古くからの民謡ちゅう訳でもなく、歌詞が日本語なので十九の春はあまり好きやなかったのですが、映画「なびいの恋」を見てから、自分でも唄うごとなりました。
今回は十九の春と三拍子の関連を探ってみましょう。

十九の春の起源については次の定説があります。
Ⅰ19世紀後半、お抱え外国人のシャルル・ルルーが西南戦争にちなんだ抜刀隊の 歌①を作曲した。
Ⅱそれに基づいて添田唖蝉坊がラッパ節②を作り、全国的に流行した。
Ⅲ飢饉に見舞われた与論島民(ゆんぬんちゅ)数千人が九州に移住、三池炭鉱で過酷な労働に従事した。
Ⅳラッパ節に親しんだ島民が帰島し、与論ラッパ節や与論小唄を流行らせた。
Ⅴそれが沖縄本島に伝わり、十九の春が成立、戦後田端義夫が唄うてヒットした。
今でも沖縄ではラッパ節が唄われますが、この唄、実は私が幼いころ親しんだ懐かしい手まり唄でした。祖母が ♪ 一番初めは 一の宮 二は 日光東照宮 三は 佐倉の惣五郎 とか唄いながらお手玉を教えてくれたことを思い出します^^。

①は行進曲にもなった二拍子の曲で、②も四拍子でした。
ここで田場盛信の与論小唄を聞いてみましょう。
♩ ♩ ♩ ○ ♫ ♩ ♩ ○ ♫ ♩ ♩ ♩ ○ ○ ![]()
木
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の
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葉
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みた
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い
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な
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わが
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よ
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ろ
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ん
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な
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ん
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の
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楽
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し
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み
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ない
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と
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こ
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ろ
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ご覧のとおり 四拍 四拍 三拍 三拍 の構造になっちょります。一小節と二小節の休符を取れば全部三拍子になるのですが^^、いずれにしても複合リズムですね。なぜ三拍子になったのか!注目しましょう。

ラッパ節は奄美一帯でも盛んに唄われよったようで、朝崎郁恵さんの父が作った嘉義丸の歌もこの影響を受けたものです。ア・カペラで唄いよるので、拍子はハッキリしませんが聞いてください。
これが沖縄に伝わって十九の春になるわけですが、なびいの恋の場面を思い出しながら嘉手苅林昌、大城美佐子の名コンビで聞いてみましょう。
メロディーは明らかに与論小唄と同じですが、リズムが間延びした感じです。前からどうも奥歯に物が挟まったような感じがしよったんですよね。
♫ ♩ ♩ ○ ♫ ♩ ♩ ○ ♫ ♩ ♩ ♩ ○ ○ ○ ○
わた
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し
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が
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あな
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た
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に
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惚れ
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た
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の
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は
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ちょ
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う
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ど
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十
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九
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の
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春
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で
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し
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た
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つまり わた し が あ あな た に い ちゅう式に 休符を入れて四拍にし、惚れ た の の部分は三拍やけど、最後のは で四拍休んで無理やり五拍にしちょるんです。四拍 四拍 三拍 五拍 の構造です。三拍と五拍で八拍ですから、四拍が二つになる勘定ですよね。
沖縄本島に入って与論小唄後半の三拍がわざわざ四拍に、すなわち四拍子化されたわけです。
従来の説は、文字数でとらえて、わたしが あなたに のごと 四拍 四拍としてきました。日本人は言葉を視覚的に文字でとらえる傾向があります。たとえば、みちこ ちゅう名前は みちは道から来たものなのに、美智子など 美しくて賢い子 ちゅう風に漢字の意味から考えたがるのです。
でも言葉は音でもあります。わたしが は、文字は四つなのに、音でとらえると、
♫ ♩ ♩ ですから拍数が三拍になります。このことから与論小唄はもともと三拍子ではなかったか ち考えるわけです。

ちゅうことは、十九の春も元々は、三拍子を内部構造的に抱えちょったちゅうことになりませんか?
ここで十九の春の三拍子バージョンを聞いてください。(本邦初公開^^)
この方が間延び感がなく、音楽的にまとまっちょると思うのですが、、^^。
元唄の①も②も二拍子、四拍子なのに、与論で三拍子に変化した ち考える他ありません。なぜ、どのようにして三拍子に生まれ変わったのか、その過程を詳しく知りたいですね。

与論島民が九州で炭鉱労働しよった頃は、美しき天然などのジンタ、
つまり三拍子が流行した時期でもありました。ヨーテー節などもともと 三拍子に馴染みのあった島んちゅがラッパ節を三拍子として受け入れたとも考えられます。
三拍子の民謡シリーズをまとめると、
●日本本土であれ、琉球文化圏であれ、辺境に まれに三拍子が発生する。
●それは四拍を単位としようとする規制が弱いからである。
●意識のない人は三拍子であることに気がつかない。
●三拍子を意識して大事にすれば、私たちの音楽文化がもっと豊かになる。
ちゅうことになりますかね。
以上 ご愛読 ありがとうございました。