ムー雑誌の中から驚く話しを読んだので載せることにしました。
いつもミステリーから真実を解き明かすワクワクのお話が展開しますよ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
封印された天皇の金魂 南朝皇統 の謎
歴史の闇に消えたはずの南朝系天皇は、、誰なのか
南主*小野寺直氏が語る衝撃の秘密・
本当に衝撃・歴史が変わるどころか日本が大騒ぎしそうだ
それでは読んでくださいね
明治44(1911)年2月4日のことだ
第2次桂内閣は帝国議会において、ある重要な決議案を決定
その衝撃的な内容に帝都は大きく揺れた
その決議案とは!!!
なんと「皇統は南朝を持って正統と為す」とする驚くべき内容の決議案であった
南朝が正統
いったいなぜ???????
実はこの「皇統は南朝北朝いずれに正統性ありや」という問題は
この時いきなり政治問題になったのではない
明治22[1889]年、皇室典範の発布に伴い皇統譜の書式を定めようと
したときから問題が始まっている
つまり、20年にもわたって論争が繰り広げられてきた問題である
その間、役人 学者はもとより新聞雑誌がこれを大きく取り上げたことで
一般大衆も巻き込んで「南朝北朝いずれに正統性ありや」という議論は
大きな潮流となり、いつしか重要な政治問題とまで発展してきたという
わけなのである
そもそも、時の明治天皇は北朝の血を引くお方である
帝国議会の決定は、いわば「今生天皇は正当な血筋を引く天皇じゃないよ」と
宣言してるに等しい
なぜ、明治天皇はこの決議を取り消そうとしなかったのか?
なぜ、唯々諾々と決議案を了承したのか?
2・ 「三種の神器」を持つもう一人の天皇
(その謎の答えは、これから下文の中で少しずつ解明して行くことにしよう)
その人物とは、、、。 小野寺 直氏(おのでらなおし)
なんと驚くべきことに、彼は南朝の血を引く人物である
明治の帝国議会が正統と結論づけた南朝皇統の後裔
いうならば、彼は「もう一人の天皇」なのだ
もう一人の天皇、、、、!!!
つまり、天皇は二人いるということになる
この表現はいささか突拍子もなく聞こえるかもしれない
あるいは眉唾物に聞こえるかもしれない
しかし、それは明治以降の権力者たちが近代国家建設のため
に紡ぎだしたフィクションが、今もね根強く社会に残っているためである
そのような虚構に惑わされない外国人から見れば、少なくとも明治期に
二人、の天皇がいたことは明白な事実だったようだ
たとえば、明治元(1868)年10月18日付の「ニューヨークタイムズ」
紙は、「日本に二人の天皇がいる」という特派員の記事を搭載している
また当時の米国公使ロバート・ブァン・ボォールクンバーグは本国への
報告の中で「いまや日本には一人の将軍に代わって二人のみかどがいる」
と書き送り、外交交渉はどちらのミカドと行うべきかと相談している
天皇はふたりいる
つまり、明治天皇とは別の、もうひとりの天皇が存在していたということだ
その生き証人こそが「小野寺直氏」である
では、なぜ小野寺氏は生き証人となりうるのか
理由は簡単だ
彼は皇位継承である「三種の神器」を所有しているからである
三種の神器
それをなぜ小野寺氏が所有しているのか?
この驚天動地の新情報についてはこれからお話しよう
南朝の正統な後継者:小野寺直氏
失われたはずの「もう一人の天皇」の実像が今明かされる!!!!!!!
3・南北朝最大のミステリー
南朝は本当に断絶したのか?
南北朝に秘められたある「不都合な」真実
小野寺氏は南朝の正統な血を引き継ぐとされる
この人物の由来を紹介しよう
およそ600年ほど前、室町期に起きた皇室の混乱と分裂の時代に辿りつく
いわゆる南北朝時代である
この時期、天皇自身はもとより皇室を取り巻く公家、武家、僧呂 などが
まるで取りつかれた亡者のように入り乱れ、執拗な権力の奪い合いが幾度も
繰り返された
野望と執念、謀略と裏切り、悲愁と絶望が交錯し不吉な黒雲となって
内裏を取り巻いていた時代
この忌まわしい混乱と分裂の時代は実の60年以上も続くのである
しかし、その一方で南北朝時代は歴史のダイナミズムが縦横に
躍動した時代であり、学問研究の題材としても歴史ストーリーとしても
非常に興味深い時代ともいえる
省く
注意深い目で眺めれば、南北朝時代に起きたいくつかの事柄は
時の権力者たちにとって「不都合な真実」を含んでいることは明らかである
では、権力者たちが必死に隠そうとした自分たちに都合の悪い
事実とはなんなのか?
その問題を理解するためには、いまいちど、南北朝時代の歴史的経過を
ザっとおさらいしておく必要がある
天皇家の三種の神器は
どちらの手に渡ったのか???????
そもそも朝廷が来たと南とに二分されるきっかけとなったのは
後醍醐天皇と足利尊氏との対立である
かつては討幕運動で共闘したふたりだったが鎌倉幕府滅亡後
度重なる政局の混乱の中で袂を分かつ
統幕後の温賞の不公平から不満をためた武家に後押しされる形で
足利尊氏は兵をあげて京都に攻め入る
後醍醐天皇は楠正成や新田義貞らとともにこれを迎え撃つ
幾度かの激しい戦いをへて結局足利尊氏は京都を占領
後醍醐天皇はかろうじて都を脱出し南へと下る
そして、この前後の一連の戦いの中で後醍醐天皇は最も信頼すべき
部下であった楠正成や新田義貞などの優秀な武将を失ってしまう
この戦いの後、足利尊氏は後醍醐天皇の大覚寺統とは対立する
持明院統(じみょういんとう)の後伏見天皇(ごふしみてんのう)
の第二子を光明天皇として京都に新たな朝廷をひらいた
これがいわゆる北朝である
一方、 命からがら都を逃れ南に下った後醍醐天皇は吉野に居を移す
そして京都にいる天皇の存在を否定し自分達こそが正統な朝廷であると
宣言し王朝を開く
これが南朝である
さてここで問題になるのが三種の神器の行方である
この時どちらの陣営が三種の神器を所持していたのか?
(少し時間を巻き戻します)
後醍醐天皇が京を脱出するさい、実は足利尊氏から和睦を持ちかけられ
ている
その和睦の条件が「三種神器の譲渡」であった
つまり、「命は助けるかわりに三種神器をこちらによこせ」と
いうことである
このとき、後醍醐天皇はやむなくこれに従った
では、三種神器は北朝側にわたったのか?
いや、そうではない
何ともややこしい話だが吉野に下った後醍醐天皇はとんでもないこと
をいいだすのである
なんと、足利尊氏に渡した「三種の神器」は偽物であり、
本物は今も自分が所有していると宣言したのである
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次回につづきます
小野寺直氏のお話や天皇の金魂はどっちの天皇のものなのか?
お楽しみにね