金正恩氏、父の「慣例」踏襲=「伝統」重視、実務的訪中
北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は初外遊、初の首脳会談の相手国として、父の金正日総書記の「慣例」に倣った形で、伝統的友好国の中国を選んだ。
特別列車で秘密裏に移動し、帰国後に公表した点は金総書記と同様。関係修復に重点を置いた実務的訪問として北京のみの短期滞在だった点も2000年の金総書記初訪中と重なる。
金委員長は26日の習近平中国国家主席との夕食会で「初の外国訪問が中国の首都となったのは当然であり、これは朝中親善を代を継いで命のように大切にしなければならない私の崇高な義務でもある」と強調した。
金総書記の初の首脳会談、外遊は00年5月29~31日の北京訪問。当時も、1992年の中韓国交樹立以降冷却化した中朝関係の立て直しに主眼が置かれていた。
翌月に南北首脳会談を控えていた点も、今回と同様だ。「自らの権威を内外に誇示したい北朝鮮の指導者として、初の首脳会談の相手が対等な関係とみなさない韓国というのは不適切」(専門家)と判断したもようだ。
一方、金総書記とは異なり、各国首脳の外遊のように夫人を同伴。正常な国家と印象付けようとしたとみられる。
計8回訪中した金総書記は、2回目以降は長期間滞在することが多く、北京以外の地方都市をたびたび訪れた。2回目の01年1月は上海を視察し、中国の改革・開放の成果を絶賛。06年1月の訪中では広東省広州や経済特区・深センのハイテク企業などを訪問した。10年8月には故金日成主席が抗日パルチザン活動を行い、北朝鮮と経済関係が深い吉林省や黒竜江省を巡った。
良好な関係の下、当時、中国側には北朝鮮の改革・開放を促す狙いが、北朝鮮側には経済関係を強化し投資を呼び込みたい思惑があった。しかし今回は、北朝鮮にとり強化された経済制裁を緩和させるのが先決。地方視察の日程を組むのは時期尚早と判断したとみられる。
JIJI.COM 時事通信社 3/29(木) 7:13配信
北朝鮮 「最高領導者金正恩同志が中華人民共和国を非公式訪問された 2018.3.25-28 (김정은동지 중국 비공식방문 2018.3.25-28)」KCTV 2018/03/29 日本語字幕付き
https://www.youtube.com/watch?v=riWNpcRXLDQ
今回の金正恩氏の中国訪問で、まるで初めての外遊とは思えないような堂々とした面持ちと、両国の友好的な関係をみて、本来アジアがどうあるべきかについて真剣に考えるようになりました。
もちろん、それまでも考えていたのですが、我が国における状況と照らし合わせて、単なる経済関係の繋がりだけではない、もっと文明論も含めた大きな枠組みの中で、東アジアの問題について各人が感心を持たなければならないと思いました。
伝統的にみて、日本を含めたこの地域は、中国という一つの文明の家によって成り立ち、それによって私たちの世界は構築されていきました。
ここで森安孝夫教授の『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史05 講談社 二一~二二頁)から引用させていただくと、
日本人や東洋人には、西欧は古典古代の昔から人類文化の中心であったと単純に信じ込んでいる人が多い。しかし、近代以後の状況をそのまま過去に投影するのは大きな間違いである。
例えば、八~九世紀におけるユーラシア大陸の東端と西端の文化状況を比べてみよう。
花の都パリという言葉があるが、当時にあって真に花の都の名に値するのは唐の長安である。長安には本屋があって賑わっていたが、それは紙がどこにでも豊富にあり、軽くて安価な書籍が提供されたからである。科挙という試験制度があって受験用に書物の需要が伸びたこと、まだ毛筆の時代ではあるが木版印刷術も発明されて日用性の高い暦書・家庭医学書・道徳書や字書・韻書・唐詩、さらには仏典の印刷が始まっていたこと、商業が発達しており、大都市が多数あってその中に大量の識字層が形成されていたことなども、唐に本屋という商売が成立し得た大きな要因である。
かたやフランク王国に代表される当時の西欧はまだ羊皮紙の時代であり、書物は重くて扱いにくく、しかも高価であった。その上、カール大帝は遊牧国家のリーダーにも似て終始国内を巡回しており、フランク王国にはついに首都と呼べるものは現れなかった。パリにはわずか二万~三万の人口しかなかったのであるから、本屋など成り立つはずもない。軽くて安い紙が中国から中央アジアのサマルカンドには伝播したのが八世紀、アラブ世界に普及するのが九~一〇世紀、南欧イタリアに出現するのはようやく一二世紀であり、西欧ではもっと遅れるのである。
西洋では書物などというものは、ごく一部の王侯貴族とキリスト教聖職者の周囲にしかなかったのである。西洋において書物が「世俗化」して需要が増大するのは、大学というギルド的学問書の揺籃期に当たる一三世紀からであり、本格化するのはグーテンベルクによって活字印刷術が改良(発明ではない)された一五世紀からなのである。
印刷所の普及には安くて大量の紙がいる。本屋の有無が文化水準のバロメーターであるとは、古今東西変わるまい。
ヨーロッパ人がアジア人に対して優越感を持つようになるのも、どんなに早くても一八世紀からの武力侵出以後にすぎない。オスマン帝国・サファービー朝・ムガール帝国・大清帝国といういずれもモンゴル帝国の衣鉢を継ぐ大国が並び立っていた一七世紀まで、経済力においても軍事力においてもヨーロッパとくに西欧がアジアを凌駕したことは一度たりともなかったのである。アジアとヨーロッパの勢力が本当に逆転し始めるのは、オスマン帝国が神聖ローマ帝国を脅かす第二次ウィーン包囲に失敗した一六八三年以後のことである。
この本は、元は大学の参考図書で、私にとって西洋中心主義の楔から解き放ってくれたバイブルのようなものです。
その中で日本のことにも触れています。
『古事記』の時代から明治維新まで、漢文は長らく日本の公用語であった。飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸時代など、我が国のお役人や知識人たちは正式な書式言語として漢文ないしは日本語混じりの変体漢文を使ってきたのであり、その間に大量の漢語がそのまま日本語に入って、定着した。
今の日本語の中から漢語を取り去ったら、まともな文章は書けない。片仮名や平仮名さえも漢字を改良して作られたものに過ぎない。つまり日本の文字文化は、近世以前は徹頭徹尾、中国の御蔭を被ってきたといっても過言ではない。しかるに明治維新後、日本の政治家・官僚・経済人・文化人の目は欧米に向き、とりわけ第二次大戦後は、芸術・娯楽の分野を通じて一般大衆にいたるまでこぞってアメリカ合衆国になびくようになった。
かつての日本にとって中国は、現在のアメリカ合衆国以上の圧倒的存在であった。戦後六〇年を経て、今や日本の政府首脳や高級官僚が、日米同盟こそ日本外交の基本方針であると公言してはばからない外交不毛の情けない時代とはいえ、選択肢としてはヨーロッパもあればアジアもある。しかし飛鳥・奈良時代から平安時代前期の日本にとって大唐帝国は、いわば唯一無二の絶対的存在であった。百済・新羅や渤海があったとはいえ、それらはいずれも漢字と律令制と仏教文化を受け継いだ東アジア文明圏の兄弟のようなものであって、父であり母であり師匠でもあったのはひとえに唐であった。(『同』 一六~一七頁)
こうして、我が国にとって中国とはいかなる存在か、簡単に言えば「家族」みたいなものです。
今回の北朝鮮と中国との「和解」を見て、改めて東アジアの秩序を再確認し、欧米圏とは違う『私たち自身が作り上げる世界』として、ともに団結し、再出発をはかれれば、日本にも明るい未来が待っているでしょう。
<参考資料>
・JIJI.COM 時事通信社 『金正恩氏、父の「慣例」踏襲=「伝統」重視、実務的訪中』3/29(木) 7:13配信記事
・北朝鮮 「最高領導者金正恩同志が中華人民共和国を非公式訪問された 2018.3.25-28 (김정은동지 중국 비공식방문 2018.3.25-28)」KCTV 2018/03/29 日本語字幕付き
https://www.youtube.com/watch?v=riWNpcRXLDQ
・『シルクロードと唐帝国』(森安孝夫 興亡の世界史05 講談社)