封印から目覚めた「宮下文書」 | misaのブログ

misaのブログ

遊びに来てくださって ありがとうございます!

昨日からの続きです。

「不二阿祖山太神宮」へのmisaりんツアーをやって欲しいとのコメントをたくさん頂きありがとうございます。

私も皆さんをご案内したい気持ちではありますが、何せ雪道は苦手ですので、春になったら考えさせて頂きたいと思います。

それに、私は5人乗りの車しか運転出来ませんので、やれるとしても4人までの募集のこじんまりツアーになります。

それでもよろしかったら、ツアー代はかかりませんので、神社に着いたら、再建の為のご寄付のみ、社務所の方へご協力をお願いしたいと思います。

春になるのが待ち遠しいです。

さて、日本に神社は数多くありますが、なぜ日本で一番古い歴史のある神社の名前が、これほどまでに知られていないのでしょうか。

それは、その神社の事が書かれている書物が、いわゆる「偽書」とされており、歴史上認められていないからです。

さらに、富士山の北麓にかつて「富士王朝」という最古の都があった事や、その都の中心に「不二阿祖山太神宮」が存在していた事など、その全てを記したその書物が世間に出たのは、明治になってからだったのです。

長期にわたる封印が解かれたのは、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に代々伝わる「宮下文書(みやしたもんじょ)」という古文書でした。

photo:01


「竹内文書」と共にいわゆる古史古伝のひとつに挙げられます。

幻の富士王朝の事を語る前に、今日は、その記録がどのように今日まで守られて来たのかをお伝えしたいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★★★

富士山のふもとには、かつて世界一の都・神の住む都が存在していた!

宮下文書には、神武天皇が現れるはるか昔の超古代において、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承について書かれています。

さらに興味深いのは、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられているのです。

紀元前3世紀頃、中国の方士・徐福は、秦の始皇帝に不老長寿の仙薬を求めるように命じられ、3000人の男女を率いて船に乗り、東方の蓬莱山(ほうらいざん)目指して大海に乗り出したという話は有名です。

徐福はその後、行方知れずになったと伝えられていますが、実は秘かに日本列島に来ていたようです。

探していた蓬莱山とは、富士山の事だったようです。

徐福は、第7代孝霊天皇の時代に、富士高天原の阿祖谷に辿りつきました。

そこで、徐福らは学問を教え、養蚕に従事してその地に織物を伝えたのです。

そして、この地にいにしえの富士王朝の栄光の歴史が伝えられている事を知ると、深く感銘を受け、口承だけでなく系譜や古記録なども自ら文字に記録して、それぞれ文書として残していきました。

その時、彼が参照した古記録は、神代文字という古代文字で書かれていましたが、徐福はそれを翻訳し、漢字の文書に改めたのです。

その文書は、その後も徐福の子孫らによって書き足され、膨大な古文書群となりました。

その総称が「宮下文書」と云われているのです。

では、「宮下文書」を守って来た宮下家とは、どういう人たちなのでしょうか。

これらの貴重な記録は、宝物として阿祖山太神宮に収められ、スサノオの末裔とされる尾羽張田彦命と福地姓となった子孫らによって守られる事になりました。

そして、第8代福地佐太夫の時、応神天皇の皇子・大山守が徐福の学問を慕って阿祖谷を訪れます。

大山守はそのまま阿祖谷に住み着き、佐太夫の娘と結婚し、福地氏の跡取りとなり阿祖山太神宮の大宮司を継ぎ、宮下の名前を名乗るようになりました。

徐福といい、応神天皇の子といい、スサノオの末裔といい、そうそうたるメンバーが「宮下文書」には関わっていた事が分かります。

でも、世の中には認められていないのですが。。

しかしその後、徳川家綱の時代、大明見村の庄屋を務めていた宮下家の当主が、過酷な年貢の取り立てに悲鳴をあげた村人たちの為に幕府に陳情に向かい、処刑されてしまうという出来事が起こったのです。

宮下文書には、徳川家の出自にまつわる秘密も記されていた為、発覚を恐れ、宮下文書は厳重に密封されて屋敷の天井裏に隠されることになりました。

そして、みだりに開封すれば目がつぶれるという家訓まで作られたのです。

こうして長い間、宮下文書は誰の目にも触れられず、沈黙を守り続けました。

やがて、明治16年(1883)になってようやく宮下文書の封印が解かれる日がやって来ます。

宮下家の第77代目当主の時代になっていました。

神々に祈祷を捧げた後に開封すると、中から膨大な数の古文書が出現し、解読もままならぬほどだったと言います。

その為、「宮下文書」が本格的に解読・研究され、その概要が公になるには、さらに40年後の大正10年(1921)までの月日を要したのです。

膨大な「宮下文書」のダイジェスト版「神皇紀」が出版されると、当時の人々は驚きました。

そこには、神武天皇以前に富士山を舞台とした壮大な歴史があったと書かれていたからです。

偽書といわれる「宮下文書」ですが、富士山噴火の描写は何よりも詳しく正確に記録されており、かつて富士山のふもとには「宇宙湖」があった事など、富士五湖誕生の秘密まで載っているのです。

これら湖形成の様子は、現在の地質学の研究結果とほぼ一致する事実である事が分かっており、宮下文書の信憑性が認められている所以でもあります。

「宮下文書」によって、誰もが驚く様々なことが明らかになって来ました。

一体どんな事が書かれていたのでしょうか。

その続きはまた後日。。