「皇帝」は「エンペラー」の訳語としても使われます。中国の皇帝とヨーロッパのエンペラーは、もちろん別物ですから、違うところは一杯ありますけど、共通しているのは、「世界の支配者」という意味だ、ということです。
ですから、原則的に世界に一人しか「皇帝」はいてはいけません。
漢字の「皇帝」をはじめて名乗ったのは秦の始皇帝ですね。
春秋戦国時代、中国にはたくさんの国があり、それぞれ「王」がいました。秦はそれらを統一します。すべての王を束ねる者として何と名乗るか。「大王」とかではつまりません。中国全土の支配者ということは、世界、宇宙全部の支配者ですから、まったく新しい称号「皇帝」というのを作ったのです(ことばの由来については、中国の神話的始祖に三皇五帝がいて・・・という話があるようですが、長くなるので、どっかで調べてください)。
皇帝には、周辺の異民族を含む「王」たちををすべて管理監督する義務があり、従わないなら討伐する義務を「天」から課せられてる、わけです。
ヨーロッパで最初に皇帝を名乗ったのは、ユリウス・カエサル(英語でジュリアス・シーザー)の甥、オクタヴィアヌス・カエサルです。彼以外、ローマ帝国の支配者は「カエサル」と呼ばれるようになります。「ローマ皇帝(エンペラー=カエサル)」は、唯一の存在です、というはずだったのですが。
そのローマ帝国が東西に分裂したことで、皇帝は二人になります。それぞれに権威を与える「法王」も、ローマ教皇と、コンスタンティノープル大司教の、二人ができてしまいました。つまり「世界」がふたつになったわけで、それぞれの世界に皇帝がいる、ということになります。
以降、ヨーロッパ世界には、西ローマの帝冠を引き継ぐもの(神聖ローマ帝国→オーストリア皇帝、ドイツ語でカイゼル)と、西ローマの帝冠を引き継ぐもの(ビザンツ皇帝→ロシア皇帝、ロシア語でツアーリ)の二つの太陽が存在することになります。
さらに、ナポレオンがヨーロッパを席巻すると、ローマから教皇を呼びつけて戴冠式をやって「フランス皇帝」になってしまいます。ここで、ヨーロッパには三人の「皇帝」を名乗る者ができました、ロシア・オーストリア連合軍とフランス軍が戦った戦争は「三帝会戦」といいます。
ここまで見たように、皇帝(エンペラー)を名乗るためには、「世界の支配者である」とその世界の神から認定されること、具体的にはその世界の宗教の最高権威から承認されることが、資格用件となります。
つまり、「神」の数だけ皇帝はいていい。
中国皇帝と同じく、ヨーロッパのエンペラーにも、「世界を支配する義務」があり、「秩序を乱す者を討伐する権利」が備わっています。
ここが、一国の「王」とは根本的に違うことになります。王が隣国を攻めれば侵略ですが、皇帝の討伐は正義となるわけです。この差は大きい、と言わざるを得ません。
そこで、近代になると、あちこちの王が、それぞれの理屈で勝手に「帝国」「皇帝」を名乗るようになります。「ウチはローマ・カトリックの支配下にないんだから、ローマ法王の承認は必要ないよね」というわけで、プロイセン王がドイツ皇帝、英国がインド皇帝を兼ねて「大英帝国」。
さらに、オスマン・トルコも君主(スルタン)をエンペラー、自分たちをオスマン・エンパイアと名乗ることになります。イスラム教の国をすべて統括する潜在であるなら、キングではなくエンペラーです。
さて、ではなぜ日本の天皇が「エンペラー」と訳されるのか。
古代、ほかの周辺諸民族と同様、日本にも古代から「王」がいて、中国皇帝の「冊封」を受けていました(子分になり、いざというとき助けてもらう、という関係です)。「大王」(おおきみ)などとも名乗っていました。が、聖徳太子の頃から、「これからは対等外交をしよう」という気分が高まります。
そうすると「大王」ではダメです。自動的に子分になってしまいます。かといって、「こっちも皇帝だ」というと、自動的に戦争になってしまいます。皇帝というのは全世界にたった一人、というのが大前提だからです。
そこで、皇帝的な権威に、日本独自の宗教的支配者であるニュアンスを足して「天皇」という言葉が創設されたのだ、と考えれば分かりやすいと思われます。こちらは別物ですよ、中国の皇帝と雌雄を決するすもりは毛頭ないですから、というかんじです。古代でも内向きには「皇帝」を「天皇」の別称として使っていたりしますが。
ただし、中国の「皇帝」は、目の届く限りの世界をことごとく支配しなければいけません。つまり「全世界の管理監督、従わない場合は討伐、征服」、これはいわば義務ということになります。
日本の天皇は、アマテラスから受け継いだ大八州だけを平和に治めていればよろしい。外に出て行く義務はまったくない。性格が全く違うのです。
日本の天皇も、明治以降、英語で「エンペラー」と訳されるようになりますが、こちらはますます意味が違います。
明治維新政府は、日本を「西洋と同じような近代国家である」と諸外国に印象づけることに躍起になっていました。もちろん条約改正のためです。
そのため、日本の伝統にはないさまざまな「西洋近代国会風のもの」を、大急ぎででっちあげる必要に迫られます。英国の議会をマネした二院制の議会、「貴族院」を構成するための「華族制度」、西洋風の舞踏会をやる「鹿鳴館」、みんな「日本の古くからの伝統に根ざした素晴らしいもの」ではなく「西欧語に直訳可能な、わかりやすい近代的なもの」でなければ、ヨーロッパ諸国に理解してもらえない、認めてもらえない、と考えたのです。
だから、日本の国家元首は「ミカド」といった西洋語訳不可能の日本独特のものではなく、「エンペラー」でなければならないのです。はいそうです、欧州先進国のどこにでもいるエンペラーと同じものを日本も持ってるんですよ、とアピールすることが必要だったのです。
ところが、エンペラーの日本語訳は「皇帝」ですから、日本のエンペラーの日本語訳(というのは本来ヘンですが)も、「天皇」という日本固有の名前ではなく、欧米先進国と同じ「皇帝」でなければならなくなり、国名まで「大日本帝国」ということに、いつのまにか、なってしまいました。
この訳語に引っ張られて、日本のエンペラーの性質が諸外国に「ざっくり」と誤解されて伝わったことは否めません。本来、天皇は全世界にただ一人の独特な存在であり、エンペラーでも皇帝でもなかったはずです、それはそのとおり。でも、それじゃあダメだったんです、「西欧に追いつけ」が合言葉の明治時代には。
それにしても「帝国」と名乗る以上、周辺諸民族を征服ないし服属させなければなりません。全世界を支配しなければ皇帝ではないのですから。
天皇を「エンペラー」と訳してしまったことが、なんか日本の間違いの微妙な一因だったようにも思えます。
第一次大戦、第二次大戦は、あちこちの「帝国」がお互い張り合って世界制覇を競った結果おこった、といえますが、二度の大戦の結果、世界をすべて支配しようなんて思想、具体的には異民族の属国(植民地)を多数抱えて張り合うのは、実に効率が悪い、時代遅れの政策だ、ということになってしまいました。
自然、「帝国(エンパイア)」と呼ばれる国も解体し、「エンペラー」などという物騒な肩書きを名乗る君主もすっかりいなくなってしまいました。幸か不幸か、日本の天皇だけが、もとの名前のまま、象徴として戦後も残りました。気がつけば、現役の「エンペラー」は世界で日本の天皇だけ、ということになっています。
天皇が生き残ったのは、もともとこれが日本だけの肩書きで、外国を服属させるぞ、という意味のエンペラーとは違う存在だったからだ、といえます。