藤間紫先生と岡谷市
私の師匠市川猿之助の奥様、藤間紫先生が昨年3月に亡くなられました。
この藤間紫先生も、岡谷とは縁のあるお方でした。
岡谷市民であれば誰しも一度は耳にした事がある、または踊った事のある、
「岡谷おどり」
という踊りがあります。
昭和40(1965)年5月に発表された曲で、歌っているのは日本歌謡界の大スター 三波春夫さんです。
私も子供の頃から、盆踊りや岡谷市民祭「太鼓まつり」の流し踊りで毎年踊っておりました。
この「岡谷おどり」の振付が、藤間紫先生である事を知らない方が多いのではないでしょうか。
岡谷おどりのレコードジャケットには、
「振付 藤間紫」
「表現 藤間勘紫乃」(微野先生の師匠)
と記されています。
私が猿之助一門に入門してから、紫先生に「岡谷おどり」を振付するに至る経緯を聞いた事があります。
すると紫先生は、
「あら~、懐かしい話ね~。」
と、思い出を話して下さいました。
当時、紫先生は藤間流宗家、六世藤間勘十郎さんの奥様でした。
その頃の紫先生は日本舞踊だけでなく、舞台演劇や映画、テレビにラジオと幅広く活躍し、藤間宗家を支えておられました。
ある日、その紫先生に会わせてほしいと訪ねて来た人がいました。
長野県岡谷市商工会議所観光課の、有賀という人でした。
紫先生はその方を、
「ベレー帽のおじさん。」
と呼んでいました。
そのベレー帽のおじさんが、
「是非とも岡谷おどりの振付を紫先生にお願いしたい。」
と直談判にやって来たのです。
紫先生は、そのベレー帽のおじさんが人の良さそうなのと、あまりの懇願ぶりにその場で承諾したそうです。
しかしながら古典舞踊は身に付いているものの、盆踊りの振付などした事が無かったので、稽古場で悩んでいたそうです。
そこに通りかかったご主人、六世藤間勘十郎さんが、
「綾子さん(紫先生の本名)、こういう踊りはなんば(難波、南蛮とも)にしなくちゃ駄目ですよ。」
とアドバイスをしたそうです。
なんばとは、左右同じ方の手と足をだす歩き方です。
その方が踊りをした事の無い人でも踊りやすいそうです。
確かに岡谷おどりの振付は、すべて同じ方の手足が出るようになっています。
こうして岡谷市民の踊り、「岡谷おどり」が誕生したのです。
そしてこの年、「岡谷おどり」の指導の為、紫先生はお弟子さんを連れて岡谷にやって来ました。
会場は岡谷市新屋敷の公会所で、地元の踊りを習っている有志が集まり教えを受けました。
そこに、まだ娘時分の私の母も居たのです。
なぜここに母が居たのか…
母が藤間の前に習っていた梶間流について微野先生の件りで書きましたが、実はその「ベレー帽のおじさん」こそ梶間流を創流し、母に踊りを教えていた先生だったのです。
紫先生はそのあたりの経緯は知りませんでしたので、母との繋がりも含めてお話したところ、
「縁が深いわねぇー。」
と驚いておられました。
また、
「あのベレー帽のおじさんは元気なの?」
と聞かれましたので、私の産まれる前に亡くなられた事をお話したところ、
「きっと、あのベレー帽のおじさんが笑野さんを私のところに導いてくれたのね。」
と、しみじみと言っておられました。
その後、平成16(2004)年の全国巡業、市川猿之助歌舞伎公演が岡谷市カノラホールに来る事になりました。
紫先生も同行しておられましたので、およそ40年ぶりに岡谷の地に紫先生がやって来たのです。
またその3年後の平成19(2007)年、私の第一回市川笑野舞踊会にも、師匠猿之助と共に岡谷に来て下さったのです。
二回三回と、回を重ねる毎に岡谷に来て頂きたかったのですが、もう叶わないのが残念です。
ちなみに、その「ベレー帽のおじさん」のお孫さんがカノラホールの事務局にお勤めされています。
つくづくご縁を感じざるを得ません。
この藤間紫先生も、岡谷とは縁のあるお方でした。
岡谷市民であれば誰しも一度は耳にした事がある、または踊った事のある、
「岡谷おどり」
という踊りがあります。
昭和40(1965)年5月に発表された曲で、歌っているのは日本歌謡界の大スター 三波春夫さんです。
私も子供の頃から、盆踊りや岡谷市民祭「太鼓まつり」の流し踊りで毎年踊っておりました。
この「岡谷おどり」の振付が、藤間紫先生である事を知らない方が多いのではないでしょうか。
岡谷おどりのレコードジャケットには、
「振付 藤間紫」
「表現 藤間勘紫乃」(微野先生の師匠)
と記されています。
私が猿之助一門に入門してから、紫先生に「岡谷おどり」を振付するに至る経緯を聞いた事があります。
すると紫先生は、
「あら~、懐かしい話ね~。」
と、思い出を話して下さいました。
当時、紫先生は藤間流宗家、六世藤間勘十郎さんの奥様でした。
その頃の紫先生は日本舞踊だけでなく、舞台演劇や映画、テレビにラジオと幅広く活躍し、藤間宗家を支えておられました。
ある日、その紫先生に会わせてほしいと訪ねて来た人がいました。
長野県岡谷市商工会議所観光課の、有賀という人でした。
紫先生はその方を、
「ベレー帽のおじさん。」
と呼んでいました。
そのベレー帽のおじさんが、
「是非とも岡谷おどりの振付を紫先生にお願いしたい。」
と直談判にやって来たのです。
紫先生は、そのベレー帽のおじさんが人の良さそうなのと、あまりの懇願ぶりにその場で承諾したそうです。
しかしながら古典舞踊は身に付いているものの、盆踊りの振付などした事が無かったので、稽古場で悩んでいたそうです。
そこに通りかかったご主人、六世藤間勘十郎さんが、
「綾子さん(紫先生の本名)、こういう踊りはなんば(難波、南蛮とも)にしなくちゃ駄目ですよ。」
とアドバイスをしたそうです。
なんばとは、左右同じ方の手と足をだす歩き方です。
その方が踊りをした事の無い人でも踊りやすいそうです。
確かに岡谷おどりの振付は、すべて同じ方の手足が出るようになっています。
こうして岡谷市民の踊り、「岡谷おどり」が誕生したのです。
そしてこの年、「岡谷おどり」の指導の為、紫先生はお弟子さんを連れて岡谷にやって来ました。
会場は岡谷市新屋敷の公会所で、地元の踊りを習っている有志が集まり教えを受けました。
そこに、まだ娘時分の私の母も居たのです。
なぜここに母が居たのか…
母が藤間の前に習っていた梶間流について微野先生の件りで書きましたが、実はその「ベレー帽のおじさん」こそ梶間流を創流し、母に踊りを教えていた先生だったのです。
紫先生はそのあたりの経緯は知りませんでしたので、母との繋がりも含めてお話したところ、
「縁が深いわねぇー。」
と驚いておられました。
また、
「あのベレー帽のおじさんは元気なの?」
と聞かれましたので、私の産まれる前に亡くなられた事をお話したところ、
「きっと、あのベレー帽のおじさんが笑野さんを私のところに導いてくれたのね。」
と、しみじみと言っておられました。
その後、平成16(2004)年の全国巡業、市川猿之助歌舞伎公演が岡谷市カノラホールに来る事になりました。
紫先生も同行しておられましたので、およそ40年ぶりに岡谷の地に紫先生がやって来たのです。
またその3年後の平成19(2007)年、私の第一回市川笑野舞踊会にも、師匠猿之助と共に岡谷に来て下さったのです。
二回三回と、回を重ねる毎に岡谷に来て頂きたかったのですが、もう叶わないのが残念です。
ちなみに、その「ベレー帽のおじさん」のお孫さんがカノラホールの事務局にお勤めされています。
つくづくご縁を感じざるを得ません。
笑野