このブログを始めて、一度だけ、タイトルが不謹慎だというメッセージが届いたことがある。
まぁ、それほど私は何も思わなかったけれど、見る人が見れば、そう感じるのかもしれないと思った。
私は、息子が診断されて、すぐにブログを始めたわけではない。
診断された時、私はとてつもなく前向きだった。
なるべく冷静に話を聞き、受け止めた。(つもりだった。)
そして、予想通りだなと思った。
やっぱり障害のせいだったのか。
障害があるからうまくいかなかったのか。
これで見通しを持てるようになった。
希望を持てるようになった。
積極的に療育に通って、息子を導こう。と。
私は、ものすごく前向きに捉えた。
不自然なくらい明るく、笑顔で受け止めた。
療育に通い、息子がよい変化を遂げるのが嬉しかった。
より前向きに行動した。
数ヶ月経つと、ちらほらと陰りが見えてきた。
息子や私を取り巻く雰囲気が今までと違うことに気づいたのだ。
言葉で表現できない、なんとも言えない空気。
息子と私という人間は何一つ変わっていないのに、周りの行動や言動が違う。
妙に気を使われていくような、ちょっとだけ避けるような。
それでも、私はまだなんとか前向きだった。
が、そのうち療育先が変わり、いろいろとうまくいかなくなってきた。
そして、保育園や療育で私に向けられる言葉や、各種手続きが私を追い詰め始めた。
なんだろう?私が私じゃなくなっていく感覚だった。
怖かった。
育児、家事、仕事、どれも中途半端ながら頑張っていた私。
それが私だと思っていた。
けれど、平日の昼間に福祉事務所や市役所に呼び出され、
療育は曜日も時間も選べないと言われた。
時間の調整ができないと言おうものなら、
障害児がいるくせに仕事?何が大事なの?という怪訝な目で見つめられたような気がした。
あ~ぁ、社会的弱者って、施しを受けるのだから、
常に下手に出て、自分の都合とか、意見なんて許されないんだな。
仕事が好きだったけど、もう無理だ。
と思うようになった。
それから、自分の名前がなくなるような気がした。
何もかも、私が息子のために動いているのに、
保護者の名前は夫で、私は○○君のお母さんを経て、
障害児の○○君のお母さんになって。
仕事を頑張っていた、私の姓も名も、もうないんだなって思った。
だって、私の名前を書くことも、私の名前を聞かれることも、
私の名前が呼ばれることもないんだから。
たった名前。されど名前。
今まで築き上げてきたものが、いっきになくなっていく感覚だった。
それから、愚痴を言う場所が見事になくなった。
夫は、無関心だった。
話は聞いてくれるが、聞き流しているのがわかった。
友だちに愚痴を言うのも難しい。
特性が強くて引かれるか、
「うちの子も障害かも」と不安にさせてしまうか。
だんだん、友だちに話すこともなくなった。
実家の親にも言えなくなった。
障害児という事実は、祖父母という存在でも重かったらしい。
可愛がってくれるが、線引きされるようになった。
私が何か相談したり、愚痴を言ったりすれば、
「・・・とはいえ、最後の責任は親だしね。私は何もできないわ。」
と言われた。
それから、保育園や療育、子育て相談の場。
私にとって最後の砦だったんだけど。
相談すると、とても親身になってアドバイスをくれる。
わかってる、相手は悪くない。
でも、そのアドバイスを聞くのも実践するのも、失敗して傷つくのも全部私だった。
偏食で相談すれば、偏食でも食べられるものを教えてくれたけど、
探すのも、買うのも、作るのも、投げられるのも、片づけるのも、ゴミで出すのも、全部私だった。
誰かに愚痴を言ったり、思いを吐き出して相談したりする場所って、本当にどこにもなかった。
たぶん、私はただ自分の言葉を吐き出したかったし、
ただただ休みたかった。
でも、それを提供してくれる場所はなかった。
だから、私は自分で吐き出す場所を作ることにした。
そうしないと、生きていく道がないように思ったから。
タイトルを何にしようか。
そう思った次の瞬間には決まっていた。
私は、もう自分の姓も名もなくなってしまった。
それでも少し前までは○○君のお母さんだった。
けど、それももう違う。
みんな、私を障害児の○○君のお母さんだと思っている。
そう。私は障害児の母。
私は、障害児の母になったんだ。
だから、「障害児の母になりました」
というブログを書くことにしたんだ。