海外で話題になってりゃ、子供が人を撃ってる映画でもOKだときたもんだ。意味わかんねえよ映倫! なんでスピルバーグだとチンポコOKなの?
今はそんな事はどうでもいいんですが、これは凄い。
しょっぱなから、弟が野外でオナニー。ちょっと前に姉ちゃんの裸を覗いて興奮したから一発抜かずにはおれないわけです。そんな弟を兄は責める。「この変態野郎!」弟が反論する。「姉ちゃんが覗いていいっていったんだもん!」兄は叫ぶ。「二人とも変態だ!」
兄も本当は覗きたい。でもそれぐらいの分別がつく年頃になってしまっている。女の人の裸を、それも肉親の裸を覗いて興奮するなんて罪深いったらありゃしない。いやだいやだ。いやだいやだ……嫌だいやだ言っていても体は正直。もんもん悶々ボッキンキン。俺だって一発スカっとしたいぜ!という荒れ狂う性欲に突き動かされ、ちょいと大人でも脅かして楽しむかと車を撃つ。弟がバスを撃つ。弟の方が腕がいいから、バスに乗っていたアメリカ人女性に弾が命中してしまった。
絶対に弟の勃起よりも兄ちゃんの勃起の方が固いに違いない。ちゃんと弟の方が格好いい、というキャスティングが出来ている辺りに監督のこだわりが感じられます。
子供のオナニーが出てきて、映画館の空気が一瞬にして引くのがわかりました。だよな。日本人キャストがアカデミーにノミネートされたので全国公開されていますが、まあ本来なら単館公開でしょうしねえ……なんて言ってないでこういう映画をじゃんじゃん全国でやってくれよな!
話がずれましたが、子供のオナニーは、要するに罪深い行いをしているということです。宗教のない人にはわかりづらいかも知れませんが、妊娠につながらない射精行為は罪なんですね。セックスというものは、子供を作るために行う事で、快楽を得るためだけに行うべきでないという考えがあります。
これは小さい頃から叩き込まれます。自分のちんちんなんて弄ってたら地獄行きだよ!と脅されるわけです。モロッコがそうなのかは知りませんが、イニャリトゥの母国メキシコはキリスト教がさかんのようだから(町中十字架だらけって感じに撮影されてましたな)、監督にはそういう意図があるんでしょう。だから、罪がどういうものかも判っているという事です。判っている人間が、人間を銃で撃ったという事です。
映画のテーマは、人間が苦しむ理由は人間が築いてきた物にあるというのが一番大きいと思うけれど、ヤれば必ず結果があるという事も描いています。セックスだけじゃなしにね。
セックスすれば子供ができる。当然の話です。セックスしてできた子供なんだから、その子供が何か事件を起こしたら、親も責任とれよ。お前らが中出ししなけりゃこんなことにはならなかった。
弟のオナニーも象徴的ですよね。精子は弟の金玉で作られた物だから弟が作ったものです、だから精子に対して責任あるだろ。
字幕に出てこなかったんだけど、ブラピが救急車を出してくれないモロッコの警官に言います。「お前の国だろ、お前の責任だ、救急車を直ぐに呼べ!」
国という単位で十羽一絡げにしてしまう現代人。これはメディアの責任。
兄弟は人を撃ったけど、兄弟のパパがママの中に発射しなければこんな事にはならなかった。じいちゃんがばあちゃんと結婚しなければ、ひいばあちゃんがひいじいちゃんにレイプされなければ、アダムがイブとヤらなければ……神様が人間を創らなければ。
人間は、誰の責任だと追及するのが大好きです。
冒頭で、ヒロインが出てくるとバレーの試合中。審判の微妙なジャッジを責め立てて、退場にされてしまいます。結果チームは試合で負ける。チームメイトはヒロインを責める。「あんたがいれば勝てたのに!この処女が、ピリピリしやがってよ」でも実は、チーム全員で審判に詰め寄っていったはずなのに。目立った人間が責め立てられる不条理。
そしてこの場面に内包されているのは、多くの人間の本質が、他力本願であるという事です。あんたがいれば~という事は、その人がいないと勝てないということです。勝てるように努力しよう!とは思わない。これは世界中のスポーツがそうなってきている気がします。マスコミむけにヒーロー選手を用意して、そこにスポットを当てさせる。主力が駄目だと潰れる。普段目立てない人たちは、主力の選手を憎らしく思うでしょう。
なんて無駄な憎しみ。なんて無駄な被害妄想。なんて無駄な物を生み出すのが得意なのか!
この銃は誰が造った、誰が買った誰が売った誰が撃った。そもそも銃という物を考え出したのは誰だ。何故世界中にある。日本て銃禁止じゃないの?と海外の方は思うかもしれませんね。許可を出したのは誰なんだ?
誰、誰、誰、誰、誰のせいなの?
人間は、自分達で作ったもので苦しんでいる。というのが映画の大きなテーマです。国境線、銃、国、言葉。地球はいつの間にか、丸くなくなっていた。
ピットと子供たちが、電話で繋がっているというのが面白いです。結局ブラピ夫妻は、映画の最後まで子供たちと一緒に映る事はありません。よくCMであるように、電話で人と人との距離が縮まったと言えるのか? 逆に電話だけで済ましちゃうから、人と人との距離は広がったんじゃないの?
ちなみに、この映画に出てくる各国の代表的男優三人は、三人とも悪役とよべる範疇にはいります。ガエル・ガルシア・ベルナルは叔母さんと二人の小さい子供を捨て去り、ブラピは色々手をつくしてくれたガイドに対し金を握らせようとして白人主義を丸出しにし、役所広司は銃を人に譲って結果殺人を招く。
中でも監督が力を入れているのが、銃ですよね。子供が銃をぶち壊す、という非常に印象的な場面も出てきます。こんなんもん作りやがってごらぁ!という怒りよりも、そんなもんいらんでしょ?ねえ作るのやめれば?と呆れ果てているのかも。
ラーメン屋のテレビでひっそりと流れる今回の事件。短いニュースで、アメリカ人女性の命は無事でした、と伝えるだけで終わる。犯人の一人と目された少年が射殺されてしまった事は討論されない。ニュースはすぐ次に移る。デパートの値引き戦争の話題らしい。おっとラーメンが伸びちゃう伸びちゃう……。
ヒロインが素っ裸でベランダに居るのは、ようするに原始人って事です。耳が聞こえないからコミュニケーションが素早くできない。耳が聞こえないヒロインの世界を通したほぼ無音に近い場面が度々登場してヒロインの世界を観客が体感します。あれは、昔の人間は皆こんなもんだったんじゃないでしょうか、という事でしょう。過度に発達した文明は、地球上に音を溢れかえらせました。銃声、悲鳴、エンジン音に電話の声。文明なんかなかった頃、世界はもっと静かだった。
ヒロインはそういう世界に生きているから、もっと純粋だった昔の人間に近い。ただしそれは感覚だけの話で、性格はバリバリ現代っ子。そのギャップに苦しむクラブの場面は痛いたしい。
素っ裸で『北京原人WHOAREYOU?』状態のヒロインですが、もちろん大きな違いがあります。体毛がありません。あれ程毛深い体毛を、人類はもう二度と取り戻せないでしょう。だから服を着る。人間と文明とは、既に切り離せない。それならば、この苦しみは人間が背負った新たな原罪なのか。どこかがおかしい、誰かがおかしい。おかしな世界が、既に人類にとって当たり前の世界になってしまった。
イニャリトゥ監督の三作目です。一作目の『アモーレス・ペロス』は凄く面白いんだけど、三部構成を完全独立でバラバラにやってみたら、何となく後半盛り返せなかったという感じでした。二作目の『21g』は、一作目の反省を活かしたのか、編集で細切れにして最後まで緊張感を持たせよう、という事に挑戦していました。でも細切れにしすぎて緊張感は持続したけどエモーションが失われたといった感じ。で、三作めにしてついに時間軸弄りまくり編集が完全に功を奏した映画になりました。
でも音楽はもうちょっと変えろよな。
順々にエピソードが巡る構成は、誰が悪い誰のせいだ、という気持ちをより強烈に感じさせるものになっています。それを考えているのって、虚しくないですか?という問いかけもあります。
うーん、あとやっぱり日本パートの台詞は気になっちゃって。舞台みたいなんですよねー、何でも感情をハッキリ口にしちゃうから。「あんたの親父とヤッて機嫌治すよ」とかは、家族を大切にする習慣のない日本(笑)では効き目ないから口にしないしねえ。若い刑事の台詞回しが一番違和感あったなぁ。ああいう人もいるかもしれませんが、それならそれでもう少し丁寧な言葉遣いだとよかった。
日本で終わるのは、バブルとバベルが引っ掛けてあるようでちょっと嫌らしいとか思ってみたりして。不景気長いですねえ。
本当にどうでもいいんですが、イニャリトゥって稲荷2って感じで楽しい発音ですな。「親父、とりあえずいなりトゥーね」
ちなみに、菊池凛子はとてもよかったんですが、キャスティングとしてはもっと若い方がよかった。中学生か小学校高学年ぐらいの年に設定した方が、セックスして早く楽になりたいという気持ちが出たと思う。高校生なのにセックスしてないという焦りをヒロインに持たせたかったんでしょうが、大人になれば楽になれるという考えのようだし、映画内では子供と大人の中間の扱いだから高校生では大人すぎる気がしました。
後ブラピはちょっと抑えすぎ。感情が爆発する場面では、もっとストレートにやってくれればよかった。悪くはないけれど、同時に盛り上がりまで押さえ込まれちゃうから。『ファイト・クラブ』のノリでよかったかも。
そういえば、ブラピ関係で一番良かった場面は、ケイト・ブランシェットがオシッコ漏らしたのを、愛しそうに触る場面。うんことしっこは生きてる証拠。嬉しかったんでしょうねえ。