代の『周王』である その1(拡大する漢字文明圏と『天下意識』)‐
・『天下(漢字文化圏)の拡大』と 「土着化」する律令制度
中国の歴史 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 59頁より
その1でお話させて頂いた通り、春秋戦国時代において、拡大する漢字文化圏(天下)と文書行政を目の前に、列国が中元区を支配する周王に、物的精神両面において「特別な関心」を持ち、それぞれが自国内部に『中国』という特別区域を設け、律令制を施行していった流れがありました。
これが時代の変遷により、中国大陸での『統一帝国』が出現したとき、それまでの「戦国諸国内部」での天下(漢字文明圏)が外へ拡大し、中華皇帝と周辺諸国の関係が、かつての周王と列国との立場であり、漢字や律令制をツールに“特別な関心”を抱く過程へとシフトした。
先だって、始皇帝が敵対する諸国家を併呑して、前221年に「天下統一」を果たし、天下(新石器時代以来の文化地域を母体とする諸国/漢字文明圏)はすべて秦帝国の官僚によって統治管理される場所となった。
内訳は、度量衡の統一と、秦の律令、秦の暦が天下にいきわたり、その全域が『中国(特別地域)』へとアップデートされました。
しかしながら、新たな『中国』の外には、当然ながら『中国』に入らない地域が存在し、そこには野蛮人たちが住んでいるという構図になる。それまで「天下内部」での運用実績しかない「中国・夏=中華」や「夷狄」の概念は、陳腐化をさけるべく「新たな変化」せまられた。
そこには、典籍の刷新や新たな儒教主義の観念も取り入れられ、思想的にもしっかりとしたものへと鍛え上げ、「中国(秦漢帝国)」という特別地域と、その外にひろがる野蛮人の地域との関係を定義した。
これが、いわゆる『中華皇帝』を頂点とする『東アジア冊封体制/西嶋定生)』であり、名目的な「臣従関係」を結ぶ外交関係および世界観の構築が確立していったわけです。
文字通り、天下は外へと拡大していった。
春秋時代以前の「大国」と「小国」との関係を、冊封関係として論じることも、不可能ではない。冊封の「封」は「封建」の「封」である。言葉の由来からして、周王朝と諸侯との関係、すなわち封建関係が、そもそも念頭に置かれていたことを、想起することができる。
「東アジア冊封体制」は、儒教理念を念頭に置いて構想される。
『同』 平㔟隆郎著 講談社 52頁より
つまるところ、これらの『原理』を「外へと通底」させるならば、漢字文化と律令制の「輸出」が喫緊の課題となる。
漢字伝播は、漢字による「同化」(発想法の均一化)を意味し、漢字が一般化したところには、漢字を使った文章という「共通の表現」を手にし、とりわけ戦国時代になって文書行政が本格化すると、この「共通の表現」は、官僚たちの「共通の財産」となった。
いわゆる「漢字共同体」としての『漢民族』の出現である。
文字を持たない都市や、もっていても漢字とは違う文字や、独自の符号を使っていた都市では、おそらく相互に異なる言葉が飛び交っていたであろうし、かつての戦国時代の中国では、大国による併呑を通じ、文書行政の施行や官僚支配の統合によって天下(漢字文明圏)が確立したが、古来の朝鮮半島や満州地域、さらには日本列島での『コミュニケーション』のやり取りは、いかなるものかであったかは、専門家の方々の言論範疇でありましょう。
『同』 平㔟隆郎著 講談社 54頁より
さて、中華帝国のはじまりとともに、儒教の思想や、典籍の再解釈を通じた「カタチ」が、皇帝陛下が直接支配する『中国』とその外郭に位置する諸国との「政治関係」が構築され、以前の『戦国時代』の世界観(周王と諸国の関係)が、中国大陸の外へと広がっていく。
理論的範疇としての儒教の経典は大いに役立ち、「特別地域」と「野蛮の地」の関係や、前者には王が君臨して徳で治め、後者の地には、その徳に感化され、そこに住む人々も徳に付き従っていくことを内容とします。
「拡大する徳」(徳化・徳沢)によって、殷代では征伐を支える霊力であった言葉(徳)が、時代の変遷によって、多少の意味合いは変わりますが、中華世界において、ある国が「どのような世界観」を持っていようとも、他国の国家的祭祀の場には干渉しないことは『ひとつのルール』となりました。
ここが『現実的な支配と従属』を強要する欧米とは、一線を画すところです。
ゆえに、「律令制」が完全確立した日本で、天皇という「疑似皇帝」が幅を利かせようとも、基本的にスルーであったことは歴史の事実からうかがえることです。
無論、この徳化の内容を理解できたのは、当時は漢族官僚のみでしたが、「漢族に同化されなかった人々」(中国の周辺諸国)の人々にも「例外」があり、中国との関係を取り持つ「通訳」たちで、彼らは当然、漢族の文化を吸収した知識人であり、彼らを中心に、中華皇帝と周辺国家との外交関係が確立していきます。
文字通り、これが『東アジア冊封体制』です。
のち「通訳」を取りまく環境は、次第に整っていき、やがて周辺諸国が「自前の律令をもつ段階」に至ったとき、その「通訳」の主流は『帰化人』(渡来人)であるとされますが、それが朝鮮半島や日本列島における国家的祭祀の場で、どのような影響を及ぼしたかについては、まだよくわかっていないと本書では記されております。
これらの制度が「実用化された時期」については、そもそも「文書行政」が確立していなければ始まらないので、多くの不明な点を抱えますが、具体的に王莽(前漢の外戚<皇后の親類>で『新王朝』<AD8-AD23>の皇帝)の時代に基礎がつくられ、周辺諸国との関係を取り持つ「通訳」たちが支え、鏡や鉄剣を通じて、日本にも文書行政や律令制が導入されると、漢字文明の多大なる影響のもとに『万葉仮名』が発明されたとて、外交・行政文書は「漢文」が基本でした(朝鮮においても同様である)。
『古事記』の時代から明治維新まで、漢文は長らく日本の公用語であった。飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代と、我が国のお役人や知識人たちは正式な書写言語として漢文ないしは日本語混じりの変体漢文を使ってきたのであり、その間に大量の漢語がそのまま日本語に入って、定着した。
今の日本語の中から漢語を取り去ったら、まともな文章は書けない。片仮名(カタカナ)や平仮名(ひらがな)さえも漢字を改良して作られたものに過ぎない。
つまり日本の文字文化は、近世以前は徹頭徹尾、中国の御蔭を被ってきたといっても過言ではない。しかるに明治維新以後、日本の政治家・官僚・経済人・文化人の目は欧米を向き、とりわけ第二次世界大戦後は、芸術・娯楽の分やを通じて一般大衆にいたるまでこぞってアメリカ合衆国になびくようになった。
かつての日本にとって中国は、現在のアメリカ合衆国以上の圧倒的存在であった。戦後六〇年を経て、今や日本の政府首脳や高級官僚が、日米同盟こそ日本外交の基本方針であると公言してはばからない外交不毛の情けない時代とはいえ、選択肢としてはヨーロッパもあればアジアもある。
しかし飛鳥・奈良時代から平安時代前期の日本にとって大唐帝国は、いわば唯一無二の絶対的存在であった。百済・新羅や渤海があったとはいえ、それらはいずれも漢字と律令制と仏教文化を受け継いだ東アジア文明圏の兄弟のようなものであって、父であり母であり師匠であったのはひとえに唐であった。
森安孝夫 『シルクロードと唐帝国』 講談社 16~17頁より
以下に興味深い事実がある。
「『訓読』や万葉仮名の祖型が発想されたのは韓半島であり、それが日本に導入された。以後、万葉仮名や『漢字を訓で読んでしまう』ことが定着したのが日本であり、韓半島では『訓は意味をあらわす』ことになる。後に新たな原理によってハングルが出現した。ベトナムでは、漢字で表現できない言葉を、字喃(チュノム)というベトナム漢字で表すようになる。」(中国の歴史 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 57頁)
他にも、西夏(タングート)文字や、ソグド文字の流れをくむ契丹文字(後モンゴル文字/満州文字)などの漢字風の文字も出現したりもするが、概ね朝鮮が「中国文化を理解しかみ砕いた」過程で、それが日本にもつながっていく流れは、動かしようのない史実としての『恩恵』をひしひしと感じる。
次回は、その『東アジア冊封体制』の変質・・・周辺諸国が漢字文化を受容し理解を深めていく過程で、自国の君主を「一尊」とする体制を築いていった過程に迫っていきます。
<参考資料>
・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社
・興亡の世界史05 『シルクロードと唐帝国』 森安孝夫著 講談社
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