何度もメディアで言ったことだが、俺達は結成をしたことがない。
ただひたすらに、俺達は長い友人であるのだ。
ヒップホップに呼ばれて渋谷に集まったただのBボーイ。
腐れ縁と言う言い方も出来るね、でもしねー。俺達腐っちゃねーかんな。
俺がこれから始める話は渋谷のとあるラップグループの話だ。
君が15歳だろうが35歳だろうが、日本のヒップホップを愛しているなら名前くらいは知ってるはず。
なぜなら彼らは歴史に名を残したグループなのだから。
それ以前とそれ以降ではシーンの物差しが変わるような革命を起こした。
そのグループの歴史を語りたく思う。俺やメンバーしか知らねーことも多いだろーな。
これは俺が自分自身にグループの価値を再確認、再認識したくて書き始めたに文章に外ならない。
そしてこの文章を経て件のグループを違う角度から見てもらえたら幸いである。
今やメンバー全員が三十代のグループが送った二十代の日々を通して何かを感じ取ってほしい。
これは東京に集まった名のる名もないBボーイたちが起こした歴史的なクーデターの話だ。
では参る。さてどこから話そう。94年あたりからにしようか。俺がハタチになる頃。
俺は高校時代に知り合った陳スクスクとよく渋谷に繰り出していた。
初めて東京で一人暮らしを始めた頃だったな…ちなみに練馬だった。
今は亡き池袋のクラブ「CHOICE」で月一のイベントに出ていた俺に練馬は好都合だったのだ。
…とは言えカネのない若者だ、ブクロはよくても渋谷は出るのがおっくうだったな。
私鉄からJRに乗り換えて往復700円とか?笑っちまうけどそんなカネもないくらい俺は働かなかった。
すでにつるんでいたケイボムも石神井で極貧生活を送ってたので俺達はよく電車賃や煙草を貸し借りしたものだ。
時効だから言うけどセッチャリで渋谷に向かったことも数え切れない。でも捕まったのは一度だけ!
そんなヤサグレたBだった俺だが不思議と悪いことはしなかったね…悪いモン売ったこととかないし。
そんな頃に陳スクスクやケイボムと渋谷レコ村や新宿シスコなどに出向くと決まって会うヒゲ面がいたんだ。
陳スクはそいつと高校時代に知り合ってたから顔を合わすと長めの立ち話になるのだが俺はしばらくシカトしてた。
90年代のBボーイは気軽に他人に心を許さなかったのだよ。USでも日本でもだ。俺は大体そいつの顔が嫌いだった。
妙にふてぶてしいツラ構えのそいつはダンサーで、ほかにもクラブイベントなどでよく見かけたものだった。
俺がそいつと話をするようになったのは出会いから一年は後だったと思う。ながっ!気ぃ許すのおそっ!
そしてもともとサッカー小僧だったそいつは膝を壊していて、ダンサーに見切りを付けてDJになろうとしていることを知った。
当時はケンボー氏やハセベ氏やワタライ氏がダンサーからDJへ転身を遂げていた頃だったので不自然ではなかった。
それに俺はその気に入らない顔面をしたそいつがただならぬヒップホップセンスを持っていることをこの頃には知っていた。
その後前述のハセベ氏が西麻布で金曜に週一レギュラーを勤めるということでヒゲのそいつにも白羽の矢が立った。
するとなんとその西麻布のクラブとは俺が客として足しげく通った「ZOA」であった!伝説の「BLACK MONDAY」の箱!
俺とケイボムは少なからず興奮したものだ。あの伝説のステージに立てるなんて!ありえん!
そんなこんなで俺とケイボムは名前を「CHAOS」と変えたZOAで毎週金曜歌うようになる。
実際は週四くらいでそこに入り浸っていた。タダ酒が飲めたし、第一暇だったのだ。
俺達は未来が見えない若者だった。日々のストレスから逃げるようにヒップホップを貪り、撒き散らしていた。
俺達に昼間はなかった。昼間に起きていてもそれは死んでるも同じことだった。俺達は夜に生きていた。
今も夜に生きてるようなもんだが当時とは全く違う。若い俺達は太陽から逃げるように夜に向かったものだ。
夜は俺達に優しかった。それぞれにダメな若者だった俺達は日に曝されることを嫌った。夜はそんな俺達を闇に匿ってくれた。
15年も前の話だがよくある話だろ?俺達は若者として正しかった。15年前、俺達は君達の何人かと同じだったってことさ。
…とここまでが土台。ここまでは件のグループの正規メンバーは俺以外まだ誰ひとり出てきてない。
ただここから始まるのだ、怒涛の繋がりまくりが。そしてその一連の現象の基盤となるキーマンがふてぶてしいヒゲDJなのである。
まさかそのヒゲが生まれ育った街の一番のクラブの一番のDJになるとはさすがに思ってなかった…ヒゲは生まれも育ちも渋谷なのだ。
グループにとってもヒゲの功績はあまりにもでかい。そいつの身の回りでいつもなにかが起こっていたのだ。
このあとに続くストーリーにもしょっちゅう顔を出すキーマン、それが土曜ハーレムのボスである男。
洋服ブランド社長にしてショップオーナー、そして俺の正規DJでもある切れた男、ハヂメである。
やつの「間違いなさ」は若い頃からだった。芸術的なセンスの話だけでなく、やつは人生をプラン通りに進める強さを持っていた。
その強靭なやつの精神の上に件のグループのハチャメチャが成り立っていたように思う…言い過ぎかな?まぁ今思えば、よ。
さて。ここらで第一回の文章を締めるとしよう。まだまだ書き切れるわけがない、これは今やシーンのベテランと化したグループの話なのだ。
だからここから何回か付き合ってもらうぜ。伝説となるグループに降り懸かった数々のマジックを想像して、震えてくれ。
最後に。これは俺達の話だが、未来の君の話かもしれない。わかる?だからリスペクトしな。では次回じゃ!
P.S.
モライモノ、じゃねーやモノモライ、よくなってきとる。心配かけてスンマセン!目バチコッ!
ただひたすらに、俺達は長い友人であるのだ。
ヒップホップに呼ばれて渋谷に集まったただのBボーイ。
腐れ縁と言う言い方も出来るね、でもしねー。俺達腐っちゃねーかんな。
俺がこれから始める話は渋谷のとあるラップグループの話だ。
君が15歳だろうが35歳だろうが、日本のヒップホップを愛しているなら名前くらいは知ってるはず。
なぜなら彼らは歴史に名を残したグループなのだから。
それ以前とそれ以降ではシーンの物差しが変わるような革命を起こした。
そのグループの歴史を語りたく思う。俺やメンバーしか知らねーことも多いだろーな。
これは俺が自分自身にグループの価値を再確認、再認識したくて書き始めたに文章に外ならない。
そしてこの文章を経て件のグループを違う角度から見てもらえたら幸いである。
今やメンバー全員が三十代のグループが送った二十代の日々を通して何かを感じ取ってほしい。
これは東京に集まった名のる名もないBボーイたちが起こした歴史的なクーデターの話だ。
では参る。さてどこから話そう。94年あたりからにしようか。俺がハタチになる頃。
俺は高校時代に知り合った陳スクスクとよく渋谷に繰り出していた。
初めて東京で一人暮らしを始めた頃だったな…ちなみに練馬だった。
今は亡き池袋のクラブ「CHOICE」で月一のイベントに出ていた俺に練馬は好都合だったのだ。
…とは言えカネのない若者だ、ブクロはよくても渋谷は出るのがおっくうだったな。
私鉄からJRに乗り換えて往復700円とか?笑っちまうけどそんなカネもないくらい俺は働かなかった。
すでにつるんでいたケイボムも石神井で極貧生活を送ってたので俺達はよく電車賃や煙草を貸し借りしたものだ。
時効だから言うけどセッチャリで渋谷に向かったことも数え切れない。でも捕まったのは一度だけ!
そんなヤサグレたBだった俺だが不思議と悪いことはしなかったね…悪いモン売ったこととかないし。
そんな頃に陳スクスクやケイボムと渋谷レコ村や新宿シスコなどに出向くと決まって会うヒゲ面がいたんだ。
陳スクはそいつと高校時代に知り合ってたから顔を合わすと長めの立ち話になるのだが俺はしばらくシカトしてた。
90年代のBボーイは気軽に他人に心を許さなかったのだよ。USでも日本でもだ。俺は大体そいつの顔が嫌いだった。
妙にふてぶてしいツラ構えのそいつはダンサーで、ほかにもクラブイベントなどでよく見かけたものだった。
俺がそいつと話をするようになったのは出会いから一年は後だったと思う。ながっ!気ぃ許すのおそっ!
そしてもともとサッカー小僧だったそいつは膝を壊していて、ダンサーに見切りを付けてDJになろうとしていることを知った。
当時はケンボー氏やハセベ氏やワタライ氏がダンサーからDJへ転身を遂げていた頃だったので不自然ではなかった。
それに俺はその気に入らない顔面をしたそいつがただならぬヒップホップセンスを持っていることをこの頃には知っていた。
その後前述のハセベ氏が西麻布で金曜に週一レギュラーを勤めるということでヒゲのそいつにも白羽の矢が立った。
するとなんとその西麻布のクラブとは俺が客として足しげく通った「ZOA」であった!伝説の「BLACK MONDAY」の箱!
俺とケイボムは少なからず興奮したものだ。あの伝説のステージに立てるなんて!ありえん!
そんなこんなで俺とケイボムは名前を「CHAOS」と変えたZOAで毎週金曜歌うようになる。
実際は週四くらいでそこに入り浸っていた。タダ酒が飲めたし、第一暇だったのだ。
俺達は未来が見えない若者だった。日々のストレスから逃げるようにヒップホップを貪り、撒き散らしていた。
俺達に昼間はなかった。昼間に起きていてもそれは死んでるも同じことだった。俺達は夜に生きていた。
今も夜に生きてるようなもんだが当時とは全く違う。若い俺達は太陽から逃げるように夜に向かったものだ。
夜は俺達に優しかった。それぞれにダメな若者だった俺達は日に曝されることを嫌った。夜はそんな俺達を闇に匿ってくれた。
15年も前の話だがよくある話だろ?俺達は若者として正しかった。15年前、俺達は君達の何人かと同じだったってことさ。
…とここまでが土台。ここまでは件のグループの正規メンバーは俺以外まだ誰ひとり出てきてない。
ただここから始まるのだ、怒涛の繋がりまくりが。そしてその一連の現象の基盤となるキーマンがふてぶてしいヒゲDJなのである。
まさかそのヒゲが生まれ育った街の一番のクラブの一番のDJになるとはさすがに思ってなかった…ヒゲは生まれも育ちも渋谷なのだ。
グループにとってもヒゲの功績はあまりにもでかい。そいつの身の回りでいつもなにかが起こっていたのだ。
このあとに続くストーリーにもしょっちゅう顔を出すキーマン、それが土曜ハーレムのボスである男。
洋服ブランド社長にしてショップオーナー、そして俺の正規DJでもある切れた男、ハヂメである。
やつの「間違いなさ」は若い頃からだった。芸術的なセンスの話だけでなく、やつは人生をプラン通りに進める強さを持っていた。
その強靭なやつの精神の上に件のグループのハチャメチャが成り立っていたように思う…言い過ぎかな?まぁ今思えば、よ。
さて。ここらで第一回の文章を締めるとしよう。まだまだ書き切れるわけがない、これは今やシーンのベテランと化したグループの話なのだ。
だからここから何回か付き合ってもらうぜ。伝説となるグループに降り懸かった数々のマジックを想像して、震えてくれ。
最後に。これは俺達の話だが、未来の君の話かもしれない。わかる?だからリスペクトしな。では次回じゃ!
P.S.
モライモノ、じゃねーやモノモライ、よくなってきとる。心配かけてスンマセン!目バチコッ!