歴史小説『数寄の長者』を書いていて、香西元盛が誅殺されてから、兄弟の波多野元清と柳本賢治が挙兵するまでがちょうど百日ということに疑問が生じました。

 

 【何故百日でなければならなかったのか?】

 

 この答えは、中世に広まった『地蔵十王経』にありました。

 

 そして、地蔵十王経というのは、現代の我々も当たり前に行っている行事「初七日法要」と「四十九日法要」に関係があります。

 

 初七日法要と四十九日法要というのは、本来、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日と七日ごとに計七回行われる法要で、これは十王信仰の生七斎と七七斎の内、七七斎が定着したものです。

 

 現代では二七日~六七日は略されており、初七日と七七日=四十九日のみ行われるようになっていますが、実はこのさきにも三つ法要があります。

 

 それは百日忌、一周忌、三回忌です。

 

 現在でも一周忌と三回忌は行いますが、ここまでが一つの流れとなっていました。

 

 十王信仰は三国時代に支那に伝わった仏教が、唐代に道教と習合して生まれ、日本には平安時代に伝わります。平安末期になると末法思想と冥界思想と共に広まり、『地蔵十王経』が著され、鎌倉時代には十仏と相対されるようになりました。

 初七日 秦広王   不動明王
 二七日 初江王   釈迦如来
 三七日 宋帝王   文殊菩薩
 四七日 五官王   普賢菩薩
 五七日 閻魔王   地蔵菩薩
 六七日 変成王   弥勒菩薩
 七七日 泰山王   薬師如来
 百日忌 平等王   観音菩薩
 一周忌 都市王   勢至菩薩
 三回忌 五道転輪王 阿弥陀如来

 大まかには上記のように定着しましたが、これは浄土系の唱導僧によって広まったことの証左であるとされ、当時の宗派では多少ゆらぎがあります。

 

 それぞれの王の姿をとった十仏が、審判を下し、罪の軽重を定める訳ですが、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、歿後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日〜七七日(四十九日)及び百日忌、一周忌、三回忌に、順次十王の裁きを受けることとなる――ということになっていました。

 

 四十九日までの七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回行われるとされています。これが、百日忌と一周忌、三回忌です。

 

 七七斎は遺族の行う追善供養の儀式であり、裁きを受ける死者の減罪を嘆願する目的があります。

 

 十王の裁きには追善供養の様子も証拠され、審議を左右するとされており、死後の世界が漠然とした物から、明確に定義された物へと変化した時代であり、闇雲に恐れていたことから脱却した他界観を中世の人々に植え付けています。

 

 しかし、それは一人一人に対して厳しい他界であり、末法思想と結びついて地獄というものの強烈な印象を民に残しました。そのため、故人を追善する七七斎が強く望まれたという事情があります。

 

 これは、引いては己が救われる為であるといってしまえば、そうなのですが、先に故人を救う手助けをする所が日本人らしいなぁ~と感じました。しかも、当時の寺院は他宗派に寛容であり、どの流派でも十王信仰による追善を受け容れたため、現在の葬儀の慣習が生じた訳ですね。

 

 柳本賢治は波多野元清と相談し、嵐山城の香西残党をも巻き込み、口丹波の諸将らも七七斎に招いて尹賢の非を打ち鳴らしたことでしょう。

 

 こうして、黒井氏の救援や、内藤氏・池田氏の離反を招き、細川高国の没落へとつながっていくのです。