鬼ノ城の北門(標高約370m)から出て北西側の急坂を下り中国自然歩道
(標高約300m)地点に出て、そこから岩屋寺(標高約400m)に向かいます。
次の写真(20)は鬼ノ城の北門出口から岩屋寺方面を見る。
下図は、岩屋寺の位置とハイキングコースコースです。
写真の場所は、(21)~(30)です。
コースは、観音33ケ所巡礼道となっており、写真(21)は、第一番の石仏さんです。
少し進むと標高約350m地点の岩屋地区に美しい棚田がありました。
この集落は、昔は今より農家が多くあって、梅も多く植樹してある。
次からの写真(24)~(26)は、岩屋寺です、現在は無住になっています。
江戸時代初期の「岩屋山縁起」によれば、第36代孝徳天皇(在位645~654)御世に道教の沙門が開いたと伝えて、最盛期には142の寺坊を数えたが慶長12年(1607) には9院となり元禄時代ごろには5院となり4院は山麓の村に移ったと記録されている。
また、別説では、後述する新山寺が衰退したのち鎌倉後期に新たな山岳仏教として栄えた。
また、巨石が多くあり古代の磐座との説もある。
次の写真(27)は、岩屋寺の横にある「鬼ノ差し上げ岩」と云われる花崗岩の巨石です。 (地上からは10mぐらいあります)
この山頂付近には他に「八畳岩、鬼の餅つき岩、潮差し岩」など巨石が多く散在している。
巨石群の小路の脇に馬頭観音の石仏がありました。
写真(28)の右側の石仏さん。
次の写真(29)は、馬頭観音の石仏から駐車場へ戻るハイキングコースの道で約2kmあり、途中には石仏が散見された。
写真(30)は、鬼ノ城の西側の犬墓山(443m)から鬼ノ城の西門楼閣です。
次の写真(31)は、駐車場の手前500mの道路脇にある「鬼の釜」
と云われる口径185cm、深さ104cmの鋳鉄製の釜です、享保7年(1722)に現在地から北西300mの山中の「釜の段」という所から掘り出されたもので
鎌倉時代の製作と推定されている。
「鬼の釜」のある場所は、新山集落という所ですが以前7軒あった民家が今は1軒だけになったと住民の方の話でした。
更に昔の平安時代には山岳仏教の聖地として、東の叡山と肩を並べるほどと云われた「新山寺」があった。
今は山門の礎石、古瓦が散在するなどで昔の面影は有りません。
平安時代の1071年には、天台宗の高僧の成尋が入宋する前約1年間修行されているし、定秀上人もここで晩年12年間修行され1076年に当地で入滅されている。
鎌倉時代に入ってからは東大寺再建の任命を受けた「重源上人」がこの備中別所に浄土堂一宇を建てたと伝わる。
先の「鬼の釜」は、この時代に重源が寄進した衆生施湯の湯釜ないかと云われている。
今回は、前回の「鬼ノ城」を含めて 3時間の散策となりました、途中
霙が降ってきたりしましたが、従前から訪問したいと思っていた場所
にやっとたどり着きました。
<ご参考>
①「岩屋山縁起」は、江戸時代の当地区の領主・備中国足守藩,2萬5千石の六代当主の木下公定公が残したもの。
②重源(1121~1206)、源平合戦で焼失した東大寺復興を計画した時に
伊賀、紀伊、摂津、播磨、備中国など全国7ケ所に別所を定めた。
③別所とは、荘園とは別に立てた新しい郷、寺院の本拠地と離れた所
にある宗教施設および聖と呼ばれる僧侶が修行する庵・仏堂を設け
た場所などを云うそうです。
<参考資料>
岡山文庫・総社の散策、 吉備津神社
山川出版社・岡山県の歴史散歩
総社市、総社ふるさと自然のみち
岩屋山縁起、草野由之氏現代訳
宝島社新書、天皇125代